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2 Oct.2014


5日目の朝食には昨夜のロッコロ・ロマネスコの芯部分が炒められて、添え野菜として登場していました。
黒パン、ハム、チーズなど舟田さんの選りすぐり品が並ぶ食卓です。



ヒーツィング駅

ウィーン・マイドリンク駅Sバーン

11時に出発して、レンゲンフェルトガッセ駅でU6に乗り換えてウィーン・マイドリンク駅へ行き、
オーストリア連邦鉄道近郊線Sバーンのチケットを買って、ウィーンの南20kmに位置するメードリンクへ向かいました。
12時過ぎにメードリンク駅に到着して、先ず、インフォメーションを探して、地図と飲み物を入手しました。



ビーダーマイヤー様式の建物

市立博物館

駅を出て、ビーダーマイヤー時代の建物が残るハウプトシュトラーセを西へ500mほど歩くと市立博物館がありました。
「光子ゆかりの品が常設展示されている筈」という私のあいまいな記憶を、舟田さんがネットで確認して下さって、
この博物館見学を楽しみのひとつとしていたのですが、すぐに建物を見つけられたことを喜んだのもつかの間、
「一時まで昼休み」と受付で言われ、それではと、街散策を先にすることにしました。



石畳が素敵な街並みに足を踏み入れた途端に、遠足にメードリンクを選んだことが正解だった!と意見がまとまりました。
後でゆっくりと地図を見ると、今まで来たハウプトシュトラーセをさらに西へ行くと、ベートーベンが1818~9年の夏に滞在し、
荘厳ミサ曲、ディアベリ変奏曲、メードリンク舞曲などを作曲したハフナー・ハウスがあったようですが、
私達はそれに並行した一本北側のクロスターガッセを西へ向かって歩きました。

 

ヘルツォークガッセ

ハウプトシュトラーセとクロスターガッセの合流点に1714年に造られたペスト記念柱がありました。



ペスト記念柱を過ぎてヘルツォークガッセに入ると、センスの良い家庭用品のお店が軒を並べていて、
各駅停車ならぬ各店入店という状況となりました。
ホウロウのミニ・パン、テーブルクロス、キッチンクロス、紙ナプキンなどが買い上げられていく中で、
私は朝食のテーブルに登場しているポット・ウォーマーを探しましたが、良い出会いには恵まれませんでした。



市庁舎

さらにに西へ進むと、美しいルネサンス様式の市庁舎がある広場に出ました。
この市庁舎は下オーストリア州で人気の高い式場で、年間1200組が結婚式を挙げるそうです。


  

市庁舎の時計下の紋章には1548年と書いてありますが、少し先の建物には1950年という紋章が取り付けられていました。
第2次世界大戦後、1955年までソ連に占領されていた地域ですが、メードリンクには一足早い自治が訪れたということでしょうか・・・?
長い歴史を見て来た市紋章のドラゴン達です。


    

壁のフレスコ画の日時計や花屋さんディスプレイなど、街歩きの目を楽しませてくれるものにも事欠かない街で、
ハプスブルク時代からの高級避暑地であった面影、伝統が感じられました。



市庁舎を過ぎるとゆるやかな上り坂のプファルガッセが続いていました。
道路の真中に低いポール柵を設置して車の通行を制限し、旧市街地の環境を守っている様子が随所で見られました。



聖オトマール教会

KARNER(=納骨堂)

坂を上り切ると、聖オトマール教会と納骨堂のある広場に出ました。
石造りの景観に秋景色がよく似合い、落ち着いた空気が静かな気持を誘ってくれる一画でした。



納骨堂のロマネスク装飾

納骨堂は13世紀のロマネスク聖堂の上に17世紀末にゴシック塔が付け加えられたものです。
左写真の狩りのレリーフが貴重とされ、内部のアプス(=至聖所)にはビザンチン様式のフレスコ画が残っているそうです。
アーチ型ロッジアやタンパンの彫刻文様にも東方の影響が感じられ、興味深いものがありました。



    
後期ゴシック様式の聖オトマール教会

聖オトマール教会は1454年に着工、1523年に完成しますが、1529年と1683年の2度のオスマン・トルコ包囲時に破壊し、
内部のバロック装飾は1690年、ステンドグラスは19世紀後半に再建されたそうです。
高祭壇はマリア・テレジアの奉献と伝えられています。

