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2024・9・14
松島〜塩竃〜多賀城〜仙台〜大宮〜渋谷
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3日目の朝は夜半からの雨が残り、松島湾や松島市街地が墨絵のような風情を見せていました。
 ホテル松島大観荘

この日もバイキングが混みあう前に6:45に一番乗りして、ゆっくりと朝食タイムを過ごした後、
ホテルへ9時に迎えに来て下さった新妻さんに鹽竈(しおがま)神社、多賀城、仙台をご案内いただきました。

鹽竈神社境内図
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鹽竈神社東参道 志波彦神社鳥居
松島丘陵の山頂に建てられた鹽竈神社は202段の急な石段のある方が表参道ですが、
私達は駐車場から穏やかな坂道の東参道を上って、志波彦神社の鳥居から神社境内に入りました。
鹽竈神社楼門
馬場から上った楼門は、宝永元年(1704)に仙台藩4代藩主、伊達綱村によって造営、
左大神・豊岩間戸神(とよいわまどのかみ)と右大神・奇磐間戸神(くしいわまどのかみ)と鹿に守られた
銅板葺、三間一戸、入母屋造の美しい建物でした。
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鹽竈神社右宮・左宮 鹽竈神社別宮
陸奥国一之宮・旧国幣中社の鹽竈神社は、別宮は主祭神の鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ、)
左宮は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮は経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神とし、
武甕槌神と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内によって陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされています。
鹽土老翁神は古代に陸奥国府・多賀城の国府津であった塩竃に留まって人々に塩づくりを教え広めたと伝えられ、
製塩の中心地であったことが鹽竈神社の創建や社名に関連し、
嵯峨天皇の時代に編纂された「弘仁式」並び「延喜式」に「鹽竈神をまつる料壱萬束」と記されていることから、
9世紀前半には朝廷から祭祀料を受けた重要な神社であったと考えられています。
現在の社殿は元禄8年(1695)に四代藩主・伊達綱村が塩竃の町づくりと共に神社造営工事に着手し
宝永元年(1704)五代藩主・伊達吉村の時に完成したものです。
三本殿二拝殿という全国でも類例がない社殿構成、整然とした優れた配置計画、本殿・幣殿・廻廊の正統的な意匠と
拝殿の古風な細部様式、各門の華やかな様式が江戸中期の神社建築として価値が高いと評価され、
平成14年(2002)12月に国の重要文化財に指定されています。
多賀城の東北方向つまり「鬼門」に位置し、蝦夷の地に接して国府守護と蝦夷地平定の精神的支えとして
都から赴任してきた政府の人々に篤く信仰されたことが塩竃神社発展の大きな要因と考えられ、
陸奥國総鎮守として尊崇を集めた神社に伊達家歴代藩主は宮司家をおかず、大神主として祭事を司りました。
左右宮(鹿島・香取の神)が南向き、唐門右手の別宮(塩土老翁神)が松島湾を背に西向きに立っているのは、
大神主である藩主が城から遙拝出来るように守護神の鹿島・香取の神を仙台城の方角に向け、
塩土老翁神には海難を背負って頂くために海に背を向けて建てたと言われています。
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銅鉄合製燈篭
幕府から命じられた蝦夷地警護を完遂したことを記念して、
文化6年(1809)に9代藩主伊達周宗が奉納したもので、
鳳凰や龍など縁起の良い霊獣、花や鳥など精緻な意匠が施された
銅と鉄が複合された珍しい燈籠です。 (塩竃市指定文化財)
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撫で牛
「商売は牛の涎(よだれ)」(商売が牛の涎のように、
細く、長く続きますように、という諺)とあるように、
牛はなでるとよく涎をだすことから祈願奉納された商売繁盛の
開運「撫で牛」が消毒液を抱えて鎮座していました。
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守札所 東神門
左右宮・別宮の参拝を終え、(別宮→左右宮が正式な参拝順序らしいです・・・)
守札所、東神門を抜けて、志波彦神社へ行きました。
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延喜式名神大社 旧国幣中社 志波彦神社
志波彦神(しわひこのかみ)を祭神とする志波彦神社は、
「もと宮城県岩切村(現在の宮城野区岩切)の冠川(七北田川)の畔に鎮座し、明治天皇の思召しにより、
明治7年(1874)に塩竃神社の別宮本殿に遷祀された。その後、国費により社殿を造営し、昭和9年(1934)起工、
昭和13年(1938)に遷座申し上げた。社殿は昭和38年(1963)、本殿以下塩竃市の文化財に指定された。」と
神社由緒に記されていました。
鹽竈神社と趣きを異にした朱黒漆塗りの極彩色社殿は、全額国費を以て造られた最後の神社と言われています。
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志波彦神社を出て、門前から塩釜港方面の景色を見ている時に通り過ぎて行った編み笠姿の子供たちは、
鹽竈神社御神田で御料米の稲穂を抜き、稲を刈り取って五穀豊穣を祝う抜穂祭(ぬいほさい)の参加者だったようです。
10時前に鹽竈神社を出て、20分ほどで多賀城に到着、南門近くに車を止めて、多賀城跡を見学しました。
「多賀城とは、その名称をとなえるだけで、思いが茫々となる。
城でありつつも、より濃厚に官衙(かんが)だった。都の文化の象徴としての寺院が、
いまは遺跡ながら、その当時、壮麗な堂塔とともに付属していた。
・・・・
多賀城は、八世紀のはじめ、北の蝦夷に対する防柵として出現した。さらには奥州の鎮所として機能した。
ついには「遠の朝廷」としての威容を持つにいたった。奥州にあっては都のミニアチュアであり、
都にあっては辺境へのあこがれの象徴だった。
・・・・
自然が人文に昇華する作用をこの奥州の国衙は果たした。多賀城そのものが詩である。」 (司馬遼太郎「街道をゆく」)
司馬遼太郎の熱い思いとともに、今回の旅のきっかけとなった多賀城跡に降り立ちました。
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多賀城南門 多賀城碑

