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1 Oct 2009
Wertheim~Miltenberg~Aschaffenburg

夜が明けて停泊していたヴェルトハイムを見ると、左岸に旧市街、右岸にキャンピングカーの列が見え、
今まで船からいくつも見てきた美しい景観の街と同じような川沿いの小さな街のひとつであることが分りました。
この日は船を下りて、そのような街々を散策しました。
朝食後散歩に出て川辺に立つと、人慣れしたコブハクチョウがすーっと泳いで近付いて来ましたが、
陸まで上がって来てしまうと、こちらはちょっと後ずさり、写真だけ撮らせてもらいました。



8時40分に集合して、1時間ほど散策をしたヴェルトハイムの街の歴史は7~8Cに遡るようですが、
貴族一門が分家をしてヴェルトハイム家を名乗った12C始め以来、神聖ローマ帝国の一伯爵領として存続、
1809年以降は様々に支配を変えながらも、中世の面影を留めている愛らしい街でした。



すっかりお馴染みになった木骨組みの家ですが、保存状態、統一された色合いが素敵でした。
右側は「天使の泉」と呼ばれる井戸です。
天使や裸の女性像(水の精?)、兵士達が四方を取り囲み、大事な水を守っているように見受けられました。


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1年後にヴェルトハイムを訪ねた旅なかまのTSさんのレポートによると、
Engelsbrunnen(天使の泉)は「1574年に造られたという赤砂岩製のつるべ井戸で、
つるべを支える骨組みの上には2人の天使と4惑星を象徴する像が、
柱の部分には領主から自治権を勝ち取った市長の像などが飾られています。」とありました。
                       (追記:2010.10.20)



キリアンス聖堂と司教座聖堂

左側、キリアンス聖堂の奥の階段を上ると、ヴェルトハイム城へ上ることが出来るようです。
右は時間があれば入ってみたいと思わせるお手頃サイズのヴェルトハイム博物館で、
マルクト広場から四方を見回すと街の全貌が視界に入るのではと思えるような小さな旧市街でした。



のんびりと街を歩きながら、それぞれに買物も楽しみました。
それ程の価格差を感じずに日本国内で世界中のワインを手に入れることが出来る昨今、
重いものを持つのはいやだと夫に難色を示されましたが、
ハーフボトルでいいから・・・・とご当地ワインを1本だけ買って帰ることにしました。
引き締まったすっきりした味で有名なフランケンワインの瓶は、胴が膨らんだユニークな形をしていますが、
これは貨幣経済が未発達な時代に給料や税金がワインで支払われた名残りで、
皮紐で腰にぶら下げやすいようになっていて、ボックスボイテルと呼ばれています。



街の区画があいまいで、曲った小路が中世風なよい趣きを見せている旧市街でした。
高さ36mの要塞塔シュピッツェ塔は少し傾いていて、‘斜塔のシャトー’という駄洒落も聞こえて来ました。
9時40分にバスに乗って、ミルテンベルクへ向かいました。



 

陸路を辿りながら見る川沿いの車窓風景は、船より距離が近い分、現実の生活が感じられるものでした。
30分程で、‘マインの真珠’と呼ばれるミルテンベルクに到着しました。


バスを降りると、第2次世界大戦で爆破、1950年に再建された19Cのマイン橋や
遊歩道のある川景色が見られました。
背後の山とマイン川が天然の要害となっているミルテンベルク周辺には、
古代ローマ時代に築かれたリメス・ゲルマニクス(防衛線壁)遺跡が今も残っているそうです。
ローマ時代の街道を原型にした街は、13Cにマイン川の通行税や交易で発展しましたが、
現在残っている木骨組みの家のほとんどは16C半ばのものと言われています。



旧市街に入り、ビール醸造所、図書館として使われている元・軍行政施設、ホテルとなっている元・牢獄などを
見て歩きました。右側は道路をまたいで建っている珍しい建物ですが、
小さな家に17人家族で住み、衛生状態も悪く、良い環境ではなかったというのがガイドさんのお話でした。


