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              ウィーン日記             2014・9・28〜10・5                                     
ハプスブルク家紋章 双頭の鷲

2013年暮れに発売された「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」(塩野七生著:新潮社)上下巻を一気に読み上げたお正月明けに、
新聞広告で見つけた「古事記」の旅ガイド本を買うために立ち寄った書店で、
「ハプスブルク家の光芒」(菊池良生著:筑摩書房)と「パンの文化史」(舟田詠子著:講談社学術文庫)という2冊も購入しました。
ハプスブルク家は、フリードリッヒ二世亡き後、神聖ローマ帝国の皇帝位をほとんど独占していくことになる家系への興味で、
「パンの文化史」は著者の舟田さんが70年代に近所に住んでいらしたというご縁に懐かしさを誘われたものでした。


「パンの文化史」に続いて、80年代に転居した後、舟田さんから送っていただいていた「アルプスの谷に亜麻を紡いで」を再読し、
「覚えて下さっていますか」というEメールをお送りすると、
現在もウィーンにアトリエを構えて研究を続けていらっしゃる舟田さんがたまたま帰国中と分かって、
30数年振りの再会を果たし、その折にウィーンのゲストルームへのお誘いを受けたことが
ハプスブルク帝国の都ウィーンへの旅のプロローグとなりました。

「古事記 神話を旅する」は2月の伊勢、5月の諏訪へとつながり、2冊の文庫本はウィーンへ直結することとなり、
稀有な幸運を誘い込んでくれた書店に感謝の年となりました。


 28 Sept.2014

今回の旅はウィーンは初めてという7歳年下の従妹に相棒を務めてもらいました。
「ウィーンは2度行ったから、もういい」という夫は、戦後最悪の火山被害となった御嶽山の噴火雲を北八ヶ岳の山小屋から見ながら、
「行ってらっしゃい」メールを送って来ました。


7時過ぎに家を出て、T−CATから乗車したリムジンバスは、渋滞情報によって湾岸道路を避け、京葉道路で成田へ向かいましたが、
通常の所要時間の1時間足らずで、9時前に第1ターミナルに到着しました。
送っておいたスーツケースをピックアップして、待ち合わせの9時半より少し早目にオーストリア航空カウンター前で従妹と合流し、
順調に手続きを済ませて、搭乗ゲート前でおしゃべりをしながら出発を待ちました。




オーストリア航空B777−200機は、定刻の11時20分に飛び立ちました。
3・4・3席というエコノミー席の窓側2席が割り当てられ、乗りこんで来る人達の動きをどきどきしながら見守る一幕もありましたが、
幸いにも内側のアイルシートは空席のままとなって、2人で3席を使う快適さを確保することが出来ました。


    

オーストリア航空は3度目で、簡素な機内食に驚くことはありませんでしたが、
同じ業界に仕事を持つ従妹は、日本語の機内誌があることにオーストリア航空の頑張りを感じたようです。
左写真に「KISO」というミネラルウォーターが写っていますが、やがて御嶽山噴火の影響がこのような所にも表れて来るのでしょうか、
噴火後2週間を経た現在も困難な捜索活動が連日続けられています。



定刻の4時10分より15分ほど早く、3時55分にウィーン国際空港に着陸しました。
オーストリア航空提携のタクシー会社に舟田さんが手配をしておいて下さいましたので、
ネームカードを持ったドライバーを見つけ、予約確認書コピーを見せるだけで目的地まで運んでもらえる気軽さでした。
ベンツのワゴン車を運転するドライバーの強引なハンドルさばきには従妹の気が休まらなかったようですが、
5時頃、舟田さん宅に無事に到着することができました。


    

「家の入口右手の表札の所のボタンを押して、ジーという音がしている間に中に入り、
ホールの突き当り左手の階段を3階まで上がってください」というメールでのご案内通りに階段を上がって行くと、
部屋の前で舟田さんが「ようこそ」とにこやかに出迎えて下さいました。
スーツケース2つは、予約確認書に書き添えた通り、3階までタクシー・ドライバーに運び上げてもらうことが出来ました。


    
1週間滞在させていただいたゲストルーム

    

ゲストルームに荷物を置いた後、舟田さんのアトリエで心づくしの軽食をいただきました。
セロリやパセリの根、黄と赤の2種の人参が入った牛肉のスープ、様々な具の入った卵料理、おしゃれなメレンゲを添えた果物が
機内食の物足りなさを埋め、長旅の疲れをいやしてくれました。

6時過ぎに家を出て、ご用で大学まで出掛けられる舟田さんに周辺のご案内をいただきながら、ヒーツィング駅まで歩きました。
高級住宅街として有名なウィーン13区ヒーツィングは街並みだけでも見応えがありそうでした。


隣接するシェーンブルン宮殿の7時の閉園時間まで30分余りありましたので、ヒーツィング門から入って、
1882年に造られたヨーロッパ最大の温室パルメンハウスやマリア・テレジアの婚約式が行われたという教会の外観を見ながら、
宮殿内庭園をのんびりと散策しました。
つい半日前に発った日本がはるか遠くに感じられ、薄い現実感の中に、ウィーンへやって来た!という喜びも湧いて来るようでした。



ロンドン国際庭園博覧会で日本庭園を見たシェーンブルン宮殿の造園家によって1913年頃に造られた後、
森の中に埋もれてしまっていた庭園を偶然に発見、日墺の関係者の協力によって修復が行われ、
1999年に公開された日本庭園が温室と動物園の間にありました。
吉祥を表す鶴亀の置石や音楽の都ウィーンを象徴する五線譜の敷砂模様が両国の友好を祈念するという枯山水庭園です。




日本庭園の前で、「これは日本のものですか」と日本語で話しかけてきた男性は、
「伊勢原市で16年間ペンキ屋をしていました」という現在はキプロス在住のイラン人でした。
「今話しているのは日本語になっていますか」などと奇妙な質問を受けながら、
「イランへ2回行ったことがありますよ」などと日本語、英語まじりでしばしの立ち話が弾みました。

7時過ぎにゲストルームへ戻り、シャワーを使ったり、荷物を整理したりしている所へ戻っていらした舟田さんから、
改めて、ゲストルームの設備などの説明を受け、翌日の簡単な打ち合わせをした後、10時に就寝しました。



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