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12 Jan 2009
Cairo

この日もホテルを朝6時半に出発して、アレクサンドリアへ向かうというハードな日程でしたが、
私達は4年前のツアーでアレクサンドリアに2泊しているので、今回はパスして、カイロに残ることにしました。
ツアー・メイトが出発する頃ゆっくり起きて、(それでも寝坊の私にしては早起きです!)
8時前に朝食、9時前にカイロ散策へ出掛けました。
・・・・の筈ですが、外へ出た途端、「暑くなりそうだから着替えてくる」「地図を忘れてきた」と
夫が2度も部屋へ戻ったため、ホテル出発は9時15分になってしまいました。
それでも方向感覚に自信があるという‘ナビ夫’抜きでは見知らない街歩きは出来ませんので、
嫌味を呑み込んで、じっと‘待て’をしていました。



退屈な待ち時間にホテルの前庭で見つけた珍しい花

交通量が多いのに信号がほとんどないカイロ中心部の大通りを、ガイドブックで勉強して来た通りに(!)
地元の人の後ろにぴったりくっついて横断しながら、無事、地下鉄サーダート駅に到着しました。
均一1ポンドという安いチケットを窓口で購入し、路線を間違えることもなく、
マル・ギルギス駅に(中心部を抜けると地上線になります。)9時50分に降り立つことが出来ました。
こんな当たり前のことがアラビア語の中に英語が少し混じるだけの街で出来ただけでテンションが上がります。



エル・ムアッラカ教会

駅のすぐ前にあるのが聖母マリアに捧げるために3〜4C始め頃に建立されたコプトのキリスト教会、
エル・ムアッラカ教会です。
門をくぐると、両側の壁に聖母マリアをモティーフとしたモザイク画がはめ込まれ、
鮮やかな色彩と素朴な表現で親しみを誘っているようでした。



バビロン城塞の一部を床にしたことから、ムアッラカ(アラビア語で吊るされたの意)と名付けられた教会は、
破壊と再建が繰り返され、創建時の姿はごく一部残るだけのようですが、
礼拝堂まで階段で上ることから中世には「階段聖堂」と呼ばれ、
内部には見応えのある木製の船底型天井や繊細な彫刻と14本の大理石円柱を持つ説教壇などがあり、
16Cまではコプト教会の司教座が置かれた由緒ある教会であることが分かりました。
説教壇の間に見えるのは日本人ツアー団体で、旅行社によって案内場所が違う点が面白く感じられました。


聖ジョージ教会 掘割

エル・ムアッラカ教会の北隣が昨日立ち寄ったコプト博物館、その隣が聖ジョージ教会で、
マル・ギルギス駅はオールド・カイロ地区への最寄駅という訳でした。
これらの前を通って、北へ20メートル程進むと、掘割へと降りる階段があり、下りた先に土産物店が続いた後、
昨日見学した聖セルジウス教会やシナゴーグがあるオールド・カイロらしい区域へ出て、
車も通らず、カイロ名物の?喧噪もない旧市街らしい街並みが見られます。


左の建物が聖バルバラ教会

観光客の姿がほとんど見られない朝10時頃の街中を歩いていると、
暇そうな店番や辻々の椅子に座っている手持無沙汰な観光ポリスが
「日本人?」「お早うございます」「山本山」(意味不明)などと声をかけてきました。
ポリスがジェスチャーで入るよう促してくれた聖バルバラ教会は外見は教会とは思えませんでしたが、
祭壇の上のイコンが東方の教会であることを感じさせ、木を多用した堂内が落ち着きを見せる
殉教者バルバラの遺骨を納めた教会でした。
エジプトでは最大規模の教会で、古い象嵌細工の扉などはコプト博物館に収蔵されているそうです。

