[ホーム][目次][P4

30 May 2010
Sofia〜Rila Manastery〜Plovdif


朝8時半にホテルを出発し、南へ120kmバスを走らせて、リラの僧院へ向いました。
高度成長期にあるというブルガリアの首都ソフィアは急速に街を拡げ、
外資系ホテルやスーパー、高層住宅の建築が郊外へと延びているようでしたが、
まもなく煉瓦色の屋根の家と麦や牧草畑の緑のコントラストが美しい車窓風景が続くようになりました。
ほとんどの家が「長寿のシンボル」とされるブドウ棚を持っていました。



のどかな田園風景を見ながら、N添乗員さんの第1回目の車内講座が始まりました。

キリストの生誕年はBC8年から6年まで諸説あり、BC7年9月15日というイギリスの天文学者の説もある、
ユダヤ教では日没から1日が始まるのでクリスマスは12月24日の夕方から祝う、
ユダヤ教が法律のようなものであるのに対し、キリストが「隣人を愛せよ」と説いたことが
人々に広く受け入れられた大きな要因、伝道活動を行った使徒たちの話、
迫害の中で造られた地下礼拝堂がカタコンベの始まりなど、初期キリスト教のお話を伺いました。

40分ほど走ると、左手前方に雪をかぶったリラ山脈が見え初めました。
最高峰は標高2925mのムサラ山です。


沿道に丈の低い桜の木の畑が続き、時々現れるサクランボ露店のシャッターチャンスを狙っていたら、
ガイドのビストラさんお推めの畑でバスが止められました。




これ以上望めない新鮮な採りたてのサクランボが1kg300円。
銘柄など無縁でも、とびっきり美味しい自然の恵みをいただきました。



走るにつれ作物の種類も変わり、ブドウやソラマメ畑、苗を植えたばかりのヒマワリ畑も見られました。
家族数人で農作業をしている様子を時々見掛けましたが、そのような人数では対応しきれないと思える
広大な畑の管理には村の共同体のようなものが存在するのでしょうか。
政体が変わって20年、どこまでも続く豊かな緑は民主化の成果のひとつか、
それとも昔から変わらず続くブルガリアの生活風景なのか、思いを馳せながら眺めた田園風景でした。


リラ山脈が近付いて来た9時45分頃、煙草や薬工場が多いというドゥプニッツァでトイレ休憩が取られました。
ブルガリアはまだ禁煙のお国柄ではなく、至る所で喫煙している人を見かけました。
幹線道路にはコンビニのようなショップ、カフェ併設のガソリン・スタンドが適度な間隔で設けられていました。



コウノトリで有名なコチェリノヴォ村で写真タイムがありました。
東欧の田園の風物のような馬やロバに引かせた荷車は度々見かけましたが、
大体バスの側を通っていて、車窓からカメラに収めることが出来ず、
やっと巡って来たシャッターチャンスには正面から撮るのを断られた旅なかまがいたため、
慌てた落ち着きの悪い写真になってしまいました。


 

他の村にもコウノトリを誘い込もうという研究者の試みがあるそうですが、
成功しないのは上空の気象条件が関係しているのでしょうか。
巣立ちの時季が近いひな達は組み込まれたDNAによってまた同じ煙突へ戻って来るのでしょう。
春寒な日でも暖炉を我慢する村人の優しさにも守られているのですね。

リラの僧院


来た道を少し戻って、右折し、バスはリラ川に沿った山道を上っていきました。
11時過ぎに観光バスがたくさん停まっている駐車場に到着しました。




駐車場脇にちょうどリラ(ライラック)の花が咲いていましたが、リラという名前は10C初めに、
この地を隠遁の場所として選び、小さな僧院を建てたイヴァン・リルスキー(876-946年)に因むという説や、
トラキア人に由来するリラ=水豊かな山とする説があるようです。

数々の奇跡、熱心な伝道で村人の尊敬を集めるようになったリルスキーの元に、
931年に修道団が形成され、集団生活の規模が段々に拡大し、
13Cにはギリシアのアトス山やエルサレムへの巡礼の中継地として宿泊施設も建てられ、
また第2ブルガリア帝国時代には様々な特権を与えられ、
皇帝や貴族の寄進も受け、広大な領地を所有するようになって行ったそうです。
その後のオスマン・トルコ支配下でも納税を条件に活動を認められ、
正教会の伝統を守り続けることが出来たブルガリア人の聖地とも呼べるリラの僧院です。

城壁のような厚い石壁でとり囲まれた僧院の全貌はつかみにくいですので、
配置図を真中において、周りに建物の写真を並べてみました。
僧院内側の様子、位置関係などが少しお分かりいただけるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  
ワイナリー・台所

フレリョの塔

西門入口          配置図:旅名人ブックス 「ブルガリア」 日経BP企画        博物館入口

僧房

聖母誕生教会 南面
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最初に聖母生誕教会の東側にある歴史博物館へ行きました。

