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31 May 2010
Plovdiv〜Bachikovski Monastery〜Plovdiv


スレドナ・ゴラ(中央山地)とロドピ山脈に挟まれたトラキア平原の西の中心地プロブディフは
前6千年紀から人が住んだ歴史を持つ世界最古の街のひとつで、
BC2000〜1000年にはトラキア人が外壁を持つ集落に住み、
BC342年にマケドニアのフィリッポス2世が町を占領してフィリッポポリスと命名、
BC2Cにはローマ人が進出、AD46年にローマ帝国の属州となりトリモンティウム(3つの丘)と名付けられた後、
オスマン・トルコ支配時代には再びフィリッポスに因んでフィリベと呼ばれ、
プロブディフという名前もトラキア語のプルプデヴァ(フィリッポスの都市)に由来しているそうです。
現在は周辺の郊外地区を入れて人口65万人を擁するブルガリア第2の都市です。

部屋から撮ったパノラマ写真左手の丘がローマ時代にトリモンティウムと呼ばれたネベット・テペ、
真中がサハト・テペ、右手が頂上に大きな兵士像が立つ解放者の丘ブナルジク・テペで、
現代のプロブディフも3つの丘に囲まれて広がっていることが分ります。



朝食後に散歩に出ると、「プライベートバラ祭りとブルガリア周遊10日間」というE社のバスと私達のバスが
ホテル前に並んで駐車していました。
ロビー周辺に警備の姿が見られたのは、アメリカ空軍兵が同宿していたせいでしょうか、
観光客とアメリカ兵達のまわりには全く違った空気が漂よっているようでした。



パノラマ写真右手の川の上の建築物の内部は予想通りショッピング・モールになっていて、
お土産品や日用品のお店が軒を並べていました。
風景と調和しない橋に見えますが、足早に出勤する人達を見ると、地元の人の利便性は高そうでしたし、
国際見本市会場や高層建築がある左岸とはマッチしているのかもしれません。

川沿いの緑地では犬を遊ばせている人達と「Good morning!」と挨拶を交わしましたが、
どうせ忘れるからと熱心に覚えなかったブルガリア語の「ドブロ ウートロ」(おはよう)が
帰国して半月が経った今頃になって口をついて出て来ます。
音をシャワーのように浴びる所に語学習得の極意がありそうですね。



9時にホテルをバスで出発し、街の中心のジュマヤ広場近くで下車、徒歩観光をしました。
広場の真中の大きな穴は長さ250m、幅25m、3万人を収容したという3Cのローマ時代の闘技場の一部で、
修復工事が行われていましたが、街の下に埋もれている全体像は想像するしかなさそうです。



高い塔の上から広場を見下ろしているのはマケドニア王フィリッポス2世像です。
その息子アレクサンダー大王はアジア遠征に忙しく、この地を顧みる余裕がなかったため、
この町は次第に荒れていったと言われています。



広場の一角にあるオスマン・トルコの支配下に入った14C末に教会の跡地に建てられた
ブルガリア最古のモスク、ジュマヤ(金曜日)・モスクを見学しました。
イスタンブールやソフィア、中部ヨーローッパへの交通の要衝であったプロブディフには、
現在でも正教、イスラム、ユダヤ人、アルメニア人など様々な宗教、国籍の人々が集まっているそうです。



鉛筆型のミナレットや落ち着いた色合いのミフラーブ(メッカを示す壁がん)やミンバル(説教壇)など
シンプルなイスラム建築の装飾に懐かしさを感じました。



モスクを出て、ジュマヤ広場東側に広がる旧市街の歴史地区へ向けてサボルナ通りを上って行きました。

 

黄色の建物はマケドニア様式で建てられた芸術アカデミーで、
アーティストや反社会主義であったといわれるバイオリニストの像が近くに置かれていました。
石畳をゆっくり上って行くとハウス・ミュージアムと呼ばれる民族復興様式(18C半ば〜1878年)の
美しい建物が見え始めました。



途中でちょっと脇道に入り、城壁補強工事中の1978年に偶然発見され、1981年に復元したという
トライアヌス帝時代のローマ劇場に寄りました。
ロドピ山脈とプロブディフ市街を背景とした劇場では現在もオペラやコンサートが開かれていて、
この日は白い大理石のイオニア式列柱の間にツタンカーメン像が置かれていました。
28段あったと言われる観客席は5Cに異民族に破壊され、現在は20段ほどになって、
収容人数は5〜7000人から3000人に減ってしまったそうです。