左側写真の中央奥、行き止まりがシナゴーグで、狭い地域にキリスト教各宗派、ユダヤ教などの教会が点在し、
古いカイロの雰囲気をゆっくり肌で感じられる一郭でした。



もと来た道を戻ろうとしたら、先ほどのポリスが「奥にあるローマン・ウォールを見に行け」としきりに勧め、
案内をするという様子でついて来ました。
民家に連なる塀を抜けると廃墟とお墓が混在しているような場所に出て、
写真に撮るようにと示されたのが右の土壁構造物です。
左の写真に聖ジョージ教会が写っている所を見ると、観光地的にオールド・カイロと呼ばれる地域は
表側の修復したごく一部分なのだろうと思われました。
ここでポリスが腰の脇で指を動かして、予想通りバクシーシを要求しましたので、
1ドルを渡して、お引き取り願いました。
持つ者が持たない者に施すというイスラムの教え‘喜捨’を拡大解釈?したようなバクシーシは、
馴染めなくても従う他ないのですが、相手を馬鹿にせず、自身もカモにされたと思わなくても済む額が分らず、
日本円にすれば僅かな金額ながら、今回の旅で悩まされた最大の問題でした。



左は廃墟&墓所でポリスを巻いた?後に見つけた礼拝堂(もしかしたらお金持ちの霊廟?)で、
右は街中に戻り、表の道を戻る途中にあった聖ジョージ女子修道院です。
マシュラビーヤと呼ばれる木製の格子細工の窓、コプト十字の扉が特徴的でした。
掘割の地形利用か、時代を経て土地レベルが変わったのか、はたまた迫害時代の名残か、
この一画ではどこの教会も入口が半地下にありました。



 

教会が集まる地区を北へ抜けた所に警備ポリスがいるゲートがあり、その先にモスクが見えてきました。
この辺りが王国末期からビザンチン時代にかけて繁栄したバビロン地区と
イスラム時代が始まるフスタート地区の境界だったようです。
アラブ・イスラム軍のアムル・ブン・アルアース将軍(590頃〜664年)がエジプト征服の折に、
ここに野営したことからフスタート(テント)と名付けられた一帯が写真の右、東側に広がっているようですが、
現在は文化財としての廃墟として保護されていて、軍営基地から商業都市に変わり、繁栄した時代を伝える
シルクロード由来の中国の陶磁器の破片なども出土、日本隊の発掘調査も行われているそうです。
勝手に歩き回るのは危険とガイドブックに書いてありましたので、廃墟見学は割愛しました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 追記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



三鷹市中近東文化センターにフスタート遺跡出土・陶磁器片が展示されていました。 
                          (’09.4.30)

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641年にバビロン砦を陥落させた後、撤収しようとした野営地に鷹が舞い降りたことから、
アフリカ大陸に初めて建てられたというモスクが将軍名に由来するアムル・モスクです。
創建当時は日干し煉瓦の壁にヤシの葉を葺いただけだったという質素なモスクは、
拡張、再建を重ねて120m×110mという広さを持ち、林立する細めの柱が森のような雰囲気を湛えていました。



入口で靴を預け、かぶるように言われたスカーフを巻いて中に入り、
人がいないことも手伝って、広さが余計に際立つ端正なイスラム建築を見学して回りました。


ミフラーブ(メッカを示す壁がん)とミンバル(説教壇) コーラン置き

モスクを出る時、5ポンドを払って靴を受け取りましたが、これはモスクへの寄付と納得出来ました。

モスクを出て、さらに北へ向い、シタデルまでナイル河の水を運んだローマ時代の橋利用の14Cの水道橋を見て、
9Cのイブン・トゥールーン・モスクへ行くことにしました。



観光客など歩いていなくて、道路も舗装していない下町を10分余り歩きましたが、
そろそろ見えそうだと思われる水道橋がなく、ちょうど生徒を見送りに来たらしい先生らしき男性に尋ねると、
向こうのポリスに聞いたら?ということで、交通整理中のポリスに聞くと、
あっちのお店の親父さんに聞いてと、タライ回しされてしまいました。
そのお店の親父さんに「歩き?タクシー?」と聞かれたので、
少し疲れて来たのでタクシーでトゥールーン・モスクへ直行しようと話をまとめたら、
すぐ手を上げてタクシーを止め、行き先を伝え、「15ポンド」と値段交渉までしてくれました。
チップとして親父さんに1ポンド手渡して、タクシーに乗ると、
アラビア語しか話せないドライバーで、郊外へ向かっている様子に、話が通じたのか不安でしたが、
まもなくシタデルが見えて来て、ほっとしながら「シタデル!」と言うと、
「ムハンマド・アリ」と初めて言葉を発し、「ハサン・モスク」と言うと、「そうそう」というようにうなずき、
少しコミュニケーションが取れて、まもなく目的のトゥールーン・モスクへ到着しました。
お金を払って降りようとすると、思ったより多かったのか、「ちょっと待て」というように制止して、
ゲート前の警備ポリスに何か言った後、強引に?ゲートを突破、数十メートル坂を上がって、
モスク門前に車を横づけしてくれました。



