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15 Dec.2010
Persepolice〜Pasargad〜Yazd


7日目は朝8時半に出発し、ペルセポリスからヤズドまで360kmバスを走らせました。
ホテルを出るとまもなく昨日訪れたナクシェ・ロスタムの磨崖墓や(左写真)、
ペルセポリスの宮殿造営の採石場であった痕跡をとどめる山が車窓に見えました。
この朝、部屋の外に出しておいた100円ショップの気温計(「正確ではありません」の断り書き)は−6℃を表示、
日中は13〜4℃という寒暖差の大きい砂漠性気候の中でまだテント生活を続ける遊牧民達は、
まもなく暖かい南の地方へ移動するとのことでした。

イランのほぼ中央に位置するヤズドはゾロアスター教の街として有名で、
この日のN添乗員さんの車内講座はゾロアスター教やイスラム教の歴史や特徴に始まり、
いよいよ本番を迎えるイスラム・シーア派のアシュラの祭りのお話へと移って行きました。

BC1000年前後(生年には諸説)に東イランに生まれたゾロアスター(ペルシア語:ザラトゥシュトラ)が
30歳頃に善神アフラ・マズダの啓示を受け、人類史上初の預言者となって
世の中は善神と悪神の対立によって成り立つという2元論を唱え、
終末には救世主が現れて悪神アングラ・マイニュに勝利すると教えたのがゾロアスター教で、
このような最後の審判や死者の復活などの終末思想や天地創造の教えが
後にユダヤ教、キリスト教、イスラム教などに影響を与えたと言われています。
アケメネス朝に保護され、ササン朝に国教とされた後、イスラム化と共に衰退したイランで、
現在でも多くのゾロアスター教徒が住んでいるのがヤズドです。
ペルシア人が飛鳥時代の日本へゾロアスター教を伝えていたのではないかという仮説を持って、
ヤズドを訪れる女性研究者の話が松本清張の「火の路」に書かれていますが、
旅の中盤になっていよいよ日本の古代史ともつながりそうな地域へと入って行きました。



パサルガダエの町に近づいた所で、「アシュラの日」の前日「タスアの日」の行進に出会いました。
アシュラの祭りは預言者ムハンマドの孫ホセイン(第3代イマーム)がヒジュラ暦61年(西暦680年)1月10日に、
イラクのカルバラで殉教したことを哀悼して行われるイスラム・シーア派の最大の宗教行事で、
ムハッラム月(イスラム暦1月)に入ると準備が進められ、ピークを迎えるタスアの日から、イラン全国で、
隣組、同郷、同業者などの集団「ダステ」が「アラム」と呼ばれる馬印を先頭に町を練り歩く姿が見られます。



行進する人々が手にして、背中を打っている鎖はザンジールと呼ばれるもので、
かってはむき出しの背中をトゲのついた鉄鎖で打ちつけ、血まみれになることもあったそうですが、
現在は軽い素材で出来たザンジールを衣服の上からリズミカルに打って行進するだけですので、
異教徒でも気楽に見学できる「お祭り」と言ってもよさそうでした。



アシュラの祭りの期間は居合わせた人々に分け隔てなく、様々な食べ物が振る舞われますが、
この時は甘みのあるホットミルクが配られました。
衣服の規制が緩やかになった現在でも、この時期は女性達は黒い服でホセインへの服喪を表わすようです。



10時前にパサルガダエ(=ペルシア人の本営)にあるキュロス2世の墓に到着しました。
現在パラディス(=パラダイス)公園と呼ばれる遺跡は、
キュロス2世の妻子の墓も発見され、モスクや13Cのキャラバンサライの跡も残っていますが、
20km×15kmの広大な町のほとんどはまだ発掘されていないそうです。

この地に攻め入ったアレクサンダー大王がキュロス2世への敬意から破壊を禁じ、
アラブ人の破壊から免れるために地元民が「ソロモンの母の墓」と呼んだというキュロス2世の墓は、
6段の石壇に切妻型屋根の墓室を載せただけの素朴な姿ですが、圧倒的な存在感を見せていました。
「我はペルシアの王キュロス。我、汝の来らんことを知れり。我をつつむ僅かなる土を嫉むことなかれ。」と
アレクサンダー大王も読んだと伝えられる碑文が墓に刻まれていますが、
パサルガダエの随所に見られるこれらの碑文は、スーサへ都を移すまで
キュロス2世の後を継いでパサルガダエの造営を続け、ここで戴冠式も行ったダレイオス1世が、
血縁を持たないキュロス2世との系譜を正当化するために
改ざんしたものという説が最近の研究では有力視されているようです。



バス移動で広い遺跡内に点在する宮殿跡を見学しましたが、最初に行ったキュロス2世の私的な宮殿は、
黒い花崗岩の上に白い石灰岩を重ねた30本の円柱、BC550年に戴冠式を行ったという大きな石、
人物の下部だけが残った門柱のレリーフ、排水設備跡などが見どころでした。
19Cにイギリス人の発掘者が切り取って持ち去ったという柱は大英博物館で見られるのかもしれません。
現在はイタリア人チームが最も多く発掘に関わっているそうです。



次にアパダナ(謁見の間)宮殿を見学しましたが、ここではモスクとして使われていた時代の名残が
石に刻まれたコーラン(アラビア語)に見られました。
人間と魚と牛の足という不思議なレリーフは人間が陸と海を支配していることを表しているとも考えられています。
大きな石のソファも残っていました。