路上で絵を売る美大教授 赤と黄色の制服?姿のお掃除おばさん

ローマ劇場の東に1833年にフランスの詩人ラマルティーヌ(1790−1869)が滞在したため、
持ち主のゲオルギ・マヴリディではなく、「ラマルティーヌ・ハウス」と呼ばれる家がありました。
オスマン・トルコ様式にバロックやロココ様式を加え、上階を迫り出し、玄関ファサードなどに曲線を使っているのが
民族復興様式の特徴で、ブルガリア・ルネサンス又はプロブディフ様式とも呼ばれています。





この赤い建物は現在はレストランとして使われている元メブラーナ教団の本部で、
中庭をちょっと覗いて、旋舞など特色ある壁画の写真を撮らせていただきました。




誕生日が同じということに盛り上がったSさんが送って下さった写真を見て、しばらく悩んだ後、
ようやく同場面のものを探しあてました。角度が違うとまるで別写真のようです。



有名なオペラ歌手が所有するというピンクの建物前を過ぎると、店舗やお土産品の露店が並ぶ
サボルナ通りの中心に出ましたが、旧市街の雰囲気をこわす程には観光地化されていなくて、
古い都市景観がよく保たれていました。



聖コンスタンティン・エレナ教会

中心に位置する建物のひとつが4Cの教会を1832年に再建した聖コンシタンティン・エレナ教会です。
キリスト教が認められていないディオクレティアヌス帝の時代に弾圧された37人の地元民に因み、
キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝と母親の名前が付けられています。
リラの僧院と同じザハリ・ゾグラフのイコンが飾られたこじんまりとした美しい教会でした。



聖コンスタンティン・エレナ教会の鐘楼

民俗博物館

聖コンスタンティン・エレナ教会と道路をはさんで、1847年にトルコ商人クユムジョグルが建て、
現在は民俗博物館として使われている典型的なブルガリア・ルネサンス様式の建物がありましたが、
月曜日で休館でしたので、左写真の丸窓にカメラを差し込んで、ファサード写真だけ撮りました。



少し坂を上って、ネベット・テペへ行くと、新市街が一望できるパノラマが広がっていました。
銅石器時代(前5千年紀)の集落遺構や自然石を使ったトラキア神殿、石と煉瓦のマケドニア神殿、
大きな石のローマ時代、小さな石を固めたオスマン・トルコ時代と長い歴史の見本市のような遺跡でした。



ブルガリアの至る所で見かけた木に結びつけられた紅白の飾りひもはマルテニツァと呼ばれるお守りで、
3月1日のババ・マルタのお祝いの日に身につけ、その年、初めてコウノトリを見つけた日に
桜やリンゴ、イチジクなど実のなる木に結ぶと縁起が良いと言われています。
右は私の背中にくっついて街までついて来たバッタで、記念の1枚を残しておきました。



ビザンチン時代の貯水槽(12-14C)
ヒサル・カピア

フィリッポス2世時代の要塞門ヒサル・カピアを抜けて、ビザンチン時代の数少ない遺跡のひとつの貯水槽を見学、
創作陶器のお店を覗いたりしながら、中心地へ戻りました。


歴史博物館 バラバノフ・ハウス

ヒサル・カピア近くの歴史博物館はゲオルギアディ・ハウスとも呼ばれ、
民俗博物館と同じハジ・ゲオルギが1848年に建てた典型的なブルガリア・ルネサンス様式の建物で、
右側の貿易商ルカ・バラバノフの家の1階は現代美術ギャラリーとして使われています。



ヒンドリアン・ハウス

ハウス・ミュージアムのひとつ、アルメニア人ステファン・ヒンドリアが1835−40年に建てた
ヒンドリアン(アルメニア語でインド人)・ハウスの内部を見学しました。
貿易商であったヒンドリアンの外国の収集品や異国風にまとめた室内など見応えがあり、
パステル・ブルーの外観にも洗練が感じられました。



ローマ時代の基礎が見える建物裏を見た後、ランチ・タイムまでの自由時間に裏道を歩いていると、
数年間日本で暮したことがあるという男性から達者な日本語で話かけられました。
お母さん、美しい夫人とかわいい子供達連れの素敵なファミリーでした。