二つの塔が見えている聖ヤコブ教区教会と街のメインストリート、ハウプト通りの景観です。



木骨組みの家に‘秋の実り’が情趣を添えて、とても良い雰囲気を醸し出していました。


左は15Cのユダヤ人コミュニティの建物で、
内部地下に女性用ミクヴェ(瞑想や清めのバスのようなもの)が見られました。
右はサンチャゴ・デ・コンポステーラまで2577kmという標識で、スペインへの巡礼方向を示していました。



ミルテンベルクの中心、マルクト広場は赤い出窓のある家が圧倒的な存在感で
広場の景観を引き締めていました。
広場中央にある八角形の噴水は1583年に街の石工ミヒャエル・ユンカーがルネサンス様式で作ったもので
正義の女神ユスティティア(Justitia)が円柱に飾られています。
噴水に使っているミルテンブルク特産の斑砂岩は中世来、フランクフルトやマインツの大きな教会にも用いられ、
とりわけマインツ大聖堂の‘ホイネの柱’が有名だと言われています。
噴水の奥に見える緑の窓の建物は市博物館です。


  

ハウプト通りの中ほどに洪水の記録を壁石に刻んだ旧市庁舎がありました。
内部は今は文化センターとして使われているそうです。


山の中腹にミルテンブルク城 Gasthaus zum Riesen

市庁舎前から来た道を振り返ってみると、ミルテンブルク城がよく見えました。
少し進むと、フリードリッヒ1世バルバロッサ、カール4世、ルター、マリア・テレジア、エリザベートなど
著名人が宿泊したといわれるドイツで最も古いゲストハウスの「巨人亭」?がありました。
馬車毎、中に入ったという高い入口が往時の様子を伝えている現レストラン建物です。


マイン橋塔 ビュルツブルガー門

少しフリータイムが取られましたので、エンゲル広場あたりまで足を延ばすと、
川方面にマイン橋塔、前方には旧市街の境界ビュルツブルガー門が見え、街の規模がほぼつかめました。
人気観光地ミルテンベルクを後に、12時にバスに乗って、アシャッフェンブルクへ向かいました。



 

12時40分頃アシャッフェンブルクに到着、ウィリギス橋を渡る車窓から見えたヨハニスブルク城の中の
レストランでランチをいただきました。




野菜サラダと七面鳥ライス添え、アップルキュヒラー(揚げりんご)とアイスクリームというメニューでした。
至ってシンプルな内容の写真を見ていて、昼、夜ともに必ずついていたデザートが、
おいしいけれども食べ過ぎにならないかと心配の元になっていたということに気付きました。
それなりに調整していた私は勿論、毎回ビールやワインと共に完食し、体重を2キロ増やして帰って来た夫も
帰国後の不思議は、体脂肪率がかなり下がっていたことでした。
これは「知らない土地へ行き、おいしいものを食べると、心がうきうきする。知らない景色をみて感動する。
副交感神経が刺激され、血管が拡張し、循環がよくなり、血圧が下がる。免疫力だって上がる。」
と医師・鎌田實さんがブログで書いていらっしゃることと大いに関係がありそうです。



ガイド&添乗員さんミーティング

昼食後、レストランの窓から見えたイチョウの木の前で写真を撮っていると、近くにいらしたSMさんが、
「銀杏はGinkyoを間違えてGinkgoと表記したのがそのまま学名に使われたそうですね。」と教えて下さいました。

帰国後調べて見ると、ヨーロッパにイチョウが広まったきっかけには諸説あるようですが、
ドイツの博物学者・医者であったケンペル(1651-1716)が1690年から2年間来日した後、
オランダへイチョウの種を持ち帰り、ユトレヒトに植えたという説がかなり支持されているようです。
Ginkgo Bilobaという学名は、銀杏の音を聞いたままに付けられたのが Ginkgoで、
こちらも誤記説、kgo=kyoと発音するなど意見が分かれていますが、
BilobaのBiは2つ、lobaは葉っぱで、イチョウの葉の形状に因んでいるようです。

