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17 Jan 2009
Luxor〜Cairo

夜明け前の3時半に起床、荷造りを済ませてから、4時20分ごろ朝食に行きました。
レストランにはライス・スープと称するおかゆやオムレツなど暖かい食事が用意されていて、
早起きの辛さを和らげてくれるようでした。
5時にモヒト号を下船、バスでルクソール空港へ向かいました。



10分余りで到着したルクソール空港では、「荷物はポーターさんにお願いしています」と案内がありましたが、
もぐりポーター?が勝手に数メートル運んで、バクシーシを要求する場面がありました。
自分達でスーツケースを運ぶ西欧人には近付かないことでしょうけれど・・・。
「Have a nice trip!」を「一路平安を祈る」と古都ルクソールは?訳していました。

ルクソール空港 6時35分発
6時40分過ぎ カイロ空港7時35分着

雲の間から顔を出した太陽や、全長6650kmのナイル河の下流域を下方に見ながら、
ルクソールからカイロまで約670km、1時間の飛行中、
再びカイロに戻って行くことやエジプトの旅が終わりに近づいたことに一抹の寂しさと感慨を覚えました。


エジプト考古学博物館

9時前にエジプト考古学博物館に到着しました。
1863年にフランス人考古学者オーギュスト・マリエットがカイロ郊外ブラークに設立した博物館を前身に、
タハリール広場の一角に1902年に建設されたのが現在のエジプト考古学博物館です。
増え続ける収集品のために考古学博物館が日本のODAの出資によってギザに建設中の新博物館、
「The Grand Egyptian Museum」は2011年に完成予定ということです。
博物館の正面玄関前には上下エジプトの象徴、パピルスとロータス(睡蓮?)が植えられていました。

門と建物入口の2か所でセキュリティ・チェックを受け、T添乗員さんにカメラを預けて、2時間ほど見学しました。
‘見逃せない’という作品を中心に駆け足の見学でしたが、回ってきた遺跡の出土品を中心に、
改めてエジプト文明の大きさを感じながら、今なお魅力を失わない数々の秘宝と出会いました。
12万点を超すと言われる収蔵品の中のほんの1部を図録からご紹介します。



アトリウム


ナルメル王パレット
BC3000年頃


書記像
BC2475年頃


夫婦像
BC2620年頃
カフラー王像
BC2540-2505年頃
古王朝時代の初代王ナルメル王のパレット(石板)には上エジプトが下エジプトを征服する図が彫られています。
パピルスの巻物を手にした「もっとも高貴な職業」の書記は古代エジプトの高位の人物だそうです。
エジプト美術史上最も美しいと言われる夫婦像は、第4王朝メイドゥームの墳墓から発見された
クフ王の兄弟ラホテプ王子とネフェルト妃で、色彩が鮮やかな高さ121cmの像です。
ギザの第2ピラミッドを建設したカフラー王の頭の後ろにホルス神、玉座にはパピルスと蓮が彫られています。



鷹のミイラの頭像
BC2350年頃
神官カー・アペル像
BC2475-2467年頃
小人のセネブと家族
BC2475年頃
発見当時の村長に似ていた為「村長像」と別名をもつカー・アペル像は世界最古の木像と言われています。
鷹(ホルス)のミイラの頭像は2本のダチョウの羽根とコブラのついた冠が王権を象徴しています。
高い地位についた小人のセネブとその家族像はバランスの取り方が絶妙な傑作という評価を得ています。


中王国時代(BC2000年頃)のエジプト人槍隊とヌビア人弓隊
第6王朝以降、墓には召使などの小さな像が墓に納められるようになったそうです。
第12王朝の州長官の墓から発見された武装した兵士達の群像は壮観でした。





ネフェルティティ王妃
BC1365年頃



エル・アマルナ宮殿の床の絵
BC1365-1349年頃
アクエンアテン王
BC1365-1349年頃
新王国第18王朝のアクエンアテン王(アメンヘテプ4世)は宗教改革を行い、アケト・アテンを首都にして
新政治を始めた王ですが、一神教は国民の支持を得られず、改革は15年で終わってしまいました。
けれどもこの時代の自由で写実的な美術様式はアマルナ美術と呼ばれ、
後の時代に大きな影響を与え、研究者からも高い評価を得ています。