「ミツコと七人の子供たち」(シュミット村木眞寿美 著 河出文庫)には、
1932年に「メードリンクで行われたハプスブルク家のアントン大公とルーマニア王女イレーネの王子シュテファンの洗礼式に
ルーマニアの女王とセルビアの女王が訪れた時には、光子は謁見を望まなかった」と書かれていて、
聖オトマール教会が王室とも深い関わりを持つ格式ある教会であることが分かります。


 

    


キルヒェンガッセ

水道橋

教会の中を見学した後、高台からの景観を楽しんだり、周りを散策して、街中とは違った雰囲気を味わいました。

1873年に建設されたWiener Hochquellenleitung(=ウィーン天然水パイプライン)は現在でも現役で使用されていて、
このアルプスからのパイプラインによって、ウィーンの年間飲料水総量の半分以上がまかなわれているそうです。
メードリンクの街の西端を1999年から5年かけて改修された真新しいレンガの長さ186mの水道教橋が通り、
「the gates of Vienna and at the foot of the Wienerwald」と街のパンフレットの案内通りの景観を見せていました。



シュピタール教会

カイゼリン・エリザベート通り

ブリューラー通りの15世紀建造のシュピタール教会を少し覗いた後、2時を過ぎて、少しお腹が空いて来ましたので、
「高いばかりで美味しくない」レストランよりは、「安くておいしい」肉店の方がよいという舟田さん案で、
カイゼリン・エリザベート通りの肉店「RADATZ」でランチ休憩を取りました。




  

店内の窓際のテーブルで、実質重視のランチ・プレートをシェアしていただきました。
ウィンナー・シュニッツェルをまだ食べていない、ホイリゲの骨付き肉グリルは美味しかった・・・などと言いながら選んだものですが、
地元流のこのような気軽さも悪くありませんでした。


市庁舎のレストラン

昼食後、カイゼリン・エリザベート通りの市庁舎レストランやバーベンベルガ―ガッセの芸術文化センターの前を通って、
メードリングの旧市街の雰囲気を味わいながら、市立博物館へ戻りました。


3時40分頃、市立博物館に到着しましたが、待っていたのは、固く閉ざされてしまった入口の扉でした・・・・。
どうやら週日の開館は1時までだったようで、女性係員の不親切と聞き違いで起きた残念ですが、
12時半に着いた時に30分でもよいから見れば良かった、という思いは後の祭りとなってしまいました。

それでも気を取り直して、「ミツコと七人の子供たち」に書かれていた記憶をたどって、建物の裏手へ回ってみると、
「光子・クーデンホーフ=カレルギー記念庭園」がありました。
「この庭は東京生まれのミツコ・クーデンホーフ・カレルギー(1874-1941)を記念して作られました。
1924年からメードリンクに住んだミツコにとって、ここは終焉の地になりました。
この庭の中心部は、世界が生まれ還ってゆく母なるものを体現しています。石灯ろうは光を象徴して、母を照らし、
その光は反射して世界を照らします。仏が住むと思われる山は、見る者を瞑想に誘います。」
「寄贈者:成田照導・静香 設計:野村堪治 2008年8月」というプレートが壁に掲げられていました。

この市立博物館から南へ約1kmに位置するキュルンベルガーガッセ11番地の光子の家は、
戦後の一時期、ソ連将校に使われた後、光子の晩年に寄り添った次女オルガによってお手伝い夫妻へ売却されましたが、
ソ連兵の略奪を免れた中に、光子の家を訪れた竹久夢二の絵は含まれていたのでしょうか・・・。
「運命にもてあそばれる子供たち」(「ミツコと七人の子供たち」最終章)が残したものにいつか出会ってみたい気がします。

この市立博物館には1873年に市長を務めてメードリンクの最盛期を築いたヨーゼフ・シェッフェルを顕彰する展示もあるようですが、
自然や景観保護の先駆的ジャーナリストであった彼は、「ウィーンの森の救済者」とも呼ばれています。
                    (「ウィーンの森 -自然・文化・歴史-」アントン・リーダー著 戸口日出夫訳 南窓社)

駅近くのスーパーでミューズリーなど食品の買物をした後、Sバーンで4時15分頃にメードリンクを後にしました。
ウィーン・マイドリンク駅へ近付いた時、舟田さんから「お二人は街の方へいらっしゃるでしょ?」と言われ、その気になったのですが、
地図を持っていない、Sバーン路線のことは何も知らないということに思い至ったのは舟田さん達が下車されてからのこと、
少し焦って、マッツラインストルファー・プラッツで一度下車して路線図を眺めている時に、
ちょうどカールスプラッツ方面へ行くという女性に出会い、無事にデュートティローラー・プラッツからU1へ乗り換えることが出来ました。



