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5 June 2010 |
Veliko Tarnovo〜Arbanasi〜Veliko Tarnovo
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朝食後、ホテル周辺を散歩すると、川の上の切り立った崖斜面にぎっしりと建てられた家々の間を
狭い石畳の坂道や階段が縫うように続いていました。
火事で燃えた黒こげの姿をそのままさらしている家が数軒ありましたが、
石造りで延焼は免れても、消火作業はさぞかし難しいだろうと思われました。
放し飼いの犬に吠えられたりしながら歩いた小路に日本では夏の終りに咲くセンニンソウの花を見つけました。
ヴェリコ・タルノヴォ旧市街地図(オレンジ矢印がホテルの位置)
前3千年紀以来の歴史を持つヴェリコ・タルノヴォは、第2ブルガリア帝国の首都となった
1187年から1393年までの約200年間、ブルガリアの政治、経済、文化、宗教の中心として繁栄した古都です。
バルカン山脈を水源とするヤントラ川が蛇行して造り出した3つの丘の中、
天然の要害であるツァレヴェツの丘にビザンチンを破ったブルガリア帝国の王宮が築かれて、
ツァレフグラド・タルノフ(国王の町 タルノフ)と呼ばれ、
長いオスマン・トルコの支配を脱してブルガリア公国になった1878年には首都となり(翌年ソフィアへ移転)、
初の国会を召集して、タルノヴォ憲法が発令されています。
タルノヴォと呼ばれていた街は1965年以来、ヴェリコ(大きい)タルノヴォと改められたそうです。
現在は人口72000人の街で、旧市街の美しい景観や史跡が国内外からの観光客を集め、
地図の左側、西の方へ向けて市街地を広げています。
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9時にバスに乗ってツァール・アセン広場まで行き、徒歩でツァレヴェツの丘のゆるやかな坂を上って、
古代ブルガリア国章のライオン像が守る城塞の中を見学しました。
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最初の門の上には熱いお湯や油、石を落とす穴がありましたが、煮えた豆が身体にくっつくよう野菜スープも
流し込まれたという初めて聞く兵器?の話もありました。
そこを抜けると跳ね橋がかけられた断崖になっていて、何重もの防衛がなされていたことが分ります。
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3番目の門を抜けると、厚さ3m、高さ10m、全長1.1kmの城壁に囲まれた城塞内部に入ることが出来て、
王族、貴族の館や教会、軍人、職人の一般住居など様々な建物の基部が点在するのが見えました。
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かっての処刑台「世捨て岩」の上で写真を撮っている人の下には吸い込まれそうな断崖がのぞいていました。
壁に横倒しにはめ込まれている石材は第1帝国の首都プリスカから運んで来たリサイクル品で、
先祖の石を入れることによって国が守られると考えられていたようです。
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タイルの床が一部分残る教会や修復された王宮の外観を見て歩きながら、
古えの繁栄の時代に思いを馳せました。
王宮の玉座の間から出て来た100kgの金製品はオスマン・トルコに持ち去られてしまったそうです。
4代目王イヴァン・アセン2世(在位:1218−1241)一家の絵がホテルのロビーを飾っていましたが、
ハンガリー王室から王妃アンナ・マリーアを娶り、娘達をテサロニキ、セルビア、ニカイアの王室に嫁がせ、
周辺諸国との関係を安定させたアセン2世の時代に帝国は黄金時代を迎え、
アドリア海、エーゲ海、黒海、ドナウまで支配する大国だったと言われています。
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キリスト昇天教会 |
監視塔 |
丘の頂上に建つキリスト昇天教会は第2帝国時代にブルガリアの総主教座が置かれていた教会で、
現在の建物は大英博物館にある絵を元にして、20Cに入って復元されたものだそうです。
ブルガリアのキリスト教史をテーマにした内部の壁画は(写真は絵葉書より転載)現代的過ぎて、
タルノヴォ派と呼ばれたボヤナ教会やイヴァノヴォの岩窟教会の壁画の伝統が見られず、
装飾され過ぎた内部は少し違和感を感じるものでした。
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イコンや風景スケッチを売る露店 |
課外学習の生徒達 |
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アセン地区方面 |
村中の人へ緊急の合図を送った鐘の一部はオリジナルで、
逃げ込んだ村人と共にツァレヴェツの城塞はトルコ軍の包囲を3か月間持ちこたえたそうです。
高台からはヴェリコ・タルノヴォの景観を堪能することができました。
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10時半にバスで1度ホテルに戻った後、サモヴォドスカ・チャルシャ(職人街)の散策に出掛けました。
職人通りとよばれる通りには様々な手工芸品を作る工房兼店舗が軒を連ねています。
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金銀細工 |
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イコン作り |
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NHKの街歩きの番組にも登場した職人歴50数年という銅細工のおじさんの工房でマグカップ、
陶器工房で小さなお皿を旅の記念に買って帰りました。
マグカップは落ち着いた渋い色になったら観葉植物の鉢カバーとして使う予定です。
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12時にバスに乗って、ヴェリコ・タルノヴォから北へ4kmのアルバナシ村へ行きました。
オスマン・トルコに国を占領されたアルバニアのキリスト教徒達が、
第2ブルガリア帝国時代に領主の別荘地であったこの村へ移住、村名はアルバニアに由来するそうです。
1538年にオスマン・トルコのスレイマン1世からこの地を贈られた義理の息子ルステム・パシャが、
近隣の峠を守る条件で村民の税を優遇したことによって、交易によって財を成す商人が増え、