イブン・トゥールーン・モスク入口

手前がモスクの外壁でその奥に見えるのが回廊の一部ですが、回廊入口に座る人影のサイズで
トゥールーン・モスクの大きさがお分りいただけそうですね。
回廊入口では靴カバーをはかせて、紐を結んでくれる人がいて、
ガイドブックには「バクシーシは50ピアストル(2分の1ポンド)で充分」と書いてありましたが、
夫が2ポンド払った上、「マダムも」と私も1ポンド払わされて、ここではカモになってしまったようです。
脱ぐときにもまた夫は1ポンド払ったようですが、私は「ノー」と言うと「OK」と脱がせてくれました。



レンガ作りの回廊が中庭の4辺を取り囲むシンプルな作りのモスクでしたが、
角柱の4隅に円柱をはめ込でいたり、アーチ部分に繊細な彫刻を施していたり、細かい細工も見られました。
ここで又、ミフラーブやミンバルを見るようにと観光ポリスが近付いて来ましたが、
「サンキュー」とだけ言って、素知らぬ振りをしていると、あっさりと離れて行きました、が・・・。



バグダッドのアッバース朝のカリフから独立してエジプトにトゥールーン朝を開いたイブン・トゥールーンが
879年に造ったのがこのモスクだそうですが、ここを訪れた目的は螺旋形のミナレットを見ることでした。
初期アラブ型といわれるこの形のミナレットはイラクのサーマッラーに2本とここだけにしか残っていないそうです。
トゥールーンが青春時代を過ごしたサーマッラーを思い浮かべながら造ったというロマンを感じながら、
ミナレットへ向かっていると、案の定、さっきのポリスが後ろからついて来ました。
靴紐結びの人達の目が届かない所でと、予定の行動だったのですね・・・。
巻きようもない1本道で、仕方なく2ポンドを渡すと、不服そうでしたが、知らん振りを決め込むと帰って行きました。
もう一組いた西欧系の観光客には近づかない様子だったのが、何ともくやしい所でした。



高さ40mのミナレットを上まで登ると、人口1800万都市、カイロの街のパノラマが広がっていました。
左写真にスルタン・ハサン・モスクの大きなミナレットやシタデルの上のムハンマド・アリ・モスクが見えています。
このナイル河東岸の旧市街を中心とした地域の7〜20世紀の600件以上の建築物が
世界文化遺産に登録されているというのですから、大した歴史都市カイロです。
水や飴で一休みした後、トゥールーン・モスクを後にして、イスラム地区へ向かいました。


イスラム地区の街並み

10Cに入って、チュニジアのファーティマ朝がトゥールーン地区のさらに北に
新しい都市アル・カーヒラ(勝利の街)を造り、それが転じてカイロという地名が生まれたと言われています。
サラディンがムカッタムの丘に築いた城塞(シタデル)を中心としたカターイー地区と、
オスマン時代に西の方に拡大したアズハル地区を合わせた旧市街が現在イスラム地区と呼ばれるエリアです。



時々目を引かれるイスラム建築を見ながら、スルタン・ハサン・モスクまで20分ほど街を歩きましたが、
いつもどこかで鳴らされている車のクラクションや排気ガス、埃っぽさ、
「ハロー!」と声を掛けてくる子供と言えど目を合わすのが憚られる雰囲気などに疲れてきましたので、
イスラム地区はツアーの最後に来る予定でもあり、もう少し見たいと思っていたモスクや門の見物を諦めて、
タクシーを拾って、第2候補としていた動物園へ向かいました。


 

「動物園まで」と言って乗り込んだタクシーでは、けげんな顔で「ピラミッドへ行くべきだ」と言われましたが、
「昨日行った」と言うと納得してくれました。
動物園までの30分足らずの間、車窓の博物館や病院などを教えてくれたドライバーは
ギザに住む小学生の女の子が2人いるコプト教徒で、
無法と見えるカイロの道路状況でも「神様が守ってくれている」から事故は起こさないそうでした。
「カイロは美しいだろ」と聞かれ、「Exciting」とイスラム地区の喧噪から離れたばかりの印象を伝えました。
動物園入口の反対車線から見事に門前に車を回してくれて、
観光客価格(チップ込み)といえども21ポンド、360円という安さでした。



