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3 June 2010
Shumen〜Pliska〜Madara〜Sveshtari〜Ruse


7時過ぎにスーツケースを部屋の外に出して、朝食に行くと、
「菅さんがTVにちらっと映っていたから首相になったのでは?」というニュースが入った朝でした。

8時半にホテルを出発し、ショーメンから北東へ25kmに位置する第一ブルガリア帝国の最初の都、
プリスカへ向いました。
ドナウ河の南に広がるドナウ平原もまたトラキア平原を凌ぐような花畑(雑草畑・・・)が続いていて、
「ヒナゲシ丘」で写真タイムが取られましたが、圧倒的なボリュームをどうやって写せばよいか分らず、
路肩の小さな花の収集に力を入れてしまいました。



シラタマソウ               ウスベニアオイ               タンポポsp

シラタマソウやウスベニアオイは鑑賞用として日本に持ち込まれ、帰化種となっているのを見かけますが、
タンポポそっくりの綿毛を作っていたキク科植物は初見でした。



7C初めに黒海の北に大ブルガリアを建国し、ブルガール人と呼ばれた西アジアのチュルク系民族が、
ドナウ河河口に住んでいたスラブ人と混じり合い、ビザンチンとの戦いに勝って681年に建国したのが
第一ブルガリア帝国で、893年にプレスラフに遷都されるまでプリスカは200年余り首都であった所です。

全長20kmの堀で囲まれた23kuの町の中央部に7〜800m四方の壁で守られた城塞があり、
修復された東門から内部に入ると、広い草原の中に都市遺跡の基部が点在していました。



街の中央部の宮殿を取り囲んで、貴族の館、商人の家、交易所、ローマ時代の浴槽を利用した貯水池、
キリスト教化された後にはバシリカ教会になったパガン神の神殿などがあったそうです。


全貌が明らかになるには時間がかかりそうな発掘調査の現場



小鳥のさえずりを聞きながら、ヒナゲシ(この程度の密度ならかわいいです!)、ニゲラ、セイヨウノコギリソウ、
キンポウゲなどが咲く草原を歩いていると、本当に長閑で、栄華の時代が遠いことが実感されました。
サクランボ(白い実もありました)やラズベリー、イチジクなど食べ頃の実を試食?しながら、
30分ほど遺跡散策をした後、博物館に入りました。



ブルガリアをキリスト教化したボリス1世にまつわる展示物


10−11Cの陶器など

遺跡出土品や模型などを展示した小さな博物館の写真撮影代は1レヴァで、
読めないキリル文字をパスすると、15分ほどで見て回れる規模でした。



宮殿遺跡から北へ1kmほどの所にゴリャマ(大)・バシリカ教会跡があり、
修道院や主教館などが併設された縦99m、横30mの宗教施設が部分的に修復された姿を見せていました。
これはローマ時代のバシリカをボリス 1世が875年頃に教会として整備したものだと言われています。



整備された階段
博物館

10時半にプリスカを出発して、20分程でマダラに到着しました。
トラキア人の聖地とされたマダラに残る奉納盤や容器、ローマ時代の石碑などを博物館で見学した後、
210段の階段を上って、「マダラの騎士」像を見に行きました。



階段を上り切ると、目の前に現れた大きな岩場の前に組まれた足場の上に辛うじて、
騎士像を確認することが出来ました。
犬を従えた馬上の騎士が足元に横たわるライオンを槍で突き刺している2.6m×3.1mの彫像には、
時代が異なるギリシア語の碑文が3つ刻まれ、第一ブルガリア帝国(681-1018年)の歴史を知る
貴重な史料として、1979年に世界遺産に選定されています。

遠来の観光客にとっては気抜けが否めない世界遺産ですが、地上23mの自然の断崖に彫った手法、
碑文の内容ともにまだまだ解明されていないことが多い謎を秘めた「マダラの騎士」像は、
ブルガリアでは栄光のシンボルとして通貨コインや功労者に与えるメダルなどに刻まれているそうです。



この日のランチはマダラ村の民家でいただきました。
近くにもう一台観光バスが止まっていましたので、観光用レストランを副業としている農家が
増えているのかもしれません。


 
 バニツァ、フウロソウ(チシマフウロの近縁種?)の葉とアコーデオン演奏でお出迎え

  

