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29 Sept.2014
    
バルコニーからの眺め



今回は英語圏でB&Bと表現する朝食付きで部屋をお借りするというスタイルでゲストルームに滞在させていただきました。
朝食に重きを置き、昼食は軽く、夕食はとらないことが多いという舟田さんの習慣に、
私達も基本的には沿わせていただくことに決めた初日の朝食のテーブルです。

数種類のパン、チーズ、ハム、ジャム、ミューズリー添えヨーグルト、果物などが美しくセッティングされた様子は、
「お昼がいらない程リッチな朝食」とメールで伺っていた通りのものでした。
窓の外の紅葉した木をお相伴に、ゆっくりと朝食を楽しみながら、オーストリアの食事や生活全般にわたるお話を伺っていると、
お茶も紅茶からコーヒーへ代わって、9時から始まった食事が2時間近く続くことになりました。



アルノルト・シェーンブルク(1874−1951)

アルバン・ベルク(1885−1935)

滞在型ならではのゆったりした朝の時間を過ごした後、11時半に舟田さんのご案内でヒーツィング散歩に出掛けました。
ウィーン有数の高級住宅街ヒーツィングは、1800年代前半のビーダーマイヤー様式、後半の歴史主義、
20世紀へと時代をつないだ分離主義(ユーゲントシュティール)という歴史を語り継ぐ建物を多く残した街で、
舟田さん宅の程近くには、20世紀を代表するオーストリアの音楽家師弟のシェーンブルクやベルクが住んだ家もありました。


左は舟田さん宅バルコニーから見た最初の写真に屋根が写っている個人邸宅の正面です。
内側にはおそらく建物に相応しい広大な、日本とは単位が違い、ヘクタールで表す中庭があるのではと思われます。

右はナポレオンとフランツ2世の皇女マリー・ルイーズとの間に生まれたライヒシュタット公(1811−1832)の主治医であった
マルファッティ男爵家の門番の家で、その奥の広大な丘にあった屋敷を訪れたショパンがピアノを演奏したと伝えられます。



マルファッティ男爵家があった丘の木立の中の小さな散歩道を抜けて、路面電車が走るラインツァー通りを渡りました。
段差18cmと床が低く、Ultra Low Floor Tram(ULF)と呼ばれる市民の足のトラムですが、
古い街の中の通りでは、このような渋滞がしばしば見られるのかもしれません。





住宅街に入ると、「喧噪を離れて、自分の牛を使って父祖伝来の田舎の土地を耕すものは、幸いである」という
イタリアの詩人ホラティウス(BC65−BC8)のラテン語文を壁に付けた建物がありました。
「ローマはギリシアを征服したが、文化ではギリシアに征服された」「面白くてためになる書物が良書なのである」など
塩野七生さんも著書に引用することの多いホラティウスの叡智は、2000年の時を経てなお生命を保ち続けているようです。






散策しながら、目に留まるままにカメラを向けた建物の写真です。
ハプスブルク家の夏の離宮であったシェーンブルン宮殿の周りに上流貴族達が建てた別荘や、
19世紀の市街地拡張と共に建てられた建物が軒を連ねるアルテ(=古い)ヒーツィングは、街そのものが博物館のようでした。




生誕150周年の2012年に修復して公開されているフェルトミュールガッセのクリムトのアトリエまで足を延ばしました。
休館日であることは承知していましたので、晩年の6年間を過ごしたアトリエの外観だけをカメラに収めました。
世紀末の芸術家たちも数多く住んだヒーツィングには、クリムトの愛弟子であったエゴン・シーレの住まいも残っているようです。



エネルギー政策の先進国であるオーストリアならではの低コスト・エネルギー・ハウスという集合住宅もありました。
古さと新しさがマッチした街並みの中で、レトロな郵便屋さんが景観のひとつになっているように見えました。

 

再び、グロリエッテガッセへ戻り、ヴァットマンガッセを通って、フリードホーフ(=共同墓地)へ向かいました。



上の写真はフランツ・ヨーゼフ皇帝(1830−1916)の愛人カタリーナ・シュラット(1853−1940)の屋敷であった建物です。
エリザベート皇妃(1832−1867)公認の関係だったそうで、イニシャルも堂々と刻まれていました。


