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16 Jan 2009
Luxor

朝6時半過ぎに船の屋上デッキへ出ると、西岸の山肌が朝日に輝き、気球が沢山上がっているのが見られました。
熱気球は50〜200ドル(季節価格)で、40分前後、空からの眺望を楽しむことが出来るそうです。

ナイル河が東西に分けるルクソールには太陽が昇る東岸は生者の世界として神殿群、
太陽が沈む西岸は死者の世界として墳墓や葬祭殿が数多く建設されました。
ローマの城砦「カストロ」をアラビア語でアル・コウソールと呼んだことに由来するルクソールは、
古くはテーベと呼ばれた古代都市です。

メンフィスを中心にエジプトが統一された古王国時代(BC2686〜2181)には小村にすぎなかったテーベは、
第1中間期(BC2180〜2040)には王権の弱体化に乗じたテーベ豪族が政治覇権を争うまでになり、
メンチュヘテプ2世がエジプトを再統一した中王国時代(BC2040〜1793)には、
テーベのアメン神が国家最高神として崇められたことから、
神殿や墳墓など権力を示す建造物が次々と建てられるようになったそうです。
第2中間期の第15〜16代王朝(BC1720〜1550頃)は、
兄弟から隊商に売られ、数奇な運命を辿ってエジプトの大臣になった旧約聖書創世記のヨセフに始まる
オリエント(カナン)から北エジプト、ゴシェン地方に移住したヘブライ人のヒクソス王朝と考えられています。
その後、イアフメス王がエジプトを再統一して新王国時代(BC1552〜1070)が始まり、
アメンヘテプ1世がテーベに開いた第18王朝から第20王朝にかけて最盛期を迎えますが、
王権が弱体化、神官が実権を握ると共に王国は混乱期に入り、
末期王朝時代にはリビア、アッシリア、ペルシアの支配下に入った後、アレクサンダーが征服、
プトレマイオス朝がアレクサンドリアへ遷都すると、単なる地方の1都市となってしまいました。
そしてローマやキリスト教徒による破壊、地震などが続いて衰退の一途を辿りましたが、
遺跡の発掘が盛んになった19Cから再び脚光を浴び、エジプト有数の観光地として賑わいを見せています。

この日の出発は8時でしたので、久し振りにゆっくりと朝食を取った後、
ビニールテープの代用品で捻挫した足首をテーピングしたり、のんびりと支度することが出来ました。
バスに乗って、ルクソール博物館近くのクルーズ船停泊所から13kmほど南のルクソール橋を渡り、
西岸から観光が始まりました。



【 見学コース 】
西岸:メムノンの巨像−王家の谷−ハトシェプスト葬祭殿−貴族の墓 
東岸:カルナック神殿−ルクソール神殿


広いさとうきび畑
さとうきびを運ぶトロッコ列車とトラクター

30分余りの車窓にはさとうきびを中心とした農村地帯が広がっていました。
農作業をする人、遊ぶ子供、お茶を楽しむ老人、あちこちにポリスの姿・・・と日常生活を垣間見るのも
異国を旅する楽しみのひとつです。



第18王朝アメンヘテプ3世の葬祭殿の入口を飾っていた「メムノンの巨像」で写真タイムが取られました。
葬祭殿の石材は後の王達が神殿建設などの為に持ち去り、台座2.3m像15.6mの座像だけが残っています。
BC27年の地震の後、亀裂が入った右側の像が夜明けになると発した音が、
トロイア戦争で敢闘しながらもアキレウスに倒された悲劇のエチオピア王メムノンが母の女王へ送る挨拶だと
ギリシア人旅行者が解釈したことによって観光ブームが起き、ローマ皇帝もこの地を訪れたと言われますが、
セヴェルス帝が像を修復した後は音がしなくなったそうです。
アメンヘテプ3世(在位BC1391−1353年頃)は並大抵でない建築好きだったそうで、
建築王と称されたラムセス2世はアメンヘテプ3世の事業を真似たに過ぎない、とも言われています。
珪岩製の巨像の後方では発掘調査が進められていました。