  

12時からのレストラン「Janet」のランチ・メニューはタラトール(ヨーグルトときゅうりの冷製スープ)、
ムサカ(挽肉とポテトとチーズのオーブン焼き)、アイスクリームでした。
タラトール、ヨーグルトが添えられたブルガリア風のムサカ共に美味しい郷土料理でした。



ランチ・タイムを含めて3時間半、旧市街でゆっくり過ごした後、オルフェウス広場と呼ばれる
トラキア・ギリシア時代の遺跡近くからバスに乗って、南へ30kmのバチコボ修道院へ向いました。



ヒナゲシ大群落

第2ブルガリア帝国時代の要塞

途中、ヒナゲシの大群落の前で1回目の写真ストップが取られました。

  
ヒナゲシ            チドリソウ             カミツレ     

ヒナゲシもチドリソウもカミツレもかわいい花ですが、この後、これらの花の大群落にしばしば出会い、
トラキア平原を席巻するような勢いには美しいとは言っていられないものを感じました。
ヒナゲシと麦畑はモネが絵のモティーフともしていて、昔から田園に馴染んでいるようですが、
休耕地や荒地の雑草というイメージも強く、過度の分布でなければいいのだけれど・・・と思われました。

2回目の写真ストップは13Cの第2ブルガリア帝国時代の要塞を見上げるビュー・ポイントでした。



2時にロドピ山脈の山あいにあるバチコボ修道院に到着しました。
ビザンチン軍の司令官であったグルジア人のバクリアニ兄弟が皇帝から与えられた封土に
1083年に修道院を創設、グルジア人の修道院として発展した後、第2ブルガリア帝国時代に拡張したものの、
オスマン・トルコ時代の破壊や火災で崩壊、現在見られるのは19Cに再建された修道院です。

バスを下りて、仲見世を通り抜けて、ゆるやかな坂を上っていきました。



外壁を潜った内側の入口から先は撮影禁止


屋内のみ撮影禁止と勘違いした夫が撮った聖母教会の外観 

行方不明から200年後に発見された「奇跡の聖母」のイコンが信仰を集めている聖母教会は、
イコンが発見された8月1日がお祝いの日とされ、その日は大変な人出があるそうですが、
現在の修道士は3名だけということでした。
ろうそくの煤で黒ずんだ内部のフレスコ画は日本人研究者による修復が予定されているそうです。
この修道院の外壁にもザハリ・ゾクラフのフレスコ画が見られました。



アイスクリームを食べながら課外学習の生徒達と小さな交流をした後、
3時15分にバスに乗り、プロブディフでマリッツァ川に合流するアセニッツァ川沿いの山道を下って行きました。


4時過ぎにホテルに到着後、中心街までお土産を買いに出掛けましたが、
「無粋な」橋を渡ると、ジュマヤ広場まで訳もなく行けることが分りました。
アレクサンダル・バテンベルグ通りを中央広場まで歩いてもそれ程の距離ではなく、
聞き耳を立てる彫像への社交辞令でもなく、人間に合ったサイズの街に親近感を覚えました。




ユーロもカードも使えない地元のお店で両替に走りながら孫達にブルガリアン・カラーの?ワンピースを買い、
娘達にヨーロッパ・ブランドのアクセサリーを選んで、一先ずお土産の心配がなくなりました。



1時間半ほど街を散策してホテルへ戻ると、ロビーの奥に変わった衣装を着た子供達の姿が見え、
近付いてみると、小学校の卒業セレモニーのようなことが行われていて、
一人一人が父兄の前で、緊張の面持ちで挨拶をしていました。
夕食の時にガイドのビストラさんにカメラ・モニターで写真を見せると、
「Nice picture!」と言って、ブルガリアの小学校は4年生までで5月に修了すると教えて下さいました。
因みに中・高校とも4年制で、学期が終わるのは6月だそうです。


  
野菜サラダ、ビーフ、けしの実入りケーキのホテル・レストランでの夕食


ティー・バックながら、ちょっとおしゃれなブラック・ティー

9時に部屋へ戻った後、翌朝の少し早いバゲッジ・アウト、出発に備え、10時前に就寝しました。
ようやく時差が解消して来て、大分まとめて眠れるようになりました。


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