フリードホーフ・ヒーツィングはシェーンブルン宮殿の南西の一画にありました。
舟田さんが最初に案内して下さったのはマルファッティ男爵家のお墓で、ポーランド貴族であった夫人の名前も刻まれていました。


    

広大な墓地に、形も大きさも様々なお墓が、見渡す限り続いていました。
真中はヨハン・シュトラウスの姉妹や最初の夫人のお墓で、シュトラウス父子は中央墓地の方に眠っているようです。



クリムト墓


本人のサインを刻んだだけのクリムト(1862−1918)のシンプルなお墓と対照的だったのが、
エンタシスを施した6本の赤大理石の柱で囲まれた重厚なオットー・ワーグナー(1841−1918)のお墓でした。
生涯を独身で過ごした画家と、紙幣にも肖像を残した建築家の違いといえるのでしょうか。




今回、フリードホーフを訪れた目的のひとつであったクーデンホーフ光子のお墓です。
1990年代に名前を見聞きした記憶はあるものの、ほとんど関心を持たなかった光子のことですが、
今回のウィーン行きが決まった後、従妹からのメールでふと興味を覚え、関連書を数冊読んでみました。

オーストリア駐日公使代理として来日したハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー(1859−1906)と
東京府に届けられた初の国際結婚といわれる青山光子(1874−1941)の結婚にいたるいきさつは、
本人が残した「クーデンホーフ光子の手記」(シュミット村木眞寿美 編訳 河出書房新社)によっても真相は不明ですが、
1892年の入籍後、後に欧州連合の基礎を築くことになったリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーら2人の男の子と共に、
1896年に渡欧して、7人の子供を育てたあげた後、故国の地を再び踏むことなく、67歳の生涯を閉じたことが知られています。

チェコのロンスペルクにある夫ハインリッと同じお墓に葬ってほしいという光子の願いは叶えられませんでしたが、
クーデンホーフ家の立派なお墓にハインリッヒの両親や長女エリザベートと共に眠っていることが分かりました。
墓室の鉄製金具に千羽鶴が結び付けられている所に日本人の気配がありました。



少し回っただけでもハプスブルク帝国が多民族国家であったことが分かるフリードホーフを後にして、
「この坂を下ると光子が住んでいた家(マクシング通り12番地の新築家屋2階の大きなフラットを借りていた様子)があるのよ」と
舟田さんから伺いながら、シェーンブルン宮殿のグロリエッテへ向かいました。
道路脇の街路樹の脇に見えるパイプは、渇水期に木に水やりをするためのものだそうで、
水を効率よく、確実に根へ届ける装置ひとつにも、エネルギーを大切に使う国の知恵が秘められているようでした。



今フランツ・ヨーゼフの弟でメキシコ皇帝となったマクシミリアン(1832−1867)が所有していたマクシング・パークを抜け、
オーストリア連邦政府森林局(BFW)の門から、シェーンブルン宮殿の敷地へ入って行きました。


  

リスやエミューが出迎えてくれるところは、さすが森の国という所でしょうか。
最もエミューはオーストリアではなく、オーストラリア生まれのようですけれど・・・。


    


明るい林床に咲いていたシソ科の小花

森の中の小径を歩き始めてすぐに、日が降り注ぐ林床の明るさに目が留まり、
大きくなった木の枝打ちや剪定の仕方、樹木の更新の方法に、森管理の長い歴史があることが感じられました。
所々に森を切って造られた草地斜面は、冷気を都心へ届けるための風の道で、害虫の蔓延も防止しているそうです。



森を抜けると、グロリエッテの西の側面が見えました。
実は、2006年11月の「ドナウ・クルーズ」でウィーンへ寄港した時に、
「遠くに見えるグロリエッテはプロイセンとの戦いの戦勝記念に1775年にマリア・テレジアが建てたパビリオンで、
上部には帝国の象徴、巨大な鷲が地球の上に立って翼を広げているそうですが、以前にここへ来た11年前も、
今回もそこまで歩く時間がありませんでした。次回に3度目の正直を期したい所です。」
記録を残していますが、正に3度目に、グロリエッテから徒歩圏に宿泊滞在するという幸運に恵まれた訳で、
正面側が逆光であった残念くらいは我慢しましょう、という所でした。



