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6 June 2010
Veliko Tarnovo〜Shipka〜Koprivshtitsa〜Sofia


昨夜来の雨が止んだ朝、窓の外は深い霧に包まれて雲の中にいるようでしたが、
日の出と共に少しずつ晴れ上がり、川景色が姿を現わしました。
ホテル・ボリアルスキは道路側から見ると4階ですが、
南側から見ると傾斜地を利用した12階建ての建物になっています。



この日は6月第1日曜日でバラ祭りの日にあたり、道路が混むかもしれないと、
少し早目の7時45分にホテルを出発、50km余り南下して、カザンラクへ向いました。

ブルガリアのマンチェスターと呼ばれる工業都市ガブロヴォの街を通過すると、
まもなく片側一車線、追い越し禁止の山道区間に入りましたが、登るにつれ霧が段々と濃くなり、
幻想的ではありましたが、スリリングなドライブとなりました。
20分ほどで到着した標高1306mのシプカ峠は、晴れていれば良い眺望が望め、
さらに山の上には露土戦争の激戦を勝ち抜き、国土を死守した記念のモニュメント「自由の記念碑」が
見える筈ですが、残念ながら視界に恵まれず、峠の茶屋?付近を少し歩いただけとなりました。
小さな慰霊碑の十字架は八端には一本足りませんが、ロシア正教会に属するもののようです。


バスの中は13℃と表示されていましたが、外気温は一桁ではないかと思われる寒さでした。
旅の終りにN添乗員さん、ガイドのビストラさん、ドライバーのズラティンさんの3ショットをカメラに収めました。
ソフィア空港でビストラさん達と別れた時、「ビストラさんはプロフェッサーなんですって。」と
近くにいた旅なかまから教えられました。




シプカ峠名物と言われる水牛のヨーグルトは寒さに負けて買う気力が出ず、
N添乗員さんにスプーン1杯試食させていただきましたが、味の違いは判別できませんでした。

ヨーグルトの発祥の地は諸説あるようですが、やはり多くの学者がブルガリア(トラキア)説を採り、
20C初めにブルガリアに長寿の人が多いことに目をつけたロシアのイリヤ・メチニコフ生理学者は
「不老長寿論」でノーベル賞を受賞しましたが、これは後年に誤りであったことが証明されたそうです。
日本では7Cに百済からの帰化人が牛乳をしぼって孝徳天皇に献上した記録が残り、
乳製品、発酵食品の効用は古くから認められていたようです。

ブルガリアでは5月6日を家畜の守護聖人ゲオルギウスの日と定め、
この日から家畜を放牧したり、その年最初のヨーグルトを作る伝統があったそうですが、
キリスト教の聖人ゲオルギウスがトラキアの騎士聖人と同一視されていることも
ヨーグルトがトラキアに始まったという根拠のひとつとされているようです。

今回の旅ではビュッフェ・テーブルに置かれた大きな鉢に入ったプレーン・ヨーグルトを小皿に取って
毎朝いただきましたが、ブルガリア・ヨーグルトが日本に入って40年経った今では
日常生活の延長という所でした。


シプカ村 トラキア人墳丘墓

シプカ峠を越えると、間もなく眼下にシプカ村が見えてきました。
シプカからカザンラクにかけたトラキア平原一帯から数多くのトラキア人墳丘墓が発見され、
「バラの谷」とも「トラキア王家の谷」とも呼ばれる車窓には土を盛った墳丘墓が見えていました。




2004年にシプカ村スヴェティツァ墳丘墓から発見された王の黄金マスク(BC5C)
(2008−9年に日本で開催された「よみがえる黄金の文明展」図録より転載)



山の中腹にはシプカ峠で戦没した人々を慰霊するシプカ僧院の黄金のドームが見え、
ロシア政府を始めブルガリア全土からの寄付によって、1885年に着工され、1902年に完成した教会が、
牧歌的な景色の中で、民族の歴史モニュメントとして大きな存在感を見せていました。



カザンラクの中心街はバラ祭りの交通規制があったため、幹線を外れて迂回した道路沿いのバラ畑で
写真タイムが取られました。
「バラの谷」と呼ぶカザンラク(カザンはローズオイルを抽出する銅の蒸留釜のトルコ語)周辺は、
谷というより山裾にバラ畑が点在している平原でした。




この地方のバラは16C後半にオスマン・トルコのスルタンが宮殿用に栽培を命じたのが始まりとされ、
19Cに入って重要な産業となり、現在は世界のバラ香水の7割がブルガリア産と言われています。
栽培されているダマスク・ローズは直径7〜8Cの小型品種で、高い香りと高品質のローズ・オイルを
抽出できるのが特徴で、1kgのオイルを抽出するのに3トンの花びらを必要とするそうです。
夜露がオイル採取に重要な働きを持つため、花びらの摘み取りは早朝に一家総出で行われる重労働ですが、
この日は朝方までの雨のお陰で、10時頃でも摘み取り作業を見ることが出来ました。



写真を撮り、花を摘ませていただいたバラ畑の家族に手を振って見送られ、
再び迂回路を通って、チュルベト公園の中のトラキア人の墓を見学に行きました。



羨道 (「旅名人ぶっくす」転載)

1944年に防空壕を掘っていた兵士によって偶然発見された直径40mのトラキア人の墓は
BC3Cのトラキア人の生活文化を克明に伝えるもので、1979年に世界遺産の指定を受けています。

