ホーム][目次][6日目

 22 Sept.2015  
 Bukhara~Shakhrisabz~Samarkand
タキ・テルパクフルシャン

朝7時から朝食を取った後、8時の出発までに時間がありましたので、ホテルの周辺を散歩しました。
お店が開く前のタキの中は、土色だけに支配された静寂な空気に包まれていました。
廟の前でお祈りする人たちには、宗教や人種の別によらない、人間としての共通性、普遍性が感じられます。
政教分離のウズベキスタンではイスラムの戒律もゆるやかで、金曜日の集団礼拝だけが義務付けられているらしく、
古くからの民間信仰も残っているような他のイスラムの国とは違う雰囲気がありました。



アジア・ブハラ・ホテル前に整備された発掘現場がありました。
マゴキ(=穴の中)・アッタリ・モスクと直接つながった土地の西端に位置していますから、宗教施設やバザールの跡かもしれません。
7時40分過ぎの徒歩通学は少し早目ですが、背中に教材、手に水を持った姿は日本の子供達にも似た姿です。



旅の5日目は今回唯一のロング・ドライブの一日で、先ずは270km南東に位置するシャフリザブスを目指しました。
ブハラ市街をあっという間に過ぎて、郊外に入ると同じ型の集合住宅が増えていきましたが、
これらは低所得者層向けの国有住宅だそうです。



30分ほどで通過したカガンは、帝政ロシア時代に最初に敷かれた鉄道が通るブハラ州の町のひとつで、
ここにも第2次世界大戦の日本兵捕虜の墓地が残されています。

綿花摘み タマリスク

車窓に時々、綿花摘みをする人々やちょうど花期を迎えたタマリスクの群生が見られましたが、
間近かでゆっくりと見られなかったことが、とても残念な光景のひとつです。
ギョリュウ科のタマリスクは楊貴妃が愛でた花と言われ、御柳という漢字が当てられています。



8時50分頃、ブハラ州に隣接するカシュカダリア州に入りました。
私達のバスはノンストップで通り過ぎましたが、州境の検問所は今も関門としての役目を持っているようです。



道路端の露店はスイカの最盛期のようでした。
右の車のシートは一瞬、防砂シートかと思ったのですが、おそらく、売れ残ったスイカにかぶせる防犯シートだろうと思われます。
スイカは日々、増えこそすれ・・・でないことを願っています。



道路際、工場地帯など物ともせず、山羊たちが食んでいるのはラクダ草とも呼ばれるサクサウールで、
長く根を張ることから砂漠の移動を防ぐ役目も果たしていますが、油分が多く、よい燃料となるためにロシア占領時に大量に採取され、
草が減って砂漠が市街地まで移動したため、空から蒔種して植生を復活させたそうです。
サクサウールで作ったお料理は味も違うと言われています。


学校または役所・・・? 脱穀風景

カシュカダリア州が農業の盛んな州であることが分かる車窓風景が続きました。
国の独立後、国有地も私有化が進んでいるようですが、国有の畑は面積と使用する期間によって計算された水代が使用料となるそうです。

下の左写真は綿花の袋を背負っているのでしょうか、一人で歩く姿も絵になる一コマです。
西アジア原産のヒトコブラクダと中央アジア原産のフタコブラクダが重なるのがウズベキスタン辺りではないかと思われますが、
少しボケ画像ながら、うまく2種のラクダを画面に収めることができて、ちょっとうれしいスナップも残せました。


  

ガソリンスタンドでトイレ休憩を入れた後、10時半頃に通過したのは1940~50年代に天然ガスが発見されて、
60年代以降、工場団地が出来て豊かになった町、ムバレク(=幸せ)でしょうか、少し大きな町を通過して行きました。



ステップや土漠が続く中に、町や村が現れて・・・という同じ繰り返しの車窓風景ですが、
人々の生活の一端や、家庭菜園まで可能にしているゼラフシャン川支流のカシュカダリ川の恵みを垣間見たり・・・と、
バスの道中に飽きることはありませんでした。



声までは聞こえませんが、バスの中からの地元の人々との交流も?楽しい一コマでした。
大型観光バスがまだそれ程多くなさそうな地域ならではのスナップです。

ウズベキスタンの学校は5・4・3年制になっていて、日本と同じく7歳から始まる9年間が義務教育で、その期間の教育費は無料、
18歳で適用される徴兵制度は大学生は免除されるそうです。

 

左写真、真中に小さく赤信号が見えるカシュカダリア州都カサンの町を通過して、12時45分にシャフリサブスに到着しました。
州都といっても土の道が残り、どこか日本の田舎町にも似た懐かしさが感じられる町風景です。



        

昼食の民家風のレストランでは、頭に大きな白い飾り(ウズベキスタンで流行中?)を付けた女の子の出迎えを受けましたが、
商品を並べる姿に家族の一員としての仕事を持った自信が感じられました。