ベルリン博物館が所蔵する石灰岩に彩色したネフェルティティ王妃の胸像は
アマルナ美術の最高傑作の誉れ高い作品ですが、カイロ博物館蔵の褐色珪岩製の頭像も
切れ味鋭い彫刻刀の跡が見られ、それに劣らない傑作と言われています。
宮殿の床に描かれた飛び立つカモ、パピルスとロータスの絵も、写実性、色彩共に優れた作品でした。




黄金のマスク


黄金の玉座


厨子
木製立像
お馴染みのツタンカーメン(1350年頃即位)の遺宝です。
膨大な金を使った3つの棺と4つの厨子、質量ともに驚嘆の一語に尽きる副葬品の数々には
圧倒されるばかりでしたが、亜麻布で覆われた人形棺の上に矢車菊などの花輪が添えられていたという話に
ほっとするような現実を感じることが出来ました。

その後、フリータイムになり、1903年に発見され2007年6月に同定されたハトシェプスト女王や
セティ1世、ラムセス2世など歴代王のミイラを見学しました。
歯や髪の毛が残っているのもあり、ミイラ職人の技術の高さが分りますが、
(ヘロドトスによるとミイラ作成価格は、細工の精巧さにより3ランクに分かれていたそうです。)
じっくり鑑賞したいものではありませんでした。動物のミイラも少し見た後、
中王国時代の兵士の模型などを見て、1階に降り、ハトシェプスト女王のプント交易のレリーフを探したり、
入口正面吹き抜けのアトリウムでアメンホテプ3世とティイ王妃の高さ7mの巨像や
ハトシェプスト女王の石棺などを見て回りました。
時間が足りなくて、グレコ・ローマン時代のコーナーなどを見ることが出来なかったのが心残りです。


ハトフル女神

「コンパクトな日本語の図録がありますよ。」とT添乗員さんが教えて下さった博物館前の本屋さんは、
1904年創業という老舗でした。図録や小さなお土産用にパピルスのしおりなどを買って、
11時10分過ぎに集合場所の博物館のパピルス池前に戻りました。



11時15分に博物館を出発、バスで旧市街のイスラム地区へ向いました。
大都会とは思えない生活感漂う車窓風景には、飽きもせず、ついついカメラを向けてしまいます。



ヌードル入りトマトスープ

メイン・ディッシュの数々

12時前にレストラン「Great Wall」に到着、6〜7種類の中華料理は、味は特色のないものでしたが、
品数、食材の豊かさに、お店のアンケートに代表で答えたSさんは最高マークをプレゼント?していました。
何より東洋人オーナー達の優しい表情に懐かしさを感じました。


 

昼食後、イスラム地区の南東に位置するムカッタムの丘の上のシタデル(城塞)へ行きました。
1176年にアイユーブ朝を興したサラディンが十字軍防衛のために建設した後、
マムルーク朝、オスマン朝、ムハンマド・アリ朝を通じて政治の中枢として使われた場所で、
様々な時代の建物が残っているようでしたが、私達はムハンマド・アリ・モスクだけを見学しました。
1824年にムハンマド・アリによって建設が始まったムハンマド・アリ・モスクは
銀製の巨大なドーム、2本の鉛筆型のミナレットを持ち、下部はアラバスター、上部は石灰岩で造られ、
息子のサイード・パシャの時代、1857年に完成したオスマン・トルコ様式のモスクです。



泉亭と時計台

ムハンマド・アリ・モスクの中庭に靴を脱いで入り、バロック、ロココ様式がミックスされた修復中の泉亭や、
現在パリのコンコルド広場に置かれているルクソールのオベリスクの返礼として、
フランス7月王政のルイ・フィリップ国王が贈った時計台を見学しました。
この時計は最初から壊れていて、動いたことは一度もないそうです。
モスクの中にはイタリアのカラーラ産の大理石で造られたモハメッド・アリ廟がありました。



ミフラーブとミンバル(説教台)