壺碑
江戸時代の初めに多賀城碑が発見されたことにより、遺跡が多賀城跡と判明して以来、
地元の人々を中心に保護顕彰活動が続けられた多賀城跡は、
大正11年(1921)に国史跡、昭和41年(1965)に特別史跡に指定されて、
平城宮跡、太宰府跡とともに日本三大史跡に数えられ、
発見当初から歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」に結びつけられた多賀城碑は、
時間とともに変わりゆく歌枕の中で多賀城碑だけが昔から変わらぬ姿を留めていると感動したことを
芭蕉も「おくのほそ道」に書き記しています。
群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑と共に日本三大古碑と呼ばれて来た多賀城碑(古文書)は
今年(令和6年)8月27日に国宝指定を受けています。
高さ248m(地上部196cm)、最大幅103cm、最大厚さ72cmの花崗質砂岩の壺碑は、
京の方角、ほぼ真西に向け立てられ、碑面の中央上部に「西」の一字があり、その下に140字が11行に配され、
前半に京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(まつかつのくに=中国東北部)から多賀城までの距離が記され、
後半に多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置されたこと、
天平宝字6年(762)に藤原恵美朝臣朝狩によって改修されたことが記され、
最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれています。
古色の趣き豊かな覆堂(ふくどう)に収められた壺碑の写真は多賀城市ガイドブックよりお借りしました。

