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4 June 2010
Ruse〜Ivanovo〜Veliko Tarnovo

パンテオン アパート群

朝9時にホテルを出発して、ルセの街の観光に向いました。
ルセはソフィア、プロブディフ、ヴァルナ、ブルガスに次ぐ人口16万人のブルガリア第5の都市で、
紀元前からトラキア人が住み、「60隻の船の町」(Sexaginta Prista)と呼ぶ
ローマ皇帝ヴェスパシアヌス帝(在位:AD69〜79)の要塞も残り、
古くから支配の拠点とされた町のひとつであったことが分ります。
1866年にヴァルナとの間に鉄道が敷かれ、経済、文化の中心地として発展しています。

1870年代にブルガリア各地で起きたオスマン・トルコへの蜂起の時にルセのリーダーであった
ステファン・カラジャ(1840−68年)を始めとする革命家、文化啓蒙活動家、戦死者を祀っているのが
黄金のドームを載せたパンテオン(=神々のいる場所)です。



ブルガリアでよく目に付いた落書きが、どうやって?と思うようなパンテオンの上部にもありました。
文字が読めないことはストレスが少なくてすむということは分りましたけれど・・・。
広場の周りには現代的なアパートが建ち、パンテオンとのコンビネーションが不思議な一画でした。


ミニ・クルーズ船 ホテル・リガを遠望

この後、ツアー・パンフレットに記載されていなかったサプライズ・メニューがあり、
ドナウ・クルーズが出来ることになりました。

全長2860kmのドナウ河の河口から500kmほどに位置する下流域のルセですが、
想像していたよりはるかにルーマニアが近く見える国境の河をルセ・ジュルジュ友好記念橋まで、
1時間余りのんびりとクルーズしました。


ジュルジュの船着き場 ルセの火力発電所

ルーマニアは1970〜80年代のチャウシェスク大統領の時代にドナウ沿岸の工業化が急速に進み、
ジュルジュ一帯にも化学コンビナートが建設され、排出される塩素ガスによる大気汚染によって
ルセの町では樹木が枯れ、肺癌患者が急増し、
1990年にガスマスクをつけた市民による大規模なデモが行われたそうです。
1990年代の共産主義体制崩壊後の深刻な経済危機を脱した現在は、経済は復興に向かい、
ルーマニアとブルガリア両国間の緊張もとけている様子です。
ルセの火力発電所も冷却煙突から出ているのは、煙ではなく、水蒸気とのことでした。


←ルーマニア ブルガリア→

上が歩行者と車、下が鉄道用の2層となった「友好記念」鉄橋は1954年に建設されたもので、
ドナウで最も長い全長2200mのこの橋によってソフィアとモスクワ間が鉄道でつなげられています。



国境を示す橋の中央の「RUMANIA」の文字成


川風に吹かれながら、ブダペストからドナウ河を下る予定が下流域の渇水のため、
上り航路に変更になった2006年秋の無念を少しばかり解消したミニ・クルーズとなりました。
因みに昭和30年代に(多分・・・)流行った「ここは遠きブルガリア ドナウのかなた」という歌は
第2次世界大戦の時のもので、ロシアに古くから伝わる民謡ではないようです。


アレクサンドロフスカ通り
自由記念碑

再び街の中心へ戻り、メインストリートのアレクサンドロフスカ通りを自由(スヴォボダ)広場まで歩きました。
広場の真中に立つ1901年建造の自由記念碑は「自由は北から」もたらされたと、
トルコから解放してくれたロシアを向いているそうです。
数少ない親ソの国のひとつであったブルガリアはEUに加盟し、新しい風が吹いているようですが、
広場周辺にはロシア観光客の一団が見受けられました。


自由広場 オペラハウス

ランチまでのフリータイムは裁判所やオペラハウスが並ぶ西欧的な景観を見ながら散策したり、
両替をしたり(国内どこでも1ユーロ=1.955レヴァに固定。両替商では手数料が加算されます。)
ウインドーショッピングをしながら過ごしました。



レストラン「Chiflika」は内装も民族衣装のサービスも趣きがありましたが、
今回の旅で唯一トイレがトルコ式だった所です。


  

トルコやギリシアとよく似たブルガリア料理ですが、この日の挽肉詰めピーマンやライス・プディングは
とりわけトルコ料理に近いものでした。



1時過ぎにルセを出発して、南へ20kmのイヴァノヴォへ向いました。

ブルガリアに10箇所ある自然環境保全区域のひとつがドナウ河の支流ルセンスキ・ロム川の峡谷沿いの
ルセンスキ・ロム自然環境保全区域公園で、豊かな自然を擁した3408haの広さの保全区域の周りに
6つの村があり、多くの歴史的建造物や遺跡が残されています。

保全区域の北端に位置するイヴァノヴォには、
13C初めにヨアキム修道士が岩窟教会を建立した後、王や貴族達がこぞって教会群を寄進、
オスマン・トルコ支配時代に衰退し、忘れ去られていたものの、
地元の人しか知らなかった保存状態の良い壁画が再び脚光を浴びて、
1979年に世界遺産に登録された岩窟教会群があります。

一つの穴で一人ずつ無言で修行をしたという洞穴を見ながら、
ルセンスキ・ロム川が造り出した段丘や断崖を望む山道を上って行くと聖母教会がありました。



すれ違うのも困難な狭い入口から内部へ入ると、突然のように教会が現れ、
剥落はあっても、創建当時を充分に彷彿させる壁画の数々に目を奪われました。




このようなローカルな場所で思いがけず見つけた日本語のガイドブックには、
「14世紀中旬の作品であり、その時代バルカン芸術で盛んに適用されていたいわゆる『パレオローグ』様式の
代表的な例です。修道士が受け入れていたヘシュカスタイの影響を表わしています。」と
ブルガリア人が訳した難解な解説がついていましたが、色彩が美しい写実性の高い壁画の数々でした。
ハナズオウはユダが首をつった後、白い花が紅色に変わったと言い伝えられています。


ヴェリコ・タルノヴォ美術館とアセン王記念碑 ヴェリコ・タルノヴォの新・旧市街

イヴァノヴォ見学を2時半に終え、バスで丘陵を抜け、4時過ぎにヴェリコ・タルノヴォに到着しました。
到着したホテル・ボリアルスキのレセプション階のバルコニーに出ると、
眼下にヴェリコ・タルノヴォの見事なパノラマが広がっていて、
これこそN添乗員さんがこだわった景観だと思われたのですが、
残念ながら全員がリバーサイド・ビューの部屋という訳にはいかなかったため、
くじ引きによって部屋が決められました。



中頃の順番に真中あたりに置かれたくじを選び、6階と思われた私達の部屋は、
エレベーターに乗ると、−4階となっていて迷路のようでしたが、
部屋の窓からは蛇行するヤントラ川の景観を見ることが出来ました。



5時半にロビーに集合して、下に見えたアセン王記念碑近くの橋までN添乗員さんと散歩に出掛け、
橋の上から、私達のホテルのある旧市街の美しいパノラマを見たり、
翌日の一日滞在に期待をふくらませたひと時でした。


7時半からの夕食はホテル上階のオープン・レストランで美味しそうなにおいと共に、
バーベキューをいただきました。




フルーツまで串刺しにして、ヴェリコ・タルノヴォの夜が楽しく演出されていました。

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