クルナ村 ハワード・カーターが逗留した建物

荒涼とした岩山の中に入って行くと、王や貴族の墓の盗掘人たちの集落であったクルナ村がありました。
その子孫である現在の村民は今では墳墓管理に関わったりしているようですが、
家屋の下に埋もれた墓の発掘調査のための家屋移転には協力的ではないとも言われています。
山頂に遺跡発掘に生涯をかけたイギリス人ハワード・カーター(1874-1939)が逗留した建物が見られました。


王家の谷チケット売り場 電気カート「タフタフ」

9時10分に王家の谷に到着、タフタフに乗って、第18王朝から第20王朝の王達の墓まで行きました。
トトメス1世が1700年続いた伝統を破って葬祭殿と墓を分け、谷の上にピラミッドに似たエル=クルン山があり、
石材が豊富なこの場所に遺体を埋葬したのが「王家の谷」の始まりと言われています。
ツタンカーメン王の墓の側にザヒ博士がツタンカーメンの義理の母、ネフェルティティの墓と考えている
発掘現場がありました。又、博士は55番目の墓から出土したミイラを義父アクエンアテンのものとしています。



最初にハワード・カーターが1922年に発見したツタンカーメンの墓を見学しました。
「トト アンク アメン」という名前が、義父アメンヘテプ4世(アクエンアテン)が行った宗教・政治改革、
アテン神信仰という一神教を、アメン・ラー神信仰を中心にした多神教に戻したツタンカーメンを表し、
NO:62という番号は発見された順番で、現在は2006年6月にエジプト・アメリカ合同調査隊が発見したNO:63が
最も新しく発見された墓で、ツタンカーメンの妻アンケセナーメン又は生みの親キヤの墓と言われています。
12畳ほどの広さのNO:63墓内部には黒い樹脂で塗り固められた7個の棺と、
漆喰で封印された28個の壺が残されていたそうですが、
棺や壺からは40cmほどの小さな黄金の棺2個と女性用装身具などの副葬品、陶器破片しか見つからず、
壁画のかかれていない内部、持ち去られたミイラなどから、アメンヘテプ4世以降4代のファラオの
死後の復活を妨げた反対勢力との宗教対立の凄まじさ、悲劇を窺い知ることができるようです。

即位(BC1350年頃)から9年後、わずか19歳で亡くなり、突然の死で墓の建設が間に合わなかったため、
又は異端王の後継者として嫌われ、碑文から名前を抹殺されたため、
他の王墓と比べ小規模であったツタンカーメンの墓は、幸いにも、盗掘を免れ、荒らされた形跡もなく、
2000点以上に及ぶ副葬品というかけがえのない歴史の証拠品を後世に残してくれていました。

入口から9mほど下ると前室があり、その右手の玄室の壁にツタンカーメンの葬列、復活の儀式が美しく描かれ、
その前にミイラを収めた人形棺が石棺に入れられて置かれていました。
(墓内は撮影禁止でしたので、内部写真はガイドブックから借用しました。)




今回持ち帰った入場券を見ると、クフ王ピラミッド、ツタンカーメン王墓、エジプト考古学博物館内ミイラ室が
入場料の高価格トップ3でした。パッケージツアーでは意識しませんが、
100ポンド(平均レートで2000円)というのは、個人旅行で夫婦で入るには躊躇してしまいそうな値段です。
王家の谷の中で3ヵ所入れる墓入場料が40ポンド、考古学博物館入場料が60ポンドに比して、
調査、保全、研究に貢献しているとは言え、ミイラ関連は高い!と思いました。



上下エジプトの冠をつけたラムセス9世
ホルス神・ラムセス1世・アヌビス神
ラムセス4世の墓

太陽神ラーの船

3か所入れるチケットでナシュワさんが選んだのはラムセス1世、9世、4世の墓でした。
どの墓もツタンカーメン王の墓に比べると格段に広く、下降通路や各室の壁・天井いっぱいに
宗教文書や挿画が色彩豊かに描かれ、来世を信じる王達の執念すら感じさせるものでした。
4世の墓の花崗岩の石棺は長さ3.3m高さ2.7mで王家の谷では最大と言われ、
下降通路入口近くにはコプト十字が彫られ、教会として使われた痕跡も残っていました。
ホメロスがイーリアスで「百の門を誇る都、砂漠の砂粒のみがその財宝の数をしのぐ所」と
テーベを讃えたそうですが、‘質素な’ツタンカーメンの墓の財宝でさえ目が眩むほどですから、
当時のエジプトの栄華のスケールは想像を絶するようです。


ハトシュプスト葬祭殿の駐車場前 プントの乳香の木?