室内に飾ってあったボボエチャ(=おじいさん)人形

旅の途中、お土産店でもよく見かけた土人形、ボボエチャは買って帰りませんでしたが、
癒し系のユーモラスな姿を見ると、数人ほど連れて帰っても良かったかもと、今更ながら、思われます。


      

丸ごとのキュウリやトマト、果物や殻つき落花生など手をかけていない前菜が並ぶ中で
小さな柿のように見えているサンザシの実が珍しく、手を伸ばしてみましたが、お試しレベル、という所でした。
ラグマン(=トマトベースのスープの具沢山な中央アジア風うどん)と羊肉じゃがというランチ・メニューは、
日本の家庭料理と似通ったものがありましたが、用心が先に立って、余り楽しめない所が少々申し訳なくもありました。



コク・グンバス・モスク


2時過ぎにドームを修復中のコク・グンバス・モスク近くの駐車場に到着しました。

シャフリサブス(=緑豊かな町)はアケメネス朝ペルシアに支配された頃からの長い歴史を持つ中央アジアの古代都市のひとつで、
6~7Cにはケシュ(=心休まる場所)という名で栄えたソグド人のシルクロードの要衝の町です。
その後、アラブ、モンゴルによるイスラム支配の時代にはサマルカンドやブハラの繁栄の陰に押しやられますが、
中央アジア・西アジアを支配したティムール(1336-1405)が生まれた町として、再び歴史の表舞台に登場することになりました。
バルラス族に生まれたティムールは、モンゴル族の子孫と結婚することによってモンゴル王家とつながり、
支配者としての権力を高めたと言われています。
ティムール時代に貿易、工芸、建築、芸術が栄え、文化都市となったシャフリサブスはヨーロッパやアジアとの交流も盛んに行ない、、
町からもフランスやイギリスへ大使を派遣し、友好関係を結んだそうです。
その繁栄も16Cに台頭してきたシャイバニ朝ブハラ・ハン国に崩され、帝政ロシア時代にはブハラに併合されることとなりましたが、
ウズベキスタン独立後、ティムールの再評価と共に生まれ故郷の町も再び脚光を浴び、
ティムール時代の建物が残る町の中心部が2000年に世界遺産に登録されています。



コン・グンバス・モスク礼拝室

     

コン・グンバス・モスクはティムールの孫ウルグベクによって1436年に建てられた金曜モスクで、
イーワーンや礼拝堂内部に青や黄色の色調で統一した美しい修復が施されていました。
オリジナルは彩釉タイルではなかったかと思われますが、フレスコが用いられているのは技術と費用の問題でしょうか・・・。
20世紀の終わりから始められた修復工事は、コン・グンバス(=青いクーポラ)で最後の仕上げとなるようです。



コン・グンバス・モスクの向かい側にシャムスッディン・クラル廟とグンバズィ・サイーダン廟がありました。
コン・グンバス・モスクと合わせた一帯がドルッティロヴァット・コンプレックス、「瞑想の家」と呼ばれるティムールゆかりの建築群です。



1374年にティムールによって建てられたシャムスッディン・クラル廟には、
ティムールの父と師のスーフィー派首長シャムスッディン・クラルが葬られてますが、
修復途中のドームが下絵もなく(多分・・・)、中心からではなく、円の外周から描き始められている所に目が留まりました。
イスラムの伝統美術を受け継いだ職人によって、遠からず、美しい廟が蘇えることと思われますが、
700年前のオリジナルとの隔たりがちょっと気になる所です。



グンバズィ・セイードン廟はウルグベクが子孫のために1438年に建てた廟ですが、
モハメッドの子孫とされるテルミス出身のセイードの名前が刻まれた墓石があることから、
グンバズィ・セイードン(=セイードのクーポラ)と名付けられたそうです。
4つ並ぶ墓石の右端のコクダッシュ(=青い石)には病気を治す成分が含まれていると信じられていて、
窪みには水が溜められていました。



ハズラティ・イマム・モスク

ドルッティロヴァット・コンプレックスの東にドルッサオダット(=大いなる力の座)・コンプレックスがありました。

樹齢700年といわれるスズカケノキがある中庭に面して建つハズラティ・イマム・モスクは19~20C初めに建てられたもので、
モスク名はティムールの命によってイランから遺骸を移した8Cのイスラム活動家の名前に因むようです。
現在でも金曜日に使われている現役モスクの前は、いねむりをする絨毯売りのおじさん、ミシンを持ちこんで商品作りをする人など、
今回の旅ですっかりお馴染みになった世界遺産の中の物売り場所となっていました。
カラフルな布袋は「2個で5ドル」など安過ぎて、逆に躊躇してしまい、手を出すことができませんでした。