カフェ内の壁


JOGHURTBECHER

2時過ぎから1時間余り、グロリエッテ内のカフェでヨーグルト・スィーツで一休みした後、舟田さんと別れて、
先ず、グロリエッテの屋上展望台から眺望を楽しみました。




左上に見える山並みが東京23区の2倍余りの面積を持つというウィーンの森で、
画面中央の山が終わるあたりに、翌日訪れる予定のカーレンベルクやレオポルツベルクも見えていました。



ネプチューン噴水

グロリエッテから宮殿本館まで1.2km、建築家ヨハン・フェルディナント・フォン・ホーエンベルクに命じて、
マリア・テレジアが1780年に逝去するまで増改築に力を注いだと伝わる広大な庭園を、写真を撮りながら歩きました。

4時前に宮殿本館に着いて、宮殿内部見学ツアーに参加する従妹はチケットを購入し、
2度見学したことのある私は、本館正面で5時におち会う約束をして、植物園へ行くことにしました。




もう一度、庭園へ回って、グロリエッテとパールテーレ(花壇)の景観を堪能してから植物園へ向かいましたが、
160haという宮殿敷地の広さを甘く見過ぎていたようで、戻ってくる時間を考えると、
植物園の見学時間はほとんど取れないことを途中で悟り、庭園散歩だけで諦めることになってしまいました。
それならば行ったことがのない庭園東側を狙えば良かったと思っても後の祭り、西側のぶらぶら歩きしか出来ませんでしたが、
整然と造られた宮殿庭園仕様の森に防火、防風対策が見て取れる所は発見のひとつでした。


ドングリを隠して冬支度中のリス


宮殿本館正面

現在はカフェなどに使われている元兵舎棟


日本語オーディオガイドが災いして?日本人団体客の大きなおしゃべり声が邪魔だった、と少し渋い顔の従妹と合流して、
「本日はシェーンブルン宮殿をご訪問いただき、ありがとうございました。近いうちにぜひまたお越しください。お気を付けてお帰り下さい。」
という立て看板に見送られて、5時過ぎにUバーン(=地下鉄)のシェーンブルン駅へ向かいました。

シェーンブルン駅のチケット自動販売機で、舟田さんのお勧め通りに1週間チケットを買おうとしたのですが、
1度エラーを起こした後、2度目は間違いないと、2人分32.4ユーロを入れようとした所、
20ユーロ札に続けて入れようとした10ユーロ札が入らない上、20ユーロを払い戻すキャンセルも出来ず、困惑していたら、
後ろに並んでいた赤ちゃん連れの若い女性が自身のクレジットカードでチケットを購入して下さった後、スマホで連絡を取って、
無人のシェーンブルン駅から二駅先の有人駅レンゲンフェルトガッセで払い戻しを受ける手筈を整えて下さいました。




ところがレンゲンフェルトガッセ駅では、自販機の確認をした後に日本の口座へ返金することしか出来ないと言われ、
再び困惑事態となりましたが、この女性が「OK、分かった」と20ユーロを私達に差し出して、
代わりに自身のカードへ振り込む手続きをして下さることになりました。
重なる親切にひたすら恐縮する中、「ウィーンを楽しんでくださいね」とにこやかに見送って下さいましたが、
女性のEメールアドレスを尋ね忘れてしまったことが、今なお悔やまれています。



この夜は、従妹がチーズ好きと知った舟田さんが推薦して下さったお店でのチーズ・ディナー?を決め込み、
ウィーン唯一のミシュラン二つ星レストラン「シュタイラーエック」併設の「カフェ・マイエライ(=農場)」へ行きました。
レンゲンフェルトガッセ駅から5駅、カフェ最寄りのシュタットパーク駅に着いたのは6時前で外はまだ明るかったのですが、
写真は帰りの8時過ぎに撮ったもので、夜景色となっています。


  

国別やミックスのチーズ・メニューがありましたが、私達はオーストリア産の二人用プレートを注文しました。
手前から時計回りにいただくというルール通りにいただき、9種類(+サービス1種?)が終わる頃には
さすがにチーズに飽き始めたことは否めませんでしたが、新鮮な体験となりました。

ワインとチーズでウィーンな夜?を過ごした満足感と共にお店を出る前に寄ったトイレでは、
「Damen」をmenと読んだ従妹に従い、「Herren」つまり男性用に入ってしまったというハプニングがありましたけれど、
中で人に出会わなかったことを幸いの笑い話として、
8時半過ぎには無事にゲストルームへ戻って、旅の2日目が暮れて行きました。



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