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30 Sept.2014
    

日目の朝食の時に、先ず目に入ったのは左の金属製蓋付きの素敵な食器でした。
中に入っていたのは蒸したまご料理で、日本の茶碗蒸し椀に近いものでしょうか、テーブルの雰囲気をおしゃれに盛り上げていました。
ボケ写真ですが、ジャムのトレーに加わった薄茶色の小容器はリエットではなく、栗のペーストで、
右上のソフトサラミのようなハムをオーストリアではウィンナーと呼ぶそうです。
右のパンにはドライフルーツやナッツが入っていましたが、甘過ぎず、ハムやチーズにもよく合っていました。



朝方までの雨も食事中に止んで、この日は舟田さんのご案内でドナウ川方面へ遠足に出掛けることになりました。
10時45分に出発、トラムでグロリエッテガッセからヒーツィングへ出て、カールスプラッツで地下鉄U4からU1に乗り換えて、
11時半前に看板中央に位置するドナウ川の中洲駅ドナウインゼル(=ドナウ島)に降り立ちました。

19世紀後半にフランツ・ヨーゼフ帝が行ったウィーン都市改造の一環として、
氾濫を繰り返すドナウ川を直線にする第一次河川改修工事が1870年より5年かけて行なわれましたが、
1970年より行なわれた第2次改修工事では、本流と並行して、新しい放水路のノイエドナウ(=新ドナウ)川が造られ、
それを掘削した時の残土を利用して、ドナウインゼルが出来上がりました。

看板写真の左手が本流、中洲のグリーンベルトがドナウインゼル、右手がノイエドナウ川となっていて、
自然のままを基本理念としたレクリエーションゾーンとして計画された長さ21km、最大幅210mのドナウインゼルは、
40年余りを経た今、市民のレジャーランドとして、しっかりと定着しているようでした。


ドナウインゼル駅に降り立った時、目に飛び込んできたのはフランツ・ヨーゼフ即位50周年記念教会でした。
2006年にブダペストからパッサウまでドナウ・クルーズをした時、2泊3日ウィーンに寄港した時の河岸との思いがけない再会に、
驚きと懐かしさが湧き上がって来ました。



看板で確認することが出来るように、中洲に造られたワンド(=湾処)がビオトープとなって、自然度の高い景観となっていました。
中洲の基盤は河川水の出入りが可能な砂礫で造成され、礫間浄化が行なわれる構造となっているそうです。



再びU1に乗って、ノイエドナウの北東に位置する2駅先のアルテドナウ(=旧ドナウ)駅まで行きました。
ニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ3番目のUNO CITY(国連都市)として、
IAEA(国際原子力機関)、UNIDO(国連工業開発機関)などが本拠を置く1970年代のニュータウンの建物群や、
1964年の国際ガーデンショーの時に造られた高さ252mのテレビ塔ドナウタワーを見ながら橋を渡って、
第一次河川改修工事の時にドナウ本流から切り離されて出来た湖、アルテドナウまで下りて行きました。

 

アルテドナウ湖畔のカフェで12時半頃にティータイムを取りました。
夏のシーズンには予約なしでは座れないというカフェも、10月に入ろうという季節には訪れる人もまばらなようでした。


泡立てたミルク入りコーヒー“Melange”


一休み後、舟田さんのご提案で、近くにあるクラインガルテンを見に行きました。
日本でも市民農園として普及し始めているクラインガルテンは、200年の歴史を持つドイツの農地貸借制度に由来するようですが、
ウィーンのクラインガルテンは20世紀初頭に労働者の健康のための運動として始まり、
大戦中の食糧不足の緩和に利用された時代を経て、現在は宅地或いは別荘地として利用されているようで、
車の乗り入れが禁止された路地の両側に並ぶ家には、野菜畑はなさそうに見受けられました。



アウトドア・レジャーのメッカのようなアルテドナウで、週日の日中に出会うのはシルバー世代ばかりのようでしたが、
ドナウから大きな恩恵を受けているウィーンの市民生活の一端を見る水辺散歩となりました。

新旧のトラムが発着するショッテントーア駅

2時前にアルテドナウを出て、シュヴェーデンプラッツで乗り換えてハイリゲンシュタットへ向かおうとしたのですが、
U4路線は何かのトラブルで止まっていることが分かり、カールスプラッツからトラムを乗り継いで、グリンツィングを目指すことにしました。
ウィーンでは起きていることやこれからの見通しを知るという努力は報われないことが多く、トラブルにぶつかった時には、
さっさと別の手段を考える方が得策というお国柄のようです。



トラム37&38の分岐点

グリンツィング

リングを走るトラム1でウィーン大学前のショッテントーアへ出て、トラム38に乗り換えてグリンツィングへ向かう途中、
「この次はホーエ・ヴァルテに家を見つけようと思っているのよ」と舟田さんから伺い、「そこに世田谷公園があるらしいです」と言うと、
「じゃ、そこへ行きましょう」とあっという間の決断で、トラム38から37へ乗り換えることになりました。
ところが37と38の分岐点あたりでトラムを待っていると、38の路線を37のトラムが走って来るのが見え、
ここでも何だか訳の分からないトラブルが発生していることが判明、運転手や乗り合わせた人に聞いても釈然としないまま、
再びトラム38で当初の目的地グリンツィングへ行くことになりました。




