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19 Oct.2011
 Mostar~Sarajevo


サラエボへの出発が8時45分とゆっくり目の朝、朝食後にカリンスキー橋まで散歩に行くと、
街中を流れる川とは思えないほど自然のままの姿で流れるネレトヴァ川の両岸に真新しい家々が並び、
遠くにはフランシスコ会修道院の鐘楼が見えました。
遅ればせながら、街がさ程広大でないことが分かり、スタリ・モストの夜景を見たかった!と悔やみながら、
出会ったU夫妻と写真の撮り合いっこをしました。


車窓から見た黒い墓石のキリスト教徒墓地

ジプシー親子

マス養殖場

街を抜けて、工事のため片側通行で車が渋滞している所にさしかかると、ジプシー親子がやって来て、
左写真の右下に少し写っているように手を差し出し、ドローレスさんから小銭を受け取っていました。
独自の言語を持ち、特異な生活を貫くジプシーはバルカンに50~100万人いると言われ、
その数の大雑把さが示すように、正確な実態を掴むことができない人々のようです。
ネレトヴァ川を北上していくと、段々と渓谷の風景に変わり、マスの養殖が行われている所もありました。



一部をクロアチアに輸出しているという水力発電所を通過して間もなく、
チトー率いるパルチザンが独軍と戦った1943年のネレトヴァの戦いの主戦場に差し掛かりました。
独軍を渡らせないためにチトー軍によって落とされた鉄道橋は元の場所に再建されたようで、
ちょうど小さな貨物列車が通過していくのが見えました。


 

チトー(1892-1980)の名前と、その下に薄く手の形のリリーフが残っている道路脇の壁もありました。
チトーの本名はヨシップ・ブロズで、チトーというのは「お前(=TI)があれ(=TO)をしろ」という言葉からとられた
ニックネームで、「チトー亡き後」の歴史のとらえ方によって人物評価が分かれるようです。





10時にコニッツの川沿いのレストランで、ティー&トイレ休憩が取られましたが、
本格的な営業時間ではなかったのか、コーヒーだけでも手間取り、のんびり30分間のブレイクとなりました。



田園風景

正教会

復興途上

1885年開業の路面電車

11時過ぎにボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに入って行きました。

「チトー亡き後」の80年代の経済状況の悪化を背景として、旧ユーゴスラビアが解体に向かった時に、
ボスニアの独立を巡って、1992年から1995年までムスリムとクロアチア人対セルビア人の内戦が続き、
包囲されたサラエボの衝撃的な映像が全世界に向けて報じられました。
その内戦の最中の1994年に、内戦の様子を旅行ガイドに模して伝える
「サラエボ旅行案内-史上初の戦場都市ガイド」という本がクロアチアで出版され、
それを元にした「サラエボ・サバイバル・ガイド」という写真展が新宿・東長寺のギャラリーで開かれたり、
クストリツァ監督「アンダーグラウンド」(96年)、ケノヴィッチ監督「パーフェクト・サークル」(98年)、
最近では74年生まれの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチの「サラエボの花」「サラエボ 希望の街角」など、
内戦やその後を様々な視点から捉えた映画も上映され、
私にとって、サラエボは、段々と思い入れの深い街となっていきました。



サラエボ国際空港

たち込める川霧?

市内中心部から西12kmに位置するサラエボ国際空港を左手に見ながら進んでいくと、
山裾に霧を溜めたような光景があり、周りを山で囲まれたサラエボが、
ミリャツカ川の両岸に開けた盆地であることが分かるようでした。
10月も下旬になると冷え込みが始まり、昨日も最低気温が零下4度という情報が入って心配しましたが、
日中は寒さを感じるほどではありませんでした。



空港の程近くに、内戦時の1993年に造られたトンネルの一部を公開しているトンネル博物館がありました。
一般市民達によって両側から掘り進められた800mの中、20mほど残されているトンネルの入り口が
弾痕を残した民家である所が、凄惨さを一層明確に伝えていました。