11時に王家の谷を出発、30分で山の反対側にあるハトシェプスト葬祭殿に到着しました。
キリスト教修道院として使われたことによりデイル・エル・バハリ(北の修道院)と呼ばれる葬祭殿は、
修道院として使われたことによって破壊を免れたそうです。
女王の宰相であり、天才建築家であったと言われるセンムトが建造した葬祭殿は、
切り立った崖の扇型の地形を利用した革新的な様式で、エジプト建築史上類をみない傑作と言われています。

ハトシェプスト女王(在位BC1490−1470年頃)は夫で異母兄のトトメス2世の死後、幼いトトメス3世に代わり、
王権をにぎった古代エジプト唯一の女王で、ハトシェプストは「最も高貴なる女性」、
即位名マアトカラーは「真実とラー神の魂」を意味するそうです。
モーセの出エジプトはラムセス2世時代と言われていますが、
1976年に出版された聖書共同訳ではトトメス2世の時代の可能性があると注解されているそうで、
後者をとれば、モーセを河から拾い上げ、育てたのがハトシェプストという説が信憑性を帯びてくるようです。



エジプト考古学博物館蔵オリジナル・レリーフ

新王国時代の最盛期に王位を継いだハトシェプストが行った交易遠征を伝える彩色レリーフが
第2テラスの列柱室の壁に残っていました。
短剣、戦闘用斧、首飾りなどを載せたエジプトの帆船が15日間かけて紅海を航行、
プント(ソマリア?)の香料、金、象牙、豹の皮、黒檀などと取引する様子が克明に描かれていましたが、
金塊を運ぶエジプト人とプント首長夫妻のオリジナル・レリーフはエジプト考古学博物館に移されていましたので、
両方の写真を載せてみました。肥満した夫人の描写がとてもリアルです。
この時、31本の乳香樹がテーベに運び込まれたそうですが、
その1本が入口ゲート脇に囲われていた根っことはちょっと信じ難いです・・・。
壁画に征服場面がないのは、国情が安定した時代の統治であったと共に、女王ならではという説もあります。


第3テラスのオシリス神姿の女王像 ハトホル女神神殿

アヌビス神礼拝所の壁画
アヌビス神とトトメス3世

フリータイムに第3テラスの奥の至聖所やハトホル神殿、1階のアヌビス神礼拝所を見て回りました。
礼拝所でアヌビス神に捧げものをしているトトメス3世は、王国の領土を最大にした王ですが、
ハトシェプスト女王の死後、義母の立像を破壊し、事跡をことごとく消し去ったと言われています。
12時20分頃、電気カートに乗ってバスに戻り、葬祭殿を後にしました。


ラモセ墓近くのモスク? ラモセ墓の入口

家財道具を運ぶ召使たち
泣き女

西岸の見学の最後に、貴族の墓のひとつ、ラモセの墓に寄りました。
ラモセはアメンヘテプ3世からアクエンアテン王時代に副総督を務めた家系で、
首都がテーベからテル・アル・アマルナに遷都された時代にあたり、墓は未完成のままですが、
写実性に富んだアマルナ美術へ移行する時代の代表作といわれるレリーフや壁画がありました。

1時半過ぎにモヒト号に戻り、船内レストランで昼食を取りました。



 

2時40分にバスに乗って、東岸の観光へ向かい、先ずカルナック神殿へ行きました。
入場時の荷物検査にはすっかり馴染みましたが、ポリスの方も馴染んで?チェック機能は余り無さそうでした。