見学できるのは隣接して造られたレプリカですが、羨道、玄室ともに狭いため入場制限がされていました。
列に並んで待っている横を昨日の下駄履きの男性が通ったり、
内部見学の時、イヤホンガイドが混線していると思ったら、私達と同じW航空の別のツアーだったり、
バラ祭りから回わって来たと思われる日本人ツアー団体にいくつも出会い、
バラ祭りは女王を決めたり、パレードや民族舞踊のショーがあるだけで見る価値は低いので、
このツアーでは行きません、というN添乗員さん説を納得したようなごった返しの世界遺産でした。



レプリカでも内部の撮影は禁止でしたので、有力貴族と思われる夫と殉死した妻が描かれた天井画と、
近くのゴリャマ・コスマトゥカ墳丘墓から発掘された副葬品を絵葉書でご紹介します。

ヘレニズム時代の着色壁画はマケドニアの古墳に1個所とこのカザンラクの墓の天井の丸いドームに
描かれたものしか発見されておらず、大変に貴重なものだと言われています。
右写真の副葬品の多くはソフィア歴史博物館で実物を見ましたが、
左下のブロンズ像は2004年にゴリャマ・コスマトゥカ墳丘墓から発見された
トラキア人のオドリュサイ王国最盛期の王セウテス3世像で、
王墓は調査後に公開されて、カザンラクの新たな観光スポットとなっているようです。



カザンラクを11時15分に出発し、西へ約100kmのコプリフシティツァへ向う途中、
すっかり晴れて山容を現わしたシプカ峠の上のストレトフ山山頂にかすかに自由の記念碑を確認したり、
延々と続くバラ畑やたまに民族衣装を来た女の子を車窓に見ることができました。


  

1時半にコプリフシティツァに到着し、レストラン「Starata Krusha」で
チキン・スープ、ボルヤルスコ・キョフテ、ヨーグルトの少し遅めのランチをいただきました。



ランチの後、ハウス・ミュージアムと呼ぶ伝統家屋が残る村の中を散策しました。
日本の昔の田舎にも似た懐かしい感じのする風景です。



最初に少し坂を上って、高台にある1856年に建てられたオスレコフ・ハウスへ行き、
裕福な商人オスフレコフが交易で訪れたローマやヴェネツィアなど異国の風景が描かれた正面玄関を入って、
トルコと西欧風が混じり合ったインテリアを見学しました。
エントランスの柱や天井はレバノン杉を使っているそうです。室内は撮影禁止でした。



オスフレコフ・ハウスから坂を下ると第1次世界大戦で戦死した詩人の息子ディンチョ・デベリャノフを待つ
母親像があり、「母の元へ帰りたくも帰れず」と書かれた石碑の前で
頬杖をついて帰らぬ息子を待つ姿から哀しみがリアルに伝わって来るようでした。
木造の聖母教会は石造りとは違った風情を持っていました。



聖母教会の南には1845年にプロヴィディフ様式で建てられたカブレシュコフ・ハウスがありました。
ブルガリア全国でオスマン・トルコからの独立運動の機運が高まった時代に
自らピストルを手に一団を率いて警察署を襲い、1876年4月10日の「4月蜂起」を起こしたのがカブレシュコフで、
この蜂起は鎮圧されたものの、オスマン・トルコの余りに非人道的な弾圧への反感が露土戦争を誘い、
ひいてはブルガリアの独立へとつながることになったと言われています。
庭に胸像が立つカブレシュコフ・ハウスの1階では当時の生活を再現し、
2階は4月蜂起や25歳にして獄中で自決に追い込まれた作家カブレシュコフの資料室となっていました。


カブレシュコフ・ハウスの外観とピストルを持つカブレシュコフ像成


その後、30分程のフリータイムになり、17Cの石橋などがある小さな川沿いの道を
バスが待つ「4月20日広場」まで自由に散策しながら戻っていきました。




今回の旅では白い葉裏がひるがえって花のように見える木を車窓に見たり、
香り高く咲き誇っている花を間近に見た菩提樹ですが、
この日、小川沿いの道でつぼみを見て、初めてユニークな花の形に気が付きました。
葉状の苞の真中から花柄が伸びて、初めから飛ぶ用意がされているのですね。
右は秋になってすっかり乾燥して軽くなり、飛ぶ支度を終えた翼果です。



「4月20日広場」まで戻り、「4月蜂起記念碑」やランチ・レストラン「Starata Krusha」の名前の由来、
「大きなイチジクの木」を確認したり、裏道を歩いたりしてフリータイムを過ごした後、
4時にコプリシティツァを出発しました。


   

6時過ぎにデデマン・プリンス・ホテルにチェックインし、7時半にロビーに集合してバスで
夕食のレストラン「Chevermeto」へ行きました。
最後の晩餐はW航空のサービス・ワインで乾杯の後、
ヨーグルト・サラダ、キョフテ、カヴァルマ、ミルクバニッツァと続き、
多国籍歌謡?や民族舞踊のショーを楽しんでいる中にブルガリア最後の夜が更けていきました。


  

  

私は写真班でしたが、観客も輪に加わってしばらく踊りを楽しんだ後
延々と続き、いつ終るか分らないというショーに名残りを残して、10時過ぎにお店を後にしました。

ホールを横切って会計へ行く時に音楽に合わせてステップを踏み、ホールへ戻ると、
ひとしきり音楽に乗って踊るN添乗員さんの姿には旅の終りが見えた安堵感が漂っているようでした。
(或いは学生時代にディスコで鍛えたステップのご披露・・・・だったかも?)


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