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教会が集まる地区を北へ抜けた所に警備ポリスがいるゲートがあり、その先にモスクが見えてきました。
この辺りが王国末期からビザンチン時代にかけて繁栄したバビロン地区と
イスラム時代が始まるフスタート地区の境界だったようです。
アラブ・イスラム軍のアムル・ブン・アルアース将軍(590頃〜664年)がエジプト征服の折に、
ここに野営したことからフスタート(テント)と名付けられた一帯が写真の右、東側に広がっているようですが、
現在は文化財としての廃墟として保護されていて、軍営基地から商業都市に変わり、繁栄した時代を伝える
シルクロード由来の中国の陶磁器の破片なども出土、日本隊の発掘調査も行われているそうです。
勝手に歩き回るのは危険とガイドブックに書いてありましたので、廃墟見学は割愛しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 追記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三鷹市中近東文化センターにフスタート遺跡出土・陶磁器片が展示されていました。
(’09.4.30)
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641年にバビロン砦を陥落させた後、撤収しようとした野営地に鷹が舞い降りたことから、
アフリカ大陸に初めて建てられたというモスクが将軍名に由来するアムル・モスクです。
創建当時は日干し煉瓦の壁にヤシの葉を葺いただけだったという質素なモスクは、
拡張、再建を重ねて120m×110mという広さを持ち、林立する細めの柱が森のような雰囲気を湛えていました。
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入口で靴を預け、かぶるように言われたスカーフを巻いて中に入り、
人がいないことも手伝って、広さが余計に際立つ端正なイスラム建築を見学して回りました。
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ミフラーブ(メッカを示す壁がん)とミンバル(説教壇) |
コーラン置き |
モスクを出る時、5ポンドを払って靴を受け取りましたが、これはモスクへの寄付と納得出来ました。
モスクを出て、さらに北へ向い、シタデルまでナイル河の水を運んだローマ時代の橋利用の14Cの水道橋を見て、
9Cのイブン・トゥールーン・モスクへ行くことにしました。
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観光客など歩いていなくて、道路も舗装していない下町を10分余り歩きましたが、
そろそろ見えそうだと思われる水道橋がなく、ちょうど生徒を見送りに来たらしい先生らしき男性に尋ねると、
向こうのポリスに聞いたら?ということで、交通整理中のポリスに聞くと、
あっちのお店の親父さんに聞いてと、タライ回しされてしまいました。
そのお店の親父さんに「歩き?タクシー?」と聞かれたので、
少し疲れて来たのでタクシーでトゥールーン・モスクへ直行しようと話をまとめたら、
すぐ手を上げてタクシーを止め、行き先を伝え、「15ポンド」と値段交渉までしてくれました。
チップとして親父さんに1ポンド手渡して、タクシーに乗ると、
アラビア語しか話せないドライバーで、郊外へ向かっている様子に、話が通じたのか不安でしたが、
まもなくシタデルが見えて来て、ほっとしながら「シタデル!」と言うと、
「ムハンマド・アリ」と初めて言葉を発し、「ハサン・モスク」と言うと、「そうそう」というようにうなずき、
少しコミュニケーションが取れて、まもなく目的のトゥールーン・モスクへ到着しました。
お金を払って降りようとすると、思ったより多かったのか、「ちょっと待て」というように制止して、
ゲート前の警備ポリスに何か言った後、強引に?ゲートを突破、数十メートル坂を上がって、
モスク門前に車を横づけしてくれました。
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イブン・トゥールーン・モスク入口 |
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手前がモスクの外壁でその奥に見えるのが回廊の一部ですが、回廊入口に座る人影のサイズで
トゥールーン・モスクの大きさがお分りいただけそうですね。
回廊入口では靴カバーをはかせて、紐を結んでくれる人がいて、
ガイドブックには「バクシーシは50ピアストル(2分の1ポンド)で充分」と書いてありましたが、
夫が2ポンド払った上、「マダムも」と私も1ポンド払わされて、ここではカモになってしまったようです。
脱ぐときにもまた夫は1ポンド払ったようですが、私は「ノー」と言うと「OK」と脱がせてくれました。
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レンガ作りの回廊が中庭の4辺を取り囲むシンプルな作りのモスクでしたが、
角柱の4隅に円柱をはめ込でいたり、アーチ部分に繊細な彫刻を施していたり、細かい細工も見られました。
ここで又、ミフラーブやミンバルを見るようにと観光ポリスが近付いて来ましたが、
「サンキュー」とだけ言って、素知らぬ振りをしていると、あっさりと離れて行きました、が・・・。
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バグダッドのアッバース朝のカリフから独立してエジプトにトゥールーン朝を開いたイブン・トゥールーンが
879年に造ったのがこのモスクだそうですが、ここを訪れた目的は螺旋形のミナレットを見ることでした。
初期アラブ型といわれるこの形のミナレットはイラクのサーマッラーに2本とここだけにしか残っていないそうです。
トゥールーンが青春時代を過ごしたサーマッラーを思い浮かべながら造ったというロマンを感じながら、
ミナレットへ向かっていると、案の定、さっきのポリスが後ろからついて来ました。
靴紐結びの人達の目が届かない所でと、予定の行動だったのですね・・・。
巻きようもない1本道で、仕方なく2ポンドを渡すと、不服そうでしたが、知らん振りを決め込むと帰って行きました。
もう一組いた西欧系の観光客には近づかない様子だったのが、何ともくやしい所でした。
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高さ40mのミナレットを上まで登ると、人口1800万都市、カイロの街のパノラマが広がっていました。
左写真にスルタン・ハサン・モスクの大きなミナレットやシタデルの上のムハンマド・アリ・モスクが見えています。
このナイル河東岸の旧市街を中心とした地域の7〜20世紀の600件以上の建築物が
世界文化遺産に登録されているというのですから、大した歴史都市カイロです。
水や飴で一休みした後、トゥールーン・モスクを後にして、イスラム地区へ向かいました。
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イスラム地区の街並み |
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10Cに入って、チュニジアのファーティマ朝がトゥールーン地区のさらに北に
新しい都市アル・カーヒラ(勝利の街)を造り、それが転じてカイロという地名が生まれたと言われています。
サラディンがムカッタムの丘に築いた城塞(シタデル)を中心としたカターイー地区と、
オスマン時代に西の方に拡大したアズハル地区を合わせた旧市街が現在イスラム地区と呼ばれるエリアです。
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時々目を引かれるイスラム建築を見ながら、スルタン・ハサン・モスクまで20分ほど街を歩きましたが、
いつもどこかで鳴らされている車のクラクションや排気ガス、埃っぽさ、
「ハロー!」と声を掛けてくる子供と言えど目を合わすのが憚られる雰囲気などに疲れてきましたので、
イスラム地区はツアーの最後に来る予定でもあり、もう少し見たいと思っていたモスクや門の見物を諦めて、
タクシーを拾って、第2候補としていた動物園へ向かいました。
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