ショプスカ・サラダ(白チーズ入りサラダ)、カヴァルマ(肉と野菜のキャセロール焼き)、パイは
とても丁寧に作られた家庭料理で、今回の旅で最も美味しく、印象に残る食事のひとつになりました。



食前酒ラキヤとハウス・ワインもたっぷり振る舞われ、美声のお父さんの少し哀愁を秘めた民謡も
郷土料理に味を添えるものでした。
隣席に座っていたN添乗員さんの飲みっぷりを見て、飲酒についての会社規約を尋ねると、
「必要以上に飲まない」というお約束だけで?「出されたものを残したら失礼ですから。」と
ご自身の結婚式の時、1升杯を一気飲みしたというN添乗員さんは「必要」な量を超えることなく、
お酒に至るまで誠実に!?仕事をこなしていらっしゃいました。



アコーデオンのお父さんに負けず?お母さんもデザートのパイ作りの実演を見せて下さって、
旅なかまの一人も生地伸ばしを体験されました。



トウモロコシやジャガイモ畑の一角にあるイチゴ畑で、自由なイチゴ狩り・タイムもあり、
驚くほど心のこもったおもてなしを見せて下さったブルガリアン・ファミリーでした。


マダラ村 スヴェシュタリ村

1時にマダラを後にして、次の目的地ブルガリア北東部のスヴェシュタリに2時半過ぎに到着しました。
スヴェシュタリ一帯には土を盛ったトラキア人の墳丘墓が103個点在し、
650haほどの地域がスボリャノヴォ考古学エリアと呼ばれているそうです。


1982年に発掘され、1985年に世界遺産に登録されたトラキア人ゲタイ族の王の墳丘墓(BC3C)

王の墳墓内部は発掘当時の温度、湿度にコントロールする最新設備が設置され、
2000年から一般公開されていますが、様々な影響に配慮して、
専従ガイドと共に2つのグループに分れて見学することになりました。

右の写真はソフィアの歴史博物館に展示されていた玄室の実物大の写真と発掘品です。
中心にキーストーンをはめ込んだローマン・アーチと呼ばれるボールト構造はトラキア人の発見といわれ、
アーチの下にまぐさ石を使っている所にアジア文化の影響が見られるそうです。



アーチの下には馬に乗った亡き王に月桂樹の冠を与えて祝福している女神が描かれ、
壁の3面をわずかに彩色が残った10体の女性像(カリアティード)が取り囲んでいました。
シダの葉のように丸まったスカートの先端は生命の継続と復活のシンボルと言われ、
35歳位の王と殉死した25歳位の王妃の石棺、埋葬品や生け贄の5頭の馬などが発見されています。
トラキアとギリシア両文化が融合し、見事な結晶となって、広過ぎない玄室の中を
不思議な魅力的ある空間にしていました。 (写真は「旅名人ブックス」より転載)

3時半にスヴェシュタリを出て、2時間ほどでこの日の宿泊地、ドナウ河沿いのルセに到着しました。


ホテル・リガの部屋からのドナウ河の眺望と室内

ホテル・リガ

対岸はルーマニアの町ジュルジュ

一休みしてから、ドナウ河畔へ散歩に出掛けました。
2006年の秋にブダペストから黒海までクルーズする予定の旅が、出発の前々日になって、
水位の低下のためパッサウまでの上り航路に変更になったいきさつもあり、
特別な感慨も加わった河景色を楽しみました。


ボート遊び?をする人やリバークルーズ船、作業船が行き交う夕刻のドナウ河


ルーマニア平原に沈む太陽

7時半からホテルの展望レストランで夕食、9時前にルーマニアの広大な平原に落ちていく夕日を
心ゆくまで味わうことが出来ました。



ルセ・ワインと共に、野菜サラダ、ドナウの魚のフライ、果物をいただきました。
この時は、たまたまN添乗員さんと3人席になりましたので、
旅前に「自信を持ってお勧めできる」と言われた今回のブルガリア旅の中でも
とりわけこだわった部分は?とお聞きすると、ヴェリコ・タルノヴォのホテルを予約することが、
第一条件だったということでした。そこを押さえてから、他の街のホテルを決め、
レストランの席にまでこだわった予約が今夕の幸運なお天気を呼んだ、ということだったのかもしれません。
旅行社や添乗員さんの普段は見えにくい仕事の一面を垣間見たひと時となりました。
この時、近くの席にいたドライバーのズラティンさんが大のワサビ・ファンだということも分りました。


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