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2024・10・24
隠岐の島隠岐空港~伊丹空港~羽田空港
    
6時10分                       6時35分                       6時50分

旅の最後の朝は4日間で最もよいお天気になり、
夜明けと共に色彩を変えていく西郷港を眺めながら、帰り支度をしました。

  

    

港町の景色を眼下にする島後で最も高い場所という隠岐プラザホテル10階スカイラウンジ「天藍」で、
7時半からハタハタ一夜干し、アラメ煮物など地元の海の幸を中心にした朝食をゆっくりといただきました。
赤茶色や灰色の民家瓦屋根は北前船による日本海海運で隠岐地域にも普及したといわれる石州瓦のようです。
この日は9時半出発ということで時間に余裕がありましたので、食後に西郷の町散歩に出掛けました。

水祖神社(みおやじんじゃ)

ホテルに隣接して延喜式神名帳に記載され、古い創建と考えられている水祖神社があり、
「水祖神社は一般的には川や水源地等水を司る神様としてお祀りされてあります。
その昔、隠岐島周辺では海賊が出没し、住民は日々脅威を覚え、不安な生活を送っていました。
また、国境の島として国防上の重要なところでしたので、朝廷から特に高官が派遣され、
沿岸の治安、航海の安全に心配りをされ、力をそそぎました。
その高官の中に非常に功績があり、帰京することなくここで生涯を終えられたお方があり、
その人の名はわからなくなりましたが、海岸の丸いきれいな石を積上げ、
古墳として遺徳を偲び神様としてお祀りしたものであります。他の水祖神社とは全く異なった神様であります。
このお宮に合祀されている天満宮は、大昔、中條竹八尾川上流沿いの小さな祠に
菅原道真公を祀った天神社がありましたが、ある年たいへんな大水が出ました。
山のように積まれていましたすくもやわら束が一度に押し流されこの水祖神社の境内にたくさん流れ着きました。
不思議なことにその中から祠に入った天神様が現れました。氏子たちはおそれおおいことと早速水祖神社に合祀しました。
この神社の森の裾野は満潮時には浅瀬となり、塩が引くと陸地になるので、その有様を水の原(ミノハラ)といい、
ここに現われた天神様ですので、「みのはらの天神」と呼びました。」と創建由来を綴った案内板が立っていました。
もう一つ「主祭神は水の神様である罔象女神(ミヅハノメノカミ)です。」というシンプルな立札もあり、
真相は不明ですが、菅原道真も合祀され、地元では「天神さん」と呼ばれて親しまれている神社であることは共通し、
本殿の後ろの森が古墳というのは間違いのないことと思われました。

隠岐プラザホテルと水祖神社 八尾川風景
愛の橋                                            西郷大橋

八尾川沿いで金物店をしていた藤原金一氏が悪天候の中を通学する児童の姿を見て、
行商で蓄えた資材を投じて作り、昭和4年(1929)に寄贈した「愛の橋」(現在の橋は昭和31年建造)や、
隠岐世界ジオパーク空港と西郷港フェリーターミナルを結ぶ県道43号・隠岐空港線の西郷湾に架かる
昭和52年(1977)に完成した橋長271m、幅員6mの西郷大橋など、水辺の美しい景観が見られました。



途中、カラスと餌争いをして、ピーピピーと鳴き声をたてるトンビの群れに出会い、
ピーヒョロロと鳴くものと思っていたトンビの威嚇の鳴き声を初めて聞いて、
今朝、部屋まで聞こえて来たうるさい鳥の声の主もトンビだったのだろうと思いました。


ホテルへ戻り、「隠岐の島をもっと好きになる」をテーマに今夏リニューアルされた庭園へ出てみると、
ロビーエントランスから眺める「まえ」には苔の海に石積みで造られた隠岐の島が浮かび、
「うしろ」は隠岐の島の植物を散りばめ、散策すると「実際の島も歩きたい」という思いを持たせる仕掛けになっていました。

  
トウテイラン                    カワラナデシコ

庭の完成には時間の助けも必要という印象を受けましたが、花の色が中国の洞庭湖の水の色のように美しいことから
「洞庭藍」という和名を持つ隠岐や山陰の日本海側に咲くトウテイランやカワラナデシコに目が止まりました。


1階には隠岐の島の歴史、文化、自然などを紹介する情報コーナーやギフトショップ、
島の伝統を紹介する展示コーナーなどがあり、ゆっくりと寛ぐことができるラウンジもありました。