入場料はなく、寄付金箱が置かれたトンネル博物館の館長さんと
1984年の冬季オリンピックの案内板を使った「包囲された市街」地図(上が南方向)の写真です。
セルビア軍に取り囲まれた地図の右上、包囲が狭くなっている地点が一般人の通行が許されなかった空港で、
その下に掘られたトンネルによって分断されたボスニア地区が結ばれることになりました。



最初に民家(博物館)裏手の中庭に設置されたビデオで内戦当時の映像を見ました。
20万人以上の死者、250万人を超える難民・避難民を生んだ内戦で、
サラエボだけでも1万1千人が亡くなったそうです。
1991年の国勢調査によるとサラエボ市の人口53万人は、ムスリム49%、セルビア人30%、クロアチア人7%、
ユーゴスラビア人(旧ユーゴ時代に生まれた統合的民族)11%という民族構成だったそうで、
そういう混住地帯に起きた「敵の顔が見えない」内戦の悲惨さは言葉もなく、ただ画面を見入るばかりでした。



高さ160cm、幅1mの内部は時間を決めた一方通行で使用され、延べ人数300万人が利用、
94年には通電して、電話も1本設置され、人々のライフラインの役目を果たしていたそうです。



内戦に関わる様々なものを展示する館内の一角には、各国の新聞の切り抜きが貼られていて、
「秋田さきがけ」新聞2000年10月10日付の記事が博物館として開館するまでを紹介していました。



館長さんのご両親?

40分ほどの博物館見学の後、12時過ぎにサラエボの街の中心へと向かっていきました。


街の中心近くの車窓風景

「ブチコ」

ホテル・ホリデイ・イン

サラエボ・オリンピックのマスコット「ブチコ」(伝説のオオカミ)を描いた建物を車窓に見つけたりしながら、
スナイパー(=狙撃兵)通りに入ると、内戦時にも営業を続け、各国ジャーナリストがニュースを発信、
ケノヴィッチ監督も撮影や脚本の執筆の拠点としたといわれるホテル・ホリデイ・インがありました。
高層ビルに潜んだセルビア人が動くもの全てを標的にして射撃した通りの名前がそのままに残されています。



官庁街を抜けて北へ向かい、聖火台が残るオリンピック・スタジアムを外から見学しました。
現在もサッカーの試合やコンサートに使われているそうです。



アイスアリーナ「Zetra」

砲撃で破壊されたアイスアリーナ・ゼトラは、国連や平和部隊の基地として利用された後、
1999年3月に修復が終わり、同年7月にはバルカン・サミットの会場となっています。



内戦中に墓地に運ぶことすら出来なかった犠牲者が埋葬されたオリンピック施設の周辺の様子です。
映像では見知っていましたが、実際目の当たりにすると、丘を埋め尽くすおびただしい数のお墓群は、
とても現実のものとは思われない光景でした。



車窓にハプスブルク帝国時代の華麗な建物もいくつも見かけましたが、
左の白い建物は元・国会議事堂でしょうか、バスで通り過ぎながらの写真&メモで、定かではありません。




ハプスブルク帝国時代の市庁舎で、サラエボのシンボルと言われた美しい国立図書館は
1992年に外壁だけを残して貴重な蔵書と共に全焼し、修復工事の途中でした。



旧市街のバシュチャルシャ地区の中のモリチャ・ハン(隊商宿)で、1時20分頃から遅めランチとなりました。

   



スープ、野菜サラダ、チェバブチチ、リンゴのケーキというメニューでしたが、
チェバブチチというのは小さなケバブという意味で、中東イスラム圏でお馴染みのひき肉料理でした。
当然、使っているのは豚肉ではなくラムと牛肉のひき肉で、禁酒レストランで、
ナンに玉ねぎと一緒にはさんで食べる流儀を倣いながら、イスラムの雰囲気を味わいました。