遺跡の周りには一面アザミのドライフラワーが残っていて、花の季節の華やぎが目に浮かぶようでした。


3つ目の宮殿は門の宮殿(又は待合室)と呼ばれるもので、ここには「やさしいお父さん」と呼ばれる
キュロス2世像とされるレリーフが残っていました。(右端の写真はポストカード)
「ペルシア人はダレイオスは商売人、カンビュセスは殿様、キュロスは父であったといっているが、
ダレイオスは万事に商売人のやり方を用い、カンビュセスは苛酷で思いやりの心が薄く、
キュロスは心優しく人民のためにあらゆる福祉を計ってくれたからである」(ヘロドトス「歴史」巻三)に
「やさしいお父さん」の由来があるのでしょうか。
エジプトの冠、エラム人の服装、アッシリアの翼を組み合わせた異文化混淆の神像は、
後にペルシア神像のモデルとなっていったと言われますが、父と呼ぶには少し違和感のある像でした。



次に「ソロモンの牢獄」と呼ばれるキュロス2世の息子カンビュセス2世の墓、
もしくはジグラットと考えられている修復中の建物を見た後、
遠くに見える小高い山に建つ「ソロモンの母の玉座」へ上って行きました。
山頂の石灰岩と日干しレンガで造られた建造物の使途はいまなお不明で、
ゾロアスター教神殿、見張り台、宝物殿など諸説あるようですが、
様々な建造物に旧約時代の王、イスラムでも預言者とされる「ソロモン」と名付けた時代に
思いを馳せるのも興味深いことでした。



ソロモンの母の玉座からこの日見て回ったソロモンの牢獄、アパダナ、キュロス2世の墓や、
現在の町も一望のもとに見渡すことができました。
標高1900mの広い高原の中の遺跡は柵によって畑と区分けされていました。




12時前に昼食のレストランに到着しましたが、実はこの朝、予約していたレストランが突然休店し、
急きょレストランを変更、このお店に到着した時も、
先ずアリーさんが一人でバスを降りて営業を確認しに行くという姿が見られました。
N添乗員さんによるとインシャアッラー(神の思し召し)、ボクラ(明日)、マレーシュ(あてにしない)という
アラブのIBMと称する言葉があるそうで、このようなことはイスラム社会では珍しいことではないようですが、
何はともあれ、私達は無事ランチにありつけて、ほっとした一幕でした。



旅の初日にテヘランのホテルで見かけた時は怪我だと思った鼻の絆創膏姿を度々見かけましたので、
アリーさんに尋ねると、イランでは何と鼻を低くする整形手術が若者の間で流行っているのだそうです。
日本へ帰って話をしても信用してもらえないような文化?ですので、
レストラン従業員のお兄さんにお願いして、証拠写真を撮らせていただきました。


1時にパサルガダエを後にして、一路ヤズドへ向かいました。
ほとんど茶色一色のザグロス山脈の高原地帯は果てるともなく続くと見えましたが、
時々現われる村落や、大理石を産出するデービッド周辺の白い山肌などが
車窓に変化を見せてくれました。



3時前にトイレ休憩を取ったアバルク(=大きな山)には、ロシア人の調査によると
樹齢4500〜5000年といわれる高さ24m、太さ16mの国の天然記念物の糸杉がありました。
かってはシルクロードの重要地であった人口12万人のアバルクでもタスアの祭りが行われていました。



ヤズドへ近付いて行くにつれて、車窓にカナートの列を見かけることが多くなりました。
カナートとは傾斜地の下手から上手地下の水源に向かって掘られた横井戸の一種で、
トンネル水路とトンネルを掘り進める時の垂直作業孔(ミーレー孔)で構成される水利施設です。
「葦」または「穴あきの小枝」意味するアラビア語の「qna」が「qanat」へと派生して、
水路や運河を意味するようになったと言われます。
BC2〜3千年紀にイラン北西部に生まれたと言われるカナートですが、
カナートや掘削職人がヤズド地方に圧倒的に集中していることや
イラン内陸部の乾燥化や鉱山開発との関連性からヤズド周辺を発祥地とする意見も根強いようです。
              (出展:「ペルシア残照−中近東文化センターのイラン踏査−」)

左写真の円錐形ドームはヤフチャールと呼ばれる氷室で、これも冬場に出来た氷を貯めて、
夏まで保存するための水資源利用施設です。
鉄分を多く含む赤っぽい地層の山々が夕日に照らされて美しい姿を見せていました。



夕暮れが迫った5時頃、バスを降りて、20〜40m毎に点々と見えたクレーター状の土の小丘、
カナートの垂直作業孔のひとつを見学に行くと、土砂が流れ込むのを防ぐために
作業孔の周りが石で固められ、段々と高く積まれていった様子が分りました。
長いもので50km、作業孔の深さ120mに及ぶものがあるというカナートは、
本来は無動力で地下水を利用していたものですが、動力ポンプの揚水技術が進んだ結果、
水源の枯渇を招き、また保全技術の継承、安全性、資金問題などで数は減っていくばかりのようですが、
将来は環境に優しい水資源利用施設として再び重要性が見直されるのではないかと言われています。



6時前に到着したヤズドのサファイエ・ホテルは改装されてから日が浅く、
西欧的な設備にペルシア風装飾を取り入れた清潔で気持ちの良いホテルでした。



夕食はビュッフェ・スタイルでしたので、野菜を中心に控えめな量となりました。
毎晩9時半から10時には就寝し、早寝早起きの健康的なツアー・ライフが続きました。


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