グリンツィングでバス38Aに乗り換えて、標高425mのレオポルツベルクまで丘を上って行きました。
BC1300〜1200頃の新石器時代の墓が発見されているレオポルツベルクには
オーストリア辺境伯レオポルト3世(在位:1095−1136)が1106年に築いた城砦跡の展望台がありましたが、
夕刻4時を過ぎていたせいか、もやがかかって、ウィーン旧市街まで望むという幸運には恵まれませんでした。
それでも眼下に広がるドナウ川のパノラマには充分な見応えがありました。



 

21km続くドナウインゼルの上流部の最先端や、ノイエドナウの水位調節のための水門を確認することも出来ました。
レオポルツベルクから見える3つの水路の「美しく青きドナウ」度は、手前の湖水地、ノイエドナウ、ドナウ本流の順番と見受けられました。



ウィーン市街地方面

クロスターノイブルク

少し上流にオーストリア辺境伯ハインリッヒ1世(在位:994−1018)がローマの砦の上に築いた新しい城(=ノイブルク)の街、
レオポルト3世時代にはバーベンベルク家の政治の中心地であったクロスターノイブルクを遠望することも出来ました。
ハプスブルク時代にはカール6世が夏の宮殿や修道院を建造していましたが、
父の急逝後、マリア・テレジアは計画を引き継ぐことなく、シェーンブルン宮殿に住む方を選択したようです。


1529年にトルコ軍によって破壊された城砦の一部や18世紀に修復された修道院や教会があるようですが、
人の気配もなく、内部見学は出来ないように見えました。



1683年のトルコとの戦いに活躍したウクライナのコザック兵を称える3人の男性像の前を通って、
レオポルツベルクからカーレンベルクまで、森の小径を30分ほど歩きました。
ウィーンの森の北辺を歩いた訳ですが、印象的だったのは森を形成している木々の幹の細さでした。
コザック兵像の左に大きな木の切り株が見えていますが、
人工的な森林更新なのか、何らかの要因による荒廃からの立ち直り途上なのか、
遠目には小高い丘陵としか見えないウィーンの森の意外とも感じる現実の姿に出会った思いがしました。


森林アスレティック公園ヴァルトザイルパーク

森の中にはかなり大規模な森林アスレティック公園もあり、市民生活とレクリエーションの高い密接が窺われて、
都心のほど近くにこのような恵まれた環境があることに羨ましさも感じました。



聖父子像

    
1734年に再建された修道院付属教会

  
  ポーランド王ソビエスキー(1624−96)  ヨハネ・パウロ2世教皇(1920−2005)

オスマントルコ軍の第2次ウィーン包囲の折、ポーランド王ソビエスキーとロートリンゲン公カールが率いるキリスト教連合軍が集結し、
総攻撃を開始したと伝わるカーレンベルクに5時15分過ぎに到着しました。
戦いの前にミサを上げたという聖父子像のある修道院付属教会の正面には、
ポーランド王ソビエスキーと並んで、ソビエスキーと同じポーランド人であったヨハネ・パウロ2世教皇が、
戦いからちょうど300年後の1983年9月13日に、この勝利の地を訪れたことを記念するレリーフが嵌め込まれていました。
祭壇の前には演奏を録音している音楽家達の姿が見られました。



標高484mのカーレンベルクまでは1874年から1914年までアプト式登山電車が開通していたそうで、
レストラン、カフェ、土産店が並ぶ教会周辺は古くからの観光地であったことが窺えました。

丘のテラスからブドウ畑や住宅街の景観を楽しみましたが、ここでせっかく持ってきたコンパクト双眼鏡の中身が自身のツァイスではなく、
夏休みに長女一家に貸した時に国産のものと入れ替わっていたことに気付き、もやが余計に深く感じられるようでした。
右写真にぼんやりと見えるフンデルトヴァッサー設計のごみ焼却炉辺りがウィーン19区ドゥブリングで、
この日、寄ってみようとした世田谷区との姉妹区提携記念に造られた世田谷公園もあるあたりです。




再びバスに乗って、6時15分頃にグリンツィングまで戻り、様々な趣向で誘い込むホイリゲをいくつか覗いた後、
「ツム・マルティン・ゼップ」というお店に入りました。
1784年にヨーゼフ帝が自家製ワインと料理を提供する居酒屋を法的に認定したのがホイリゲの始まりとされ、
「STURM MOST」というブドウの葉の看板は9〜10月に出回る発酵直前や半発酵のブドウ・ジュース(半ワイン?)のことのようです。



私達をホイリゲまで案内して下さった後、一足先に帰られる予定だった舟田さんは、
この日の立て続けの交通網の乱れを心配して、食事が終わるまでお付き合いくださることになりました。


  

舟田さんの一押しのホイリゲ名物料理は、豚の骨付き足首肉をグリルしたシュラルツというお料理でした。
ハウスワインとビュッフェ形式で選ぶ野菜料理と共にホイリゲの雰囲気を楽しんだ後、7時40分頃に帰途につきました。

帰りはショッテントーアまでトラム38で戻った後、地下鉄を乗り継いでヒーツィングまで戻りました。
路線の乱れで少し効率の悪い遠足となりましたが、効率という点では日本とは対照的ともみえる国民性も垣間見られて、
ドナウやウィーンの森の自然だけではないウィーンを味わい、思い出深い一日となりました。


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