地下1階の民俗博物館には絨毯やタペストリー、民族復興期に書籍の出版など行った19世紀の銅板印刷機、
ネオフィット・リルスキー手作りの地球儀、外国からの寄進品などが展示され、
1階の歴史博物館にはイコンや聖具、僧服など教会の宝物が飾られていましたが、
中で最も貴重とされるのが「ラファイルの十字架」 です。
18C末の修道士ラファイルがシナノキで造った縦81cm横43cmの十字架には聖書の話が104場面、
650人の登場人物が針を使って彫り込まれ、修道生活のかたわら12年かけて彫り終えた時には
視力をほとんど失っていたと伝えられています。
人間技とは思えない至宝のすごさは絵葉書写真ではお伝えできませんけれど・・・・。


次に現在は7人しか修道士がいないという僧房のひとつを見学した後、
敷地の真中で堂々とした存在感を見せている聖母生誕教会に入りました。

1833年1月13日、厳寒の季節の大火でフレリョの塔だけを残してほとんどの建物が燃え尽きた僧院は、
オスマン・トルコからの独立の気運が高まっていた民族復興期と重なり、
国中から寄付やボランティアを集め、ネオフィット・リルスキーの指揮によって、
アトス山のヒレンダル修道院に倣った後陣を3つ持つアトス式の聖母生誕教会をはじめ、
今ある建物のほとんどが1870年までに復元されたそうです。



内部の絵葉書写真

回廊の天井

制作に7年を要したというバルカン半島最大級の金箔が施された12mのイコノスタシスには
キリストと並んで創始者イヴァン・リルスキーが描かれていました。
ザハリ・ゾグラフなど19Cの著名な画家たちによって描かれた教会内部のフレスコ画は
1200場面にのぼるそうです。
イヴァン・リルスキーのひじの骨が聖遺物として納められ、ボリス3世のお墓もありました。
内部写真左手の柱下部には32人の聖人の骨を仕切って納めている木箱が置かれていて、
ご利益も32倍と?お賽銭を入れて手を合わせる旅なかまの姿も見られました。



洗礼者ヨハネ アブラハム イサク ヤコブ

最後の審判

縞模様のビザンチン様式の回廊にも隙間なく宗教画が描かれていましたが、
絵を読み解くには時間と聖書の知識が不足していて、
仏教画にも似た極彩色の絵が醸し出すエキゾチックな雰囲気だけを味わって来ました。



台所の入口

犬とN添乗員さん

教会見学が終わった所で、「30分間ほど自由時間をお取りします」ということになった時、
思わず、「えっ?台所には行かないのですか」と言うと、
N添乗員さんは「はい、台所へ行きましょう」と即座に対応して下さったのですが、
台所の入口には「REPAIR」の貼り紙があり、入ることは出来ませんでした。
漏斗状の巨大煙突、牛一頭がそのまま入るという大釜などが見られなくて残念でした。

標高1147mに位置し、快晴とまではいかなかったこの日の僧院は、ほんの少し肌寒く、
人混みを物ともせず昼寝中の犬は石畳より木のベッドの方が心地良かったようです。
無類の動物好きのN添乗員さんは、フリータイムに時々、イヤホンガイドのマイク・スイッチをオンにしたまま、
「おいで、おいで、う〜ん、おいで!」と仕事の時と違う声を旅なかまの耳に届けていました。



この日のランチはリラ川沿いの気持の良いレストラン「Gorski Kat」に用意されていました。

  

修道院風豆スープ、鱒のグリル「パスタルヴァ」、パンケーキという場所に相応しい素朴かつ充分なメニューで、
養殖ながら新鮮な鱒は美味しく、N添乗員さん差し入れのお醤油やわさびも人気を呼んでいました。


食後のブルガリアン・ファミリーとの交流タイム

カメラのモニターで撮った写真を見ていると、横から覗いたHさんが後々まで誉めて下さったのが、
N添乗員さんの表情をとらえた1枚でした。カメラの腕よりも、お孫さんへの思いが自然と漂っているとも・・・?



2時に修道院の伝統を継ぐ?蜂の巣箱や蜂蜜の露店を沿道に見ながらリラを出発して、
プロブディフまで200kmバスを走らせました。



1時間半ほどして、ボロ(=松)ヴェッツのウインター・リゾート・ホテルでトイレ休憩がありました。
ソフィアやプロブディフからの交通の便の良いリラ山脈有数のリゾート地のようでしたが、
この時期は針葉樹の多い林の中をハイキングする姿が少し見受けられるくらいでした。

リラ山脈を越え、社会主義時代にはイスタンブールとの交易中継地としてブルガリア第2の都市として栄えた
バザルジクの町などを通過して、5時40分にプロブディフのホテルに到着しました。
現在の人口はソフィア、プロブディフ、ヴァルナという順番だそうです。



レセプション階はモダンでスマート、部屋には社会主義時代の面影が残るノボテル・プロブディフでしたが、
全員にマリッツァ川や旧市街ビューが用意され、気持の良い連泊となりました。


  

7時からの夕食タイムはホテル内の小さなレストランで、私達グループだけでゆっくり寛ぎました。
メニューはミックスサラダ、ビュレク トルコ風パイ、鶏胸肉のグリル、ヨーグルト・ゼリーでしたが、
おしゃべりをしていて気がついた時には周りにフォークが入っていないトルコ風パイは見つからず・・・。
(食事写真同好会?のKさんから画像が届いたら、追加掲載することにします。)



トルコ風パイ   -RK-

この日同席したS夫妻とは旅とは関係のない共通の知人がいることが分り、話が盛り上がりました。


目次][P4