ノハラアザミ ウバユリの実
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七北田川流域に広がる台地上の多賀城はかつては奥州街道が近くを走り、交通の要衝として重要な位置にあり、
背後の多賀山や北側に広がる加瀬沼を自然の要害として、
1辺約1kmを外郭区画施設(築地塀や材木塀)で囲み、南・東・西辺に門が開かれた中央に政庁を置き、
城内で平坦地が確保できる地域に役所などを配置していたことが発掘調査によって分かっていますが、
近年の再発掘調査による遺構解釈の変更や施設の経年劣化が著しいことから、平成20年度(2008)より再整備を行い、
全期を通して最も機能性と装飾性を兼ね備え、荘厳な景観が見られたと考えられている
天平宝字6年(762)〜宝亀11年(780)の第U期政庁の遺構に沿った復元が進められていました。
法隆寺食堂を参考にしたという礎石式四面庇付の官衙主屋復元、床張り建物復元などを見ながら、
広々とした気持ちの良い城跡の散策を堪能しました。
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復元施設 多賀城神社
多賀城外郭の北東の隅方向に鳥居が見えましたので、昨夜来の雨で濡れた草に靴を汚しながら正体を確かめに行くと、
多賀城神社とあり、側に「後村上天皇御坐之処」という石碑が立っていました。 (新妻さん、車を汚してごめんなさい。)
志波彦神社や鹽竈神社などの「宮」、多賀城などの「城」が、かつての郡名「宮城郡」の由来とし、
大和朝廷の直轄領を示す屯倉(みやけ)がなまって、「みやぎ」になったとの説もあると
宮城県広報課編集・発行「私たちの宮城県」に宮城県の由来が説明されていますが、
ここで私達は古代のみやぎの都を後にして、江戸の都、伊達家の仙台へ向かいました。
「入りそめて くにゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」
政宗が仙台へ居城を移した時に詠まれた歌で、もともと千代(せんだい)と呼ばれていた地を
「千年の世と言わず末長い繁栄」を願ったことが「仙台」の地名由来と言われます。
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11時頃、多賀城を出て、45分程で仙台に到着、藩政時代からの伊達家霊域である経ヶ峯(きょうがみね)墓所へ行き、
62万石の仙台藩の石高を表しているという石段と樹齢380余年物の杉が残る参道を瑞鳳殿まで上っていきました。
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涅槃門 拝殿
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唐門
仙台藩藩祖として、産業、経済、文化の振興をはかった伊達政宗が寛永13年(1636)に70歳の生涯を閉じた後、
正宗の遺命によって、翌年に2代藩主伊達忠宗が造営した霊屋(おたまや=墓所)が瑞鳳殿です。
江戸時代初期の桃山文化を伝える絢爛豪華な廟建築として、昭和6年(1931)に国宝に指定されましたが、
昭和20年(1945)の戦災で焼失、現在の建物は昭和54年(1979)に再建された鉄筋コンクリート造りですが、
その上に黒漆を塗り、極彩色彫刻や金箔押金具などを装飾し、創建当時の瑞鳳殿が正確に復元されています。
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瑞鳳殿本殿
昭和49年(1974)に行われた瑞鳳殿の発掘調査で、遺骨のほか、副葬されていた墓室の鎧櫃(よろいびつ)に
胴、兜、頬当などの具足一式、籠手(こて)、臑当(すねあて)、佩楯(はいだて)などが収納されていることが分かったそうです。

本殿の両側には宝篋(ほうきょう)印塔の形をした20名の殉教者供養塔が設置されていました。

臥龍梅 発掘品
空襲で焼失した霊屋が再建される際に行われた発掘調査で発見された副葬品の一部が資料館に展示され、
その入口に文禄の役で渡朝した政宗が朝鮮から持ち帰り、仙台城へ植えた後、隠居所の若林城へ移植した臥龍梅から
取木したと伝わる国の天然記念物の臥龍梅が植栽されていました。
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瑞鳳殿を出て、2代伊達忠宗公霊屋「感仙殿」、3代伊達綱宗公霊屋「善応殿」へ立ち寄りましたが、
昭和20年(1945)7月10日の仙台空襲で焼失、昭和60年(1985)に現在の姿に再建、落成した感仙殿・善応殿は
経年劣化が生じるため定期的な修繕を必要とし、30年毎の本格修繕と15年毎の中間期修繕が行われていて、
2霊屋ともに中間期修繕工事中のため、拝観することは出来ませんでした。

感仙殿より出土した板碑
感仙殿の北側に歴代藩主の御廟・妙雲界廟や藩主公子公女の御子様御廟があり、
伊達家の葬法の変化が分かる一画となっていました。
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政宗山 瑞鳳寺
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瑞鳳寺本堂 鐘楼
政宗山 瑞鳳寺は、政宗の菩提寺として寛永14年(1637)に2代忠宗によって創建された寺院で、
平泉毛越寺より遷した釈迦、文殊、普賢の3体をご本尊とし、政宗から3代藩主の位牌が安置されている寺院です。
昭和3年(1928)天皇即位記念に建立された鐘楼には昭和50年(1975)に政宗公再埋葬記念として鋳造された
梵鐘が吊るされ、本堂脇に置かれた梵鐘は寛永14年忠宗によって寄進された県指定文化財です。