彼らが建てた17〜19Cの伝統的な民家が国の文化財に指定され、保存されています。
伝統的なアルメニア家屋を利用した広い庭を持つレストラン「Lyulaka」でのランチは、
野菜スープ、ビーフ・シチュー、トルコ菓子「バクラバ」でした。
食後の集合時間まで近辺を散策していると、中央広場に次々と日本人ツアーのバスが到着し、
通りかかった下駄掃きの男性から「どこのツアー?」と質問をされました。
日本人ツアーとすれ違うとお互いにさりげなく?チェックが入ってしまうようです。
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午後最初の見学はキリスト生誕教会で、トルコ支配時代に建てられたため外観は質素ですが、
内部の有名な16〜17Cのフレスコ画を観るために多くの観光客が訪れ、
この日の午後だけで、31グループもの予約が入っていたそうです。
教会建物前に墓地がありましたが、「死しても人の足元に」と人に踏まれることによって罪が清算されるため、
墓石の上に乗ることは不謹慎とはされないようです。
−絵葉書より転載−
最も珍しいのが「人生の車輪」と呼ばれる壁画で、人の誕生から死までを四季や方角、4大元素に重ねて表わし、
占星術が盛んであった地域の伝統宗教の名残りがあるのではないかと考えられています。
その他、イコノスタシスにはアダムとイブ、エッサイの樹の根元にはユダヤの族長や12使徒ではなく、
12人のギリシア哲学者が描かれている所が他の教会には見られない特色だそうです。
男女別の礼拝室には男性用にはキリスト、女性用にはマリアの生涯が描かれていて、
入口近くには貧しい人達用の部屋もありました。
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観光名所には観光客相手の刺繍製品やイコンなどのお店が並んでいましたが、自国だけでなくソ連、ドイツの
古い軍隊グッズを売るお店も時々見られて、ブルガリアの歴史を教えてくれるようでした。
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コンスタンツァリエフ・ハウス
現地で購入した地図表紙と同じアングルの建物写真と庭で刺繍をする女性とのツーショット写真
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ヴェリコ・タルノヴォのオスマン総督の妻の実家であったといわれる豪商コンスタンツァリエフ・ハウスの
トルコ様式で整えられた客間、居間、寝室、台所などを見学しましたが、
写真代5レヴァは「こっそり撮ってくださいね。」と免除されるゆるやかさでした。
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左の写真は何だかお分かりでしょうか。この穴のある部屋を外から見たのが右の写真です。
実はこれはトイレで、2階のトイレの下は動物小屋になっていて、豚や山羊が飼われていたそうです。
ちょっとしたカルチャーショックを受けた建造物でした。
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コンスタンツァリエフ・ハウスの一階のショップを覗いたりした後、3時半にアルバナシ村を出て、
ヴェリコ・タルノヴォの街を見渡せるビュー・ポイントで写真タイムを取ったりしながら、
4時過ぎにホテルへ戻りました。
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ミトロポルスカ通りからツァレヴェツの丘を遠望 |
聖40人の殉教者教会 |
7時半からの夕食まで時間がありましたので、トラペジッツァの丘とツァレヴェツの丘にはさまれた
ヤントラ川沿いのアセン地区まで散歩に行きました。
城塞の真下にある聖40人の殉教者教会はイヴァン・アセン2世がテサロニキでの戦闘の勝利を記念して、
ビザンチン時代からの教会を建て直して1230年に建造したもので、
教会の名前は戦闘の日が40人の殉教者の受難日と同じであったことに因んでいます。
フェルディナンド1世は1908年のブルガリア独立宣言の場としてこの教会を選んだそうです。
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聖母マリア被昇天教会 |
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聖ゲオルギオス教会 |
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教会が点在するアセン地区は両岸が美しい木の橋で結ばれ、落ち着いた市民生活も垣間見られました。
老若混じった男の人達が囲んでいるのはチェス盤です。
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聖ディミタル教会 |
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聖ペテロ・パウロ教会 |
聖ディミタル教会はアセンとペタル兄弟が1185年にビザンチンへの宣戦布告をし、
早々と独立を宣言した歴史的な場所だと言われています。
聖ペテロ・パウロ教会はカロヤン皇帝の命によって13Cに建てられた教会を始まりとしているそうです。
オスマン・トルコが破壊した中世の教会群の修復された外見を追いかけただけのひと時でしたが、
観光客の姿が少ない地区の散策は心に残るものがありました。
内部に古い壁画などを残す教会もあるようですが、入場料6レヴァ×2という現地通貨の手持ちが不如意で、
時間も足りませんでしたので、内部見学は割愛せざるを得ませんでした。
2時間ほど散策をして、バラ石鹸やペンダント・トップのお土産を買い足ししてホテルへ戻る途中、
日本文化センタ‘ー’の看板を見つけましたが、中を覗くことは出来ませんでした。
ヴェリコ・タルノヴォと日本はこの街の出身の琴欧洲だけでなく、文化的なつながりもあるようでした。
ホテル内のレストランの夕食はサラダ、白豆とゴマのキョフテ(挽き肉団子)、ポークルール、フルーツケーキの
ちょっと豪華な週末メニュー?でした。
隣室では結婚披露パーティたけなわで、帰りにちょっと紛れ込んで、ブルガリアン披露宴の様子を
写真に撮らせていただき、お祝いのお相伴に預かったのですが、
この後、部屋に戻ってからも12時までダンス音楽、1時頃まで後片付けなどの音にお付き合いをするとは
想定外のアクシデントとでも呼べるものでした。
酔っぱらってすぐに高いびきという幸せな人もいたようですが、寝不足の人も続出のようでした。
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