9時25分に迎えのマイクロバスに乗って、最後の観光、屋那の松原・舟小屋群のある都万(つま)地区へ向かいました。
刈り取った稲を稲木にかける秋の田んぼ風景、はざかけを車窓にしながら、
「隠岐の哺乳類の中でヒトに次いで大きな生物は島後と西ノ島の2島に生息するオキノウサギで、
天敵が生息しないため冬でも褐色のまま、二ホンノウサギと比べて体全体は大きいが耳と足が短いことが特徴、
野山に入る時の要注意はマムシ」などというガイドさんの話に耳を傾けました。
天日干しのはざかけによって、アミノ酸と糖の含有量が多くなり、稲を逆さまにつるすことで、
油分や栄養分や甘みが米粒に降りて米が美味しくなると言われていますが、
藻塩米とよばれる隠岐の島のお米が美味しかった訳はこのあたりにあるのかもしれません。

高田山(h315m)                                      舟小屋

三方を崖で囲まれて特徴的な山容を見せる都万を象徴する高田山は上半分が溶岩、
下半分が海底で堆積した地層からできており、山の中腹に柱状節理の岩場を持つ登山者に人気の山です。

木造平屋、杉皮葺きの舟小屋が20棟、100mにわたって連なる都万漁港の景観も隠岐の島名所の一つです。
木造船は海中に浸したままにすると船喰虫に喰われたりして傷むため、陸へ上げて保管しますが、
干満の差が小さい日本海では、このように水際に小屋を建てることが可能になります。
太平洋側では2m以上ある一日の潮位差が日本海側では50cm程だそうです。
 
 

日本の白砂青松百選で樹齢およそ300年、約200本のクロマツが生育する屋那の松原は、
「隠岐の島が江戸幕府の天領であった時代、この地方の役人であった乃木九兵衛が荒れ果てた都万川の河口に、
新田を開発しようと計画し、里人総出で水際に堤防を築いて新田を完成させ、これを守る防風林として植えた」
「 昔、若狭から隠岐に来て800歳まで生き続けたという八百比丘尼が一晩で松を植えようとした所、
男がニワトリの鳴き声を真似したため、慌てて立ち去った時に残された松の一部」などの伝承があります。
八百比丘尼は人魚の肉を食べ不老不死となったため、各地で病気の人を治し、貧しい人を助け、植栽を続けた伝説の女性で、
旅の初めに玉若酢命神社境内の八百杉でもお会い?しましたので、ご利益に預かりたいものですが。
既に懐かしい島前の島々を遠望することも出来ました。



  

10時過ぎに屋那を出て、30分程で隠岐世界ジオパーク空港へ到着、
「天高く遠流の遠を飛びて来し」という山口誓子が昭和45年10月に詠んだ句碑に出迎えられました。
隣に「神亀元年(724)隠岐が「遠流の島」と定められて以降、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、小野篁、文覚上人など
三千人以上が流された。都から中国山地の難路を越え、風待ちして海を渡り、二ケ月も要した隠岐の島へ
誓子が訪れた時に読んだ句である。誓子は、その「遠(とお)」の空間を秋晴れの下、僅か一時間で飛んで来たという感慨と
流罪では無く自由な旅である喜びをこの句に込めている。」という説明板が置かれていました。
初日と同じドライバーさん、最後に、「実は初日のガイドは娘でした。」と明かされたガイドさん達、島の人達も温かく、
予想を超えた素晴らしい見聞の数々に恵まれた隠岐の島旅が終わりを迎えました。




JA220J機は定刻の11時45分に離陸、あっという間に隠岐世界ジオパーク空港を後にして、
島前の島々が見えた後、7~8分で鳥取上空へ入りました。


中国山脈、大阪の街を下に見て、12時半に伊丹空港へ着陸、ここで大阪在住のO夫妻とお別れしました。
空港内で軽くサンドイッチ昼食を取った後、少し買物をして時間調整をし、13時半発JAL118便に搭乗しました。


「JAL Fantastic Journey Express」
(特別塗装機ボーイング767-300ERに搭乗)

右上:垂仁天皇陵   中央下:平城宮跡 左:宇和奈辺古墳    右:小奈辺古墳

伊丹空港を飛び立ち、大阪城を見て2分後に、前方後円墳をカメラに捉えることが出来、
帰宅後に場所同定にすこし悩んだ後、一昨年秋に歩いた平城宮跡周辺にある古墳群と判明しました。
奈良市法華寺町の佐紀盾列古墳群を構成する古墳は実際の被葬者は明らかではありませんが、
宇和奈辺(うわなべ)古墳は応神天皇の娘、仁徳天皇皇后八田皇女、
小奈辺(こなべ)古墳は仁徳天皇皇后磐之媛命の陵墓と宮内庁に治定されています。
いずれも全長200mを超える大きな古墳です。


おまけの奈良寄り道の後、海ほたるが見えて来たら、旅は本当におしまい、
羽田空港でN姉妹、O添乗員さんとお別れして、リムジンバスで渋谷へ出てタクシーに乗り継ぎ、4時20分に帰宅しました。

          隠岐の島を再び訪れる機会があることを願いつつ!

                                 *4日目歩数(スマホ計測):7562歩

                                 (2024.11.14)



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