ミヤギノハギ シロバナミヤギノハギ ヒヨドリバナ
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宮城県護国神社 仙台城本丸跡
経ヶ峯墓所の次に、青葉山に建つことから青葉城とも呼ばれる仙台城城址へ行きました。
東は広瀬川に面した断崖、南を竜ノ口渓谷が囲む天然の要害に築かれた仙台城は自然の地形を巧みに利用した山城で、
関ヶ原の戦い直後、慶長5年(1600)12月に城の縄張りが行われ、翌年1月から普請に着手、
慶長7年(1602)には一応の完成をみたとされていますが、
家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったといわれています。
地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経ながらも、
一度も戦火を見ることなく城としての役割を終えて、明治維新を迎えた後、
明治から大正にかけて陸軍用地となり多くの建築物が解体されたものの数少ない遺構であった
大手門、脇櫓、巽門が国宝(旧国宝)に指定されていましたが、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失、
現在は宮城県知事公舎正門に転用された寅の門の部材を残すのみですが、
平成15年(2003)に国史跡の指定を受けています。

政宗公騎馬像
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仙台城本丸跡を歩き、政宗公騎馬像を見た後、標高130mの城址から街の景観を一望しました。


繰り返し修復を受けたらしい本丸北壁石垣や築城期の石垣モデルの展示も興味深いものがありました。
城址見学後、護国神社側の青葉城フードコートで昼食の予定でしたが、土曜日のせいか随分混みあっていましたので、
次の目的地「大崎八幡宮」へ向かいながら、食事処を探すことにしました。

結局、道すがらに適当なレストランは見つからず、大崎八幡宮すぐ隣の「とんかつ石亭 八幡茶屋」で、
2時からの遅め昼食となりましたが、宮城県の牧場産最高級豚「ゴールデンポーク」のヒレかつは大変美味でした。
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大崎八幡宮は慶長12年(1607)に伊達政宗によって創建された仙台総鎮守の神社です。
訪れた9月14日は毎年9月に行われる例大祭の日にあたり、参道は御神灯や奉納された提灯で飾り立てられ、
翌日境内で開催されるという流鏑馬神事(やぶさめしんじ)の準備が進められていました。
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| 大崎八幡宮参道 |
長床(ながとこ) |
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本殿内陣中央に応神天皇、右に仲哀天皇、左に神功皇后を祀り、拝殿と本殿とそれらを連結する石の間の三殿が一体となった
権現造りの霊廟建築は、神殿内外とも黒漆塗り、長押より上には極彩色の彫刻が施され、
桃山建築の傑作と称されて国宝指定を受け、祈祷受付をしていた長床は重要文化財の指定を受けています。
ちょうど献饌式が行われている最中で、社殿の全容を見ることが出来なかったのは残念ですが、
年一度の光景に出会えたことは幸運のひとつとしても良さそうです。
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毘羅社前の祓所(はらえど)で祓いの儀式を行う神官たちの姿も目にしながら、
3時10分頃、大崎八幡宮を後にしました。
仙台駅まで送っていただた新妻さんと3時40分過ぎにお別れ、新幹線切符入手のためにみどりの窓口に並びましたが、
長蛇の列に業を煮やした男性2人は切符自販機へ向かい、まもなく戻って来た2人が手にしたチケットを見ると、
何と出発まで6分しかない16:01発のやまびこ216号で、お土産買物を駅までのばしていた私は大いに焦り、
ホームへ上がるエスカレーター脇の「おみやげ処」で3分で最小限のお土産を買うことになりました。

「3分土産」と命名
孫リクエストのずんだ餅は「常温で持ち歩ける新スイーツ」という新製品のようでしたが、
ずんだ餡を餅で包んだお饅頭のようなもので、ずんだ餅特有のつぶつぶ食感が少ないものでした。
ともあれ、発車2分前に無事に新幹線に乗車することが出来、
予期以上の出会いと収穫を得たみやぎ旅に心を充たされつつ、暮れていく景色の中を帰途につき、
大宮駅で吉川夫妻と別れ、渋谷経由で7時15分に帰宅しました。
*3日目歩数(スマホ計測):14345歩
2024.10.15
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