街の東に位置するバシュチャルシャ(中心広場)は、エキゾチックな雰囲気のトルコ風の職人街です。


現地ガイドさん

ガジ・フスレヴ・ベグ・モスク

イスラム神学校

現地ガイドさんによる旧市街観光は市内最大のガジ・フスレヴ・ベグ・モスクから始まりました。

ボスニアへ15Cに侵攻したオスマントルコが州都としたサラエボに、ボスニア最初のモスクを建てた
イサク・ベグ州知事がその隣に宮殿(=サライ)を置いたことがサラエボの街名の由来とされます。
イサク・ベグの後、ガジ・フスレヴ・ベグの時代にさらに多くのモスク、神学校、ハン(=隊商宿)、ハマムなどの
イスラム建築が建てられ、トルコ風の街並みが出来上がっていきました。
1530年建造のガジ・フスレヴ・ベグ・モスクはミマール・シナンがブルー・モスクを建築する前に
練習用に造ったモスクのひとつと言われています。



公衆トイレ

ギャラリー


時計塔           元シナゴーグ         バザール

1529年に造られたヨーロッパ最初の公衆トイレや時計塔、トルコ風バザールの建物などを見ながら、
15Cにイベリア半島を追放されたユダヤ人が逃れて来て、住みついた地区へ行き、
シナゴーグを利用した博物館やギャラリーの外観を見ました。
寛容の精神が息づくと言われるコスモポリタンの街サラエボのルーツが残る一画とも言えそうです。



フェルハディア通りを西へ進むとハプスブルク帝国統治下に最初に建てられた建造物、カトリック大聖堂があり、
昨日、リニューアル・オープンされたという内部に入ることができましたが、
今回の旅で特に印象的に思われたことのひとつ、教会で一心に祈る人の姿がここにもありました。
内戦が生み出した、祈ることしか出来ない人達、ではないでしょうか・・・。



セルビア正教会

ハン(隊商宿)跡地

それ程広くない旧市街を歩きながら、モスク、シナゴーグ、カトリック教会、セルビア正教会が勢揃いしていることが
平和の証しであってほしいと思われました。



広場チェス?

サラエボ事件博物館

ミリャツカ川沿いの通りへ出ると、ハプスブルク家の王位継承者フランツ・フェルディナンド大公とゾフィー妃が、
「青年ボスニア」に属するボスニア出身のセルビア人、プリンツィピにピストルで暗殺され、
第一次世界大戦の引き金となった1914年6月28日にサラエボで起きた事件現場があり、
その様子を展示したミュージアムがありました。
旧市庁舎でセレモニーを終えた夫妻は、この建物前で人込みに紛れたプリンツィピによって暗殺されたそうです。



事件の後に橋の袂に建てられた夫妻の慰霊碑は、大戦終了後の1918年に取り壊され、
英雄と見なされた暗殺者に因んで橋はプリンツィピ橋と呼ばれ、銃を発砲した現場には足跡とプレートまで
飾られていたそうですが、内戦が始まった1992年に元の名前のラティンスキー橋に戻されています。



ミュージアムの壁近くに貼られた内戦戦死者のプレート


4時過ぎから1時間の自由時間は、お土産を買ったり(後でイタリア製と気付いたシルバー・ネックレス・・・)、
バシュチャルシャをのんびり散策して過ごしました。



セビリ(=水飲み場)

東西文化が交じり合った不思議な街の雰囲気を堪能して、5時にバシュチャルシャの中心セビリに集合、
夕暮れの街を後にして、ホテルへ向かいました。



アルバニア大使館

ビール工場

駐車場へ向かう途中、アルバニア大使館やビール工場を見かけました。
山の中腹の湧水を利用するビール工場は、内戦時には市民に水を供給し続けたと言われます。



Radon Praza Hotel

5時50分に驚くほどモダンなラドン・プラザ・ホテルに到着しました。
ホテルは市街の西方、空港近くに位置し、部屋からは郊外らしい景観が見られました。


  

麦のスープ、スズキのソテー、ケーキで最後の夕食を楽しみましたが、
最上階の回転レストランからの夜景は暗がりが目立ち、首都としての華やぎを持つにはまだ時間を要しそうです。



3人の旅スタッフと共に集合写真

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