7つの班のコースなどの打ち合わせが行われた後、2時半過ぎに街散策に出掛けました。
それ程、広くない街で、他の班とかち合ってしまう場面がなかったお見事なコース分けでした。


聖母マリア教会 市庁舎

歩き始めてまもなく、今回の旅で初めて小雨が降り、傘を取り出しましたが、それもほんの10分程のことで、
最初に入った1200年代の聖母マリア教会の見学を終えて外へ出た頃にはもう雨は止んでいました。
30年戦争後プロテスタントになったアシャッフェンブルクは、現在は人口69000人の9割がカトリックだそうで、
第2次世界大戦で天井が崩れ落ちたという聖母マリア教会もきれいに再建されていました。




市庁舎の屋根の軒天や民家の壁に人の顔や悪魔の魔除けが取り付けられていました。
顔のマークのついた家はかっては高位の人々の遊び場所を示していたとも言われています。


10世紀建造のシュティフト教会(修道院聖堂)に入り、バロックの主祭壇、聖マルガリータの聖遺物櫃や
オーク材のピエタのある教会内部、ロマネスク回廊の修道院などを見学しました。
この街生まれの宮廷画家グリューネヴァルト(1470-1528)のキリストの絵は見逃してしまったようですが、
10年前にコルマールのウンタ-リンデン美術館で見た「イーゼンハイム祭壇画」が、
グリューネヴァルトによるものであることを思い出して、旅のつながりをうれしく思いました。


 

教会の前に立っている2人の像は、左側はペテロだとすぐに分りましたが、
「右は誰ですか?」と尋ねると、「この街ではあまり好かれていない教皇アレクサンドル6世です。」と
少し複雑な表情のガイドさんでした。毒殺で有名なボルジア家のドンですから、さもありなんですが、
500年前が今もそのまま息づいている所が正にヨーロッパだと思われました。
息子のチェーザレ・ボルジア共々、ボルジア家の評価は歴史家によって分かれる所のようです。



2011年に取り壊しが決まっている18C建造のピンクのかわいい木造劇場や、
12Cの塔を見ながら、再びヨハニスブルク城へ戻りました。
マインツ司教圏にあり、神聖ローマ帝国の重要都市であったアシャッフェンブルクに築かれた
ヨハニスブルク城は17Cに拡大し、アルプス以北のルネサンス建築の最大傑作と賞され、
現在は州立博物館となっています。砂岩の赤い色と4つの大きな塔が印象的な均整のとれたお城でした。



ヨハニスブルク城のテラスからマイン川を見ると、
ルードヴィッヒ1世がポンペイで発掘された遺跡をイメージして作ったといわれるポンペイハウスが遠望出来、
歴代皇帝達にも愛された街であった様子が垣間見られました
しばらくするとヴェルトハイムからアシャッフェンベルクまで131kmを下って来たフランス号が姿を見せました。


ヨハニスブルク城 シュロス・ガーデン
イエズス会芸術ホール シティ・ホール

ヨハニスブルク城広場へ戻り、のんびり周辺の写真を撮りながら20分ほどのフリータイムを過ごした後、
2時間の観光を終え、4時半過ぎにバスでフランス号へ戻りました。



船はヨハニスブルク城が見える所に停泊していましたので、ひと休みした後、川沿いの道を散歩してみました。
船から、河岸から、様々な景色を楽しめるのがクルーズの醍醐味と言えそうです。

  

7時からの夕食はクロワジー社が昨年よりエジプト・紅海クルーズを始めたことを記念して
エジプシャン・スタイルで行われました。




モロヘイヤ・スープ?カバブ?という予想は外れ、
アボガド・サラダ、肉と野菜炒め、ピラミッド型ケーキというメニューで、
今年1月にエジプトで食べたものとも様子の違うエジプシャン・メニューでしたが、
変わった趣向を楽しんだ夜でした。


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