入園料1ポンドという安さも手伝って、市民の憩いの場所となっているという動物園に着くと、
1時近くなっていましたので、先ずお弁当タイムとすることにしました。
実は、カイロという未知の街で1日を過ごそうと決めた時、最も懸念されたことの一つが、
お腹が空くとイライラしはじめる‘ナビ夫’のことで、おむすびを持っていればどんな状況にも対応できると考え、
ポリ容器に入ったアルファ米にドライの具材を混ぜ、お湯を(水でも可)注げばOKという「おにぎり国際便」を
今朝ホテルで作って?持って来ていたのです。
アルミに包まれた長い海苔を巻くと、充分なおむすびになりました。
それと「アレクサンドリア行きのバスで配る予定」とT添乗員さんが下さったカリカリ梅、おせんべいなどで、
‘ナビ夫’も我慢範囲のランチでした。
朝食レストランでもらって来ようと思っていたオレンジが品切れだったのは残念でしたけれど・・・。

大流行りのフェイス・ペインティング

餌をやったり、動物に触らせて、バクシーシを求める係員もいるという噂でしたが、
遠巻きに動物を見て回りましたので、真相は分りません。
ライオン舎が一番人気のようでした。
珍しい動物がいる訳ではありませんでしたが、1890年開園の歴史ある園内は広々としていて、
ヤシ、ユーカリ、ビンロウジュなど大木を中心とした緑も多く、ほっとするひと時を過ごせました。



 

2時頃、動物園を出た後、隣の植物園へ寄りたいと思ったのですが、夫は興味無さそうでしたし、
外から覗くと、冬枯れの園内のようでもありましたので、諦めて、帰途に着きました。
遠くに3泊したラムセス・ヒルトン(左写真の中央右寄りの高層ビル)を見ながらナイル河を渡り、
タクシーか地下鉄にするか迷いつつ、モスクの写真を撮ったりしながら街を歩きました。



このような道路の横断も上手になった頃、地下鉄イッサイイダ・ゼーナブ駅に着きました。
道路横断の秘訣はただ1つ、渡り始めたら、躊躇せず、恐怖感を持たず、ひたすら突き進むことだと学びました。



地下鉄の切符売場で、買うのが遅いなぁ、と夫を振り返ると、ん・・・?
何とチャイを受け取っていて、私が近付くと、彼女にも飲ませろ、とゼスチャーの駅員でした。
事の真相は、「お金をもらっていない」と何人も後回しにされ、「渡した!」としつこく言うと、
切符と一緒に「飲め」と手をやけどしそうに熱いチャイをもらったということでした。
からかわれたのか、誤魔化されそうになったのかは、不明だそうですが、
これも今となると楽しい旅の1コマです。
地下鉄の中では老人に席を譲る人、空き席に座るよう私に目顔で合図する人など
バクシーシではない、普通の良きエジプト人の姿が見られました。

3時にホテルへ戻って、ほこりと汗をシャワーで洗い流し、一休みしてから、明日に向けて荷物整理をしました。
何しろ、明日の朝はホテル3時出発というハード日程のハイライト日です・・・。

ホテルのレストランで6時から夕食の予定でしたが、隣室のツアー・メイトが帰って来た気配がないと思っていると、
5時半ごろT添乗員さんから、「道路が渋滞しているので30分遅らせて下さい」と電話が入りました。
ちょっと心配しましたが、6時半にロビーへ降りて行くと、ホテル入口の荷物チェック・ゲートを
T添乗員さんが駆け抜ける様子が見えて、ほっとしました。

この夜はビュッフェ・スタイルの夕食をとりながら、自己紹介の時間が持たれました。
今回は私達とほぼ同世代の夫婦3組、女性の友人2人組が3組、1人参加の男性、女性が1人ずつ、
それに女性添乗員Tさんの15名が今回の旅仲間となりました。
「お名前とお住まいだけでも」というスタートでしたが、参加した動機や友人2人組の関係など
いろんな話題がでて、和気あいあいとした時間を過ごしました。


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