ジャハンギール廟

ジャハンギール廟の内部

ドルッサオダット・コンプレックスの中核を占めるのが、1376年に22歳で戦死した長男のためにティムールが建てたジャハンギール廟です。
16C末にブハラ・ハン国のアブドゥール2世(在位:1583-1598)によって破壊された姿のまま長年放置されていたようですが、
こちらも修復が大分進んでいる様子でした。


      

コンプレックスの一画にはティムールが自身のために用意したと伝わる1963年に発見された墓室もありました。
ティムールはサマルカンドのグル・エミール廟に葬られ、ティムールの生涯が刻まれた大理石の石棺には正体不明者が眠っているそうです。


バスへ戻る途中、コク・グンバス・モスクのドーム修復工事の現場を目撃しました。
左写真のロープを身体に巻きつけたストライプ・シャツの若い男の子が走ってバケツを運び上げる人力滑車作業は迫力あるものでしたが、
動画などで臨場感をお伝えできないのが残念です。


          

かつては城壁に囲まれていたシャフリサブスの中心部は南北2kmほどしかありませんので、
町の南に位置するふたつの建築群を見た後、バスに乗ると、すぐに町の北端のアク・サライ宮殿に到着しました。
ザファールさんは「これは今しか見られない姿ですから、皆様はラッキーです」と修復中の建造物にも前向きなガイドでしたが、
足場の中のティムール像撮影にはやはり気合が入りませんでした。
後方に見える入口門から中庭が広がり、この銅像辺りにティムールの宮殿があったと伝えられています。



アク・サライ宮殿跡

1380年に着工されたアク・サライ(=白い又は壮大な宮殿)はチィムール死後の1405年に完成しましたが、
今に残るのは破壊された北門アーチだけとなっています。
アーチから南へ向かって大理石が敷き詰められていたという中庭は、緑豊かな公園として整備、管理されていました。


      

遠くからアク・サライの高い外壁を見たアブドゥール2世が宮殿の全破壊を命じた後、馬を乗り潰しながら駆けても、
まだシャフリサブスに近づいていなかったと宮殿の大きさが伝説的に伝わる入口門アーチは、
元々は50m、現在は38mの高さで、タイルは剥がれ落ちていても、
「我々の偉大さに疑いがあったら、我々が建てた建造物をみなさい」と銘が彫られた時代の威容を保っているようでした。
「スルタンはアラーの影である」という左アーチに入れた銘を、右アーチでは「スルタンは影である」と書き間違えた職人は
ティムールによってアーチの上から投げ落とされたとも伝えられています。
アーチが過剰修復されることなく、世界遺産として守られることを願っていますが、地震、凍結など自然災害も難しい課題のようです。


修復中の外壁 公園管理の女性達



飛行機移動が多かった今回の旅では、9台のバス、9人のドライバーにお世話になったとF添乗員さんのレポートにありました。
余りに細切れで、スルードライバーのように馴染む機会がありませんでしたが、
このロング・ドライブの一日はRabshanさんの運転で、舗装道路、がたがた道を繰り返しながら、
宿泊地サマルカンドを目指して、4時前にシャフリサブスを出発しました。



カシュカダリア州を過ぎて、サマルカンド州に入ったあたりでしょうか、5時20分頃ユルタのある民家でトイレ休憩を取りました。
部屋にはなっていましたが、穴だけのトイレをイラン以来、久し振りに体験しました。



ザラフシャン(=黄金をまく)山脈を車窓にした刻々と色彩を変える夕刻のドライブは味わい深いものがありました。
Google Mapではシャフリサブスとサマルカンド間は85kmとなっていますが、
大型バスは峠越えをせず、迂回路を走ったようで、かなり時間は要しましたが、それを補って余りある美しい景色でした。



6時頃、聖ダビッドの門を通過、サマルカンドの街が近付いて来るにつれて、ぶどう畑が増えて行きました。
実はサマルカンドがワインの有名な産地であることを知ったのは旅を始めてからだったのですが・・・。



サマルカンド出身のザファールさんが日本語を学んだサマルカンド大学などを車窓に少し渋滞した街中を抜けて、
6時40分にアジア・サマルカンド・ホテルに到着しました。


      

   

ホテル・レストランでの夕食のテーブルに「だし醤油のにおい・・・?」というお皿がのっていて、不思議に思っている所へ、
F添乗員さんによるうどん皿が運ばれて来ました。
メイン料理のシャシリク(串焼き肉料理)もいただきながら、おなか休めの夕食ともなりました。


9時前に部屋に戻った時、壁越しに大音響の音楽が聞こえて来て、困った・・・と思ったのですが、
入浴を済ませた9時半過ぎには音がぴたりと止んで、ひと安心、10時前には消灯して、就寝することができました。
部屋チェックの時にバスタブに水栓がないことを見逃したことも、持参していた大きなシールで代用して凌ぐことができました。


目次][6日目