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14 Jan 2009 |
Abu Simbel〜Aswan〜Kom Ombo〜Edfu |
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ナセル湖の夜明け |
バスの車窓から見たアブ・シンベル神殿裏側 |
この日もホテル出発が6時半ということで、4時半起床、5時半朝食と早朝から一日が始まりました。
朝食後、湖畔で朝日を待っていましたが、下の方の雲が厚く、バスに乗り込む頃にやっと陽光が出てきました。
右側写真の中央右寄りにシルエットで見えている2つの台形がアブ・シンベル神殿の裏側で、
朝日が神殿正面を照らしている様子を思い浮かべながら、バスで空港へ向いました。
昨日偶然お会いしたガイドのKさん達とは同じホテルに泊まっていて、朝食レストランで会った時に、
「では良い旅を!」と別れたのですが、何と又、アブ・シンベル空港でも一緒になってしまいました。
アブ・シンベル神殿の朝日を見に行くという彼らとは別便とばかり思っていたのですが、
少人数ならフットワークの軽さで時間に余裕があったのでしょう、私達より少し遅れて空港に到着しました。
「きれいでしたよ。」という言葉に、少し無念を感じながら、
同じ時にエジプトを旅した記念に若いカップル達ともカメラに収まりました。
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アブ・シンベルを飛び立って、少し経った頃、Kさんが灌漑用水路が下に見えると教えに来て下さいました。
どうやらこれは昨年12月23日付け朝日新聞に掲載されていたトシュカ地区の砂漠緑化事業のようです。
ナセル湖の水をくみ上げるポンプ場と総延長200km以上に及ぶ用水路の建設という97年に始まった政府事業は、
ポンプは完成、灌漑施設も8割ほど終わったものの、生産が始まった南部農場とサウジアラビア資本の農場に
1万人程度が従事するだけで、2017年までに300万人を定住させるという壮大な計画は難航しているようです。
人口が毎年100万人以上増加するというエジプトは国土の95%が砂漠地帯で、残りの5%に人口と農地が集中、
住宅難、食料不足、雇用問題をトシュカ開発で一挙に解決しようと考えたのですが、
投資や人が集まらない、夏には40℃を超える厳しい自然、社会基盤が整っておらず家族定住が難しいことなどが
誤算となり、政府は計画の見直しに着手、地価をナイル下流の25分の1程度に抑えるなどして投資を促し、
公務員住宅の建設で地域を発展させていく方針だそうです。
「水や土壌が汚染されておらず、安全な農作物を栽培できる」と専門家が太鼓判を押す事業の成功を祈る所です。
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砂漠が広がるナセル湖上空から、地形に沿って自然緑化?している湖畔の風景を面白く眺めました。
右はアスワン空港着陸の時に、砂漠に写っていた私達の搭乗機の影です。
7時40分にアブ・シンベル空港を出発、8時10分にアスワン空港に到着しました。
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フィラエ島行きボート乗り場 |
ヌビア人のボート |
アスワンを訪れた人から「ナイルの真珠」と呼ばれていた美しい島、フィラエ島はアスワン・ダムが出来ると
増水期には水に沈むようになり、ハイダムが建設されると完全に水没することになりました。
そこで近くにあったアギルギア島をフィラエ島と同じ形に整え、建造物を移築したのが現在のフィラエ島ですが、
浸水期間が長かったため、石は汚泥にまみれ、脆くなってはいたものの、
アブ・シンベル神殿の経験が生かされて、ブロックに解体、移築する工事は2年半で完了したそうです。
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イシス神殿 |
船着場 |
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トライアヌスのキオスク(あずまや) |
テラスから元・フィラエ島を遠望 |
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イシス神殿第1塔門 |
残された十字架 |
末期王朝代30王朝時代からプトレマイオス朝、ローマ時代に建造された建物のいくつかを見学しました。
古代ローマ皇帝は、時に夫人を伴って、ナイル河周航をするのが恒例行事だったそうですが、
アウグストゥス礼拝堂、トライヤヌスのキオスク、ハドリアヌスの門など
エジプトがローマ皇帝領であった豊かな時代を思い起こさせる建築物が残っていました。
人物像の部分が削られ、十字架だけがくっきりと残るレリーフが歴史の一端を物語っていましたが、
ユスティニアヌスがフィラエ島の教会堂を閉鎖したのはAD535年のことだったそうです。
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第2塔門 |
ハトホル女神の柱頭彫刻 |
イシス神に捧げ物をするプトレマイオス |
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キリスト教祭壇 |
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ホルス神に授乳するイシス女神 |
ナイルの水を持つ王 |
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ロゼッタ・ストーンのヒエログリフの解読を進めていたシャンポリオンは、フィラエ島にあったオベリスクの碑文を
最後の決め手として解読を成功させたと言われていますが、
説明を受けながらレリーフを見ていると、少しは意味が分かって来て、古代エジプトが近付いて来るようでした。
古代エジプト時代は直線的で、身体の線を出さない表現であったのに比べ、
曲線的で、裸体が見られるようになったのがグレコ・ローマン時代のレリーフの特徴だそうです。
国家最高神アメン神の神託によると、「ナイルの水が溢れ出て潤す限りの土地がすなわちエジプトであり、
エレパンティネ(エレファンティネ島)の町より下方に住みこの河の水を飲むものはすべてエジプト人」だそうで、
(ヘロドトス著「歴史」松平千秋訳)、王がナイルの水を持つことで支配を表すレリーフも多くみられました。
因みに「エジプトはナイルの賜物」という句はヘロドトスより先にヘカタイオスが「エジプト史」で使用しているそうです。
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列柱に囲まれた外庭 |
ネクタネボ1世のキオスク |
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1時間余り見学した後、10時半にボートで本土に戻り、バスでクルーズ船の乗り場へ向かいました。
帰りのボートからは14本の柱を持つ堂々としたトライヤヌス帝のキオスクの全体像を見ることが出来ました。
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