ドーム天井から下がったフランス製の華麗なシャンデリア、数多くの小さな照明、ステンドグラスが、
モスクの内部を柔らかく照らし出していました。
写真のミンバルの右側には21Cになって造られたというイスラム・カラーの緑色の大きなミンバルもありました。



シタデルのテラスからカイロ・ビューを楽しみました。
午前中のもやが大分晴れて、遠くにギザのピラミッド、近くに3日目に行ったイブン・トゥールーン・モスクなどを
見つけることが出来ました。



フリータイムにアイユーブ朝の「サラディーンの井戸」を探してみましたが、
修復中説、場所に異論などあって、見つけることが出来ないまま、1時半過ぎにシタデルを後にしました。



シタデルの下にあるスルタン・ハサン・モスク前で写真ストップが取られました。
予定表に「立ち寄る」と書いてありましたが、5分だけの写真タイムで、
マムルーク朝を代表する大きな建物を分割して撮るだけに終わってしまいました。
ムカルナス(鍾乳石飾り)の入口、4つのイーワーン(中庭に向かって開口するアーチを持つ大広間)など
マドラサ(学院)として使われていた14Cのモスクを見学して、カイロのイスラム建築の変遷に触れるのは、
3日目のプランに入れておくべきだったと思っても後の祭り・・・となってしまいました。



2時にハン・ハリーリ市場へ行きました。
ハン(隊商宿)が立ち並ぶ場所をジャスカル・エル・ハリーリが14C末に改装工事をしたのが、
この市場の始まりで、迷路のように入り組んだ中にお店がぎっしりと詰まり、
地元客と観光客でごった返した路地もありました。



至る所で店員が「見るだけ只」「バザールでござる」「やまもとやま」「頑張ってください」などと
様々な声を掛けて来ますが、最もおかしかったのは「価格破壊よ」でした。


靴磨きとパン売りの少年 フセイン広場

30分の予定が30分延び、バスの遅れで、またもや20分延び・・・となってしまい、結果的には、
買物に余り興味がない私達には、アズハル・モスクへでも行けば良かったという時間になってしまいました。
終わり頃はフセイン・モスクとカフェが並ぶフセイン広場でぼんやり道行く人を眺めていたのですが、
1ヶ月後の2月22日にこの広場で爆弾テロがあり、
フランス人女性1人が死亡、21人が負傷したというニュースが入って来ました。
ムバラク政権に反感を抱く「イスラムの誇り旅団」という小さな組織が犯行声明を出しているようですが、
巻き込まれなかったことを幸いに思うしかありません・・・。
「この付近では05年にも爆弾テロがあり、仏人観光客3人が死亡」ともありましたが、
実はそれも4年前の北アフリカ・ツアーの出発、数日前のことでした。
どこの国でも、いろいろな事件があり、運不運はインシャアッラー・・・です。



3時20分ごろ、ハン・ハリーリを出発して、まもなく車窓に下町の雑然とした家並みとも違う、
何ともいえない殺伐とした荒廃地のような場所で生活する人々が見られました。
どういう暮らしなのだろうと思うままに通り過ぎてしまいましたが、(写真を撮らなかったのが残念・・・。)
帰国後、地図を見て、ムカッタムの丘のふもとに広がる中世からの墓地、死者の町であったことに気付きました。
歴史に名を残す人々の立派な墓廟もあるようですが、
家屋型の墓所に貧しい人々が2万人以上も住みつき、カイロの社会問題のひとつとなっているようです。

4時過ぎにギザのメリディアン・ピラミッド・ホテルに到着しました。
4年前の北アフリカ・ツアーの初日に泊まり、今度はここでエジプト・ツアーを締めくくるという偶然、
今回は3つのピラミッドを見渡せる部屋に宿泊できた幸運にはテンションが否応なく上がっていきました。
相変わらず、民族衣装を着たエレベーターボーイに無用の部屋案内をされ、チップをねだられるという
今やすっかりお馴染みの駆け引きはありましたけれど・・・。
6時から1階レストランで多国籍メニューのビュッフェ・スタイルの夕食を取り、又々長い1日が終わりました。


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