テーベが発展した中王国時代にテーベのアメン神が太陽神ラーと結合、国家最高のアメン・ラー神となり、
最高神の庇護の元におかれた歴代の王たちが次々と増改築をしたのがエジプト最大のカルナック神殿です。
ここには30haの広さを持つアメン大神殿の他、アメン神の妻ムトの神殿、息子のコンスの神殿があり、
それらを総合してカルナック神殿群と呼んでいます。



スフィンクス参道
セティ1世オベリスク

アラバスター製人頭スフィンクス

アメン神の聖獣、牡羊のスフィンクスが40体並ぶアメン神殿の参道から高さ43m幅113mの第1塔門を抜けると、
塔門の建て方が分かるという日干しレンガの階段が裏側に残っていました。


ラムセス3世神殿
ラムセス2世像と第2塔門

トトメス1世とハトシェプスト女王のオベリスク
134本の柱が並ぶ大列柱室
倒れたハトシェプスト女王のオベリスク 7回周って幸運を呼ぶケプリ神のスカラベ
聖なる池 神殿内カフェ

広大なアメン神殿の公開されている部分の塔門、列柱、オベリスク、レリーフなどを
1時間半ほどかけて見学しましたが、アレクサンダー時代のレリーフ、キリスト教時代の痕跡まで残る
長い歴史を重ねた遺跡には圧倒されるばかりでした。
まだ発掘が続けられ、全体像は見せていませんが、それでも全盛時の威容は充分に想像することが出来ました。



4時半にカルナック神殿の中心、アメン神殿の副殿として建てられたルクソール神殿に到着しました。
ルクソール神殿は中王国時代の神殿の上に、新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世、
第19王朝のラムセス2世が造り上げた神殿で、ラムセス2世像の巨大な座像がある第一塔門には
カディシュの戦いのレリーフがありました。




第1塔門を入ったラムセス2世の中庭にはアメン、ムト、コンス神に捧げた小神殿があり、
立ち並ぶ立像の足元にはネフェリタリの像が隠れるように?彫られていました。


大列柱廊の右にアブ・エル・ハッシャージ・モスク コプト教会

アブ・エル・ハッシャージ・モスクのあるラムセス2世の中庭から、オペト祭りのレリーフのある大列柱廊を抜け、
アメンヘテプ3世の中庭、コプト教会、至聖所などを見学しましたが、
暗くなりかけた5時前の神殿内では写真をうまく撮ることが出来ませんでした。
フリータイムに奥まったアメン神礼拝所を覗いていると、手招きするエジプト人がいて、
壁に手を触れるように言いながらバクシーシを要求していました。
近付きませんでしたが、手垢で?黒ずんだ部分に‘ご利益’のある壁画があったようです。


ルクソール神殿の正面全景 スフィンクス参道

ルクソール神殿前にあった1対のオベリスクの右側は1833年にエジプト総督モハメド・アリがパリへ寄贈、
1836年にコンコルド広場に移されたそうです。
スフィンクス参道はかっては3km離れたカルナック神殿のアメン神殿に繋がっていて、
ナイル河氾濫期の8月末から2週間のオペト祭の時、アメン・ラー、ムト、コンス神の聖舟が行進した道で、
現在修復が進められているそうです。
古い宗教祭が観光の目玉として?復活する日が来るかもしれません。

5時10分頃、バスで帰る途中、夕日が落ちて行くのが見え、20分にモヒト号に着いてすぐ屋上デッキへ
上がってみましたが、船が岸側に移動して、数隻のクルーズ船が西側に横づけされていたため、
絵にかいたようなナイルの夕日の写真を撮ることは出来ませんでした。


夕食の8時まで、結構役に立ってくれた足首の簡易テーピングを外して入浴を済ませたり、荷造りをして、
慌ただしく過ごしました。何しろ明朝の出発は5時ですから、寝る時間を確保するための作戦?という訳で・・・・。
モヒト号最後の夕食にはE社名物のお素麺が出されました。
旅行社アンケートには添乗員の負担が重いのでは?と書きながら、有り難くいただいてしまうのですけれど。
私達の仲間ではありませんでしたが、お誕生日祝いの光景も見られました。

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