U1に乗ってから路線図を見ると、シュテファンス・プラッツへ行くことが分かりましたので、
ウィーン観光からシュテファン大聖堂を外すわけにはいかないでしょ、と最初からの計画のように、うまく行き先が決まりました。

シュテファン(=キリスト教最初の殉教者ステパノ)を守護聖人とするシュテファン大聖堂は、
バーベンベルク家のハインリヒ・ヤソミルゴットが1147年に建設したロマネスク教会に始まり、1258年の火災による焼失後、
ハプスブルク家のルドルフ4世(1339-1365)以来、16世紀にかけて改築が重ねられたゴシック教会です。



聖堂内に入るとオルガンの音が聞こえ、ウィーナー・ノイシュタットの祭壇前で何かの典礼が行われていて、
柵から奥へは入れず、ピルグラムの説教壇やフリードリヒ3世のお墓に近付くことは出来ませんでした。
北塔へ上るエレベーター前に行列が出来ていましたが、従妹は高い所にはさ程の興味がないとのことで、簡単に聖堂見物を終えました。



見る度に写真を撮る屋根タイル

予定外の街散歩で、地図はなく、頭の中の地図との相談でしたが、昨日、ひとつ見落としていたロースハウスへ行くことに決めて、
フィアカー(2頭立て馬車)や古い噴水などウィーンらしい風物を見ながら、グラーベン、コールマルクトを歩いて行きました。



突き当りがミヒャエル広場

ミヒャエル教会


無事にミヒャエル広場に到着、ミヒャエル教会をちょっと覗いた後、古代ローマ遺跡を見ながら、
この辺りにある筈・・・とロースハウスを探しましたが、見つけることが出来ず、
もう少し先かもしれないと王宮脇のシャウフラーガッセを進んで行くと、不本意なことに、フォルクス庭園に着いてしまいました。
(結局、翌日になって、この時に目にしていた建物がロースハウスであったことが判明・・・。)



フォルクス庭園から見た王宮

首相府

修復中のモーツァルト像

修復中のモーツァルト像があるブルク公園のベンチで一休みをしてから、6時半頃、日が暮れ始めた中を帰路に着きました。


ゲーテ像

ブルク公園を出た所に、リングに向かって坐っているゲーテ像がありました。
ウィーン・ゲーテ協会が1900年に寄贈したエドモント・ヘルマー作の像だそうですが、
「神聖ローマ帝国が余命保つぞ摩訶不思議!」と「ファウスト」に書き、
1806年夏の帝国解散の時の日記には「新聞の記事を見た。ドイツ帝国が解散した」と淡々と記したゲーテが
帝国の都に座っている気分はどのようなものでしょうか、
本物のゲーテは一度もウィーンを訪れたことはなかったと言われています。
「ミツコと七人の子供たち」の中に「ドイツの文豪ゲーテに関しては、光子もすべてのオーストリア人同様に同国人のように書いている」と
記述がありますが、こんな所がゲーテ像がウィーンにある真相のひとつかもしれません。

私の頭の中の地図が少しずれていて、カールスプラッツがリング沿いと勘違いしたため、余計歩きをしてしまいましたが、
無事にヒーツィングへ戻り、スーパーでモッツァレーラチーズ入りの野菜サラダを買って、7時半過ぎにゲストルームへ帰りました。
帰宅報告に寄ったアトリエで、Kさんの買物の続きの手編みセーターを見せていただいてから、翌日の打ち合わせをし、
もしもの時にと持って来た春雨&ワンタン・カップスープと野菜サラダで簡単な部屋食を取りました。

いよいよウィーン滞在も残り1日だけとなりましたので、従妹に「地球の歩き方」を渡し、「行きたい所がないか見ておいてね」と言って、
シャワーから出て来ると、全く予想外、ノーマークであった「王宮家具博物館」が候補に上がっていました。
どうやら数日のウィーン体験で、従妹はハプスブルクの人達への興味が湧いてきたようです。
「Kaiserliches Hofmobiliendepot」「U3 Zieglegasse」とドイツ語でメモをして、遠足の余韻と共に5日目の終わりを迎えました。


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