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2 Oct 2009
Frankfurt am Main~Mainz

早朝にアシャッフェンブルクを発って、98km下流のフランクフルトへ向かう途中の朝焼けです。
毎日配布される「ワールド通信」のこの日の天気予報は雨でしたが、7時過ぎに太陽が昇って来ました。
今までの旅体験では日本のように細かく天気予報を流す国は珍しく、
海外旅行中のお天気は朝になって外を見て、自身で判断することが多くなりました。



8時を過ぎた頃から、河畔に自転車で通勤をする人、レガッタの練習やジョギングの人達などが見られ、
景色が段々と都会的になって行きました。
10月に入り、木々の葉も大分色付きを増してきたようです。



8時20分頃、Frankonofurd(フランク人の浅瀬)に由来するフランクフルトの街が前方に見えてきました。
旧東ドイツの同名の街と区別するためにフランクフルト・アム・マインを正式名称とする街は、
‘マインハッタン’とも称される通り、現代的なビルが林立するドイツ経済の中心都市です。
アルテ橋を抜けると、大聖堂も存在感を競うように高い塔を見せ、街のランドマークとなっていました。

最初の日程表ではフランクフルトは素通りすることになっていたのですが、
幸いにも3時間近く停泊してフリータイムが取られることになり、旅行社側ではグループ枠を外し、
街散策やシュテーデル美術館に案内すると提示されました。
私達は自由に街歩きをすることを決め、船のレセプション前で下船準備が整うのを待っていると、
「2016年の夏季オリンピックはリオデジャネイロに決定したそうです。」と
日本のニュースを携帯電話で仕入れたO添乗員さんが教えて下さいました。
理念不足、無関心が多数派、外交下手と3拍子揃えば、東京の落選は当然という所かもしれません。
8時45分過ぎに下船、 船が停泊していたホルバイン橋の袂から、
時間倹約のためにタクシーを使うことも考えましたが、
川沿いの道を歩いて10分ほどで、9時前にはレーマー広場に到着することが出来ました。



レーマー広場の旧市庁舎

レーマー(ローマ人)が宿泊していた館を1405年に市が買い取って市庁舎としたことに由来する
レーマー広場の真ん中の建物では神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式後の祝宴や選帝侯会議が開かれ、
カイザーザール(皇帝の間)には歴代皇帝52人の等身大肖像画が飾られているそうですが、
この日は結婚式があるということで内部見学が出来ず残念でした。
この旧市庁舎のバルコニーではスポーツのナショナルチームが好成績を上げて帰国した時などに、
選手達が祝福を受け、広場は人にあふれ、熱狂に包まれるそうです。



広場の東側は木骨組みの建物群、南側には正義の女神ユスティティア像の噴水とニコライ教会が見えました。
ニコライ教会は宮廷用の礼拝堂として初期ゴシックで建てられた後、
15Cになって市参事会員教会として後期ゴシックに建て替えられています。



考古学庭園

レーマー広場から大聖堂への道沿いに古代ローマの駐屯跡やカロリング朝の宮廷跡の考古学庭園があり、
フランクフルトの古い歴史を見せていました。

1356年のカール4世の金印勅書によって、皇帝選挙がフランクフルトで行うことが定められた後、
メロヴィング朝の小さな宮廷礼拝堂を基とした聖バルトロメウス教会では
1562年から1792年まで皇帝戴冠式が行われ、カイザードーム(皇帝の大聖堂)と呼ばれています。


大聖堂内部
聖遺物が納められた十字架の磔群像
現代アートの趣きを見せる北側入り口

1763年4月、13歳の時にこの大聖堂でマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世のローマ王戴冠式を見たゲーテは、
「我々は地上の尊厳がその権力のあらゆる象徴に取り巻かれているのを目前にする」(「詩と真実」)と感じますが、
1806年夏の帝国解散の時の日記には「新聞の記事を見た。ドイツ帝国が解散した」と淡々と書き、
「ファウスト」では「神聖ローマ帝国が余命保つぞ摩訶不思議!」と冷笑しているそうです。
                (「神聖ローマ帝国」菊池良生著:講談社現代新書)
幾度もの戦争被害を受け、修復を重ねて来た神聖ローマ帝国興亡の生き証人とも言える大聖堂でした。



ゲーテハウス入口

大聖堂を後にして、1749年8月28日生まれのゲーテがライプツィヒ大学時代を除いて、
ワイマールへ移る26歳まで住んでいた「ゲーテハウス」へ行きました。
皇帝顧問官の父とフランクフルト市長の娘である母の元に生まれたゲーテの裕福な生活を垣間見られる生家は、
1944年に空襲で破壊された後、戦後間もなく再建され、1951年から一般公開されているそうです。
時間が早く、中に入ることは出来ませんでしたので、写真だけ撮って、ゲーテ像を見に行くことにしました。
生家前の通りは1583年に埋め立てられるまでは宴会用の鹿が飼われていた堀で、
今も「鹿堀通り」と呼ばれ、今回の旅の始めにプラハ城で見た鹿の谷が思い出されました。

シラー像

地図を頼りにゲーテ像へ向かいましたが、該当ポイントに像は見つからず、
近くの人に聞いても、シラー像前で会った大学生を引率している先生に聞いても分らずじまいでした。
Goetheの読み方が悪くて通じなかったのかもしれませんが・・・・。
右側の群像は車の行き交う広場中央にあった像の遠望で、群像名は不明です。
(→HKさんからグーテンベルクの活版印刷発明に因む群像らしいという情報をいただきました。)



10時になって、再びゲーテハウスへ行き、隣接したゲーテ博物館へ入りましたが、
内部を見学するには時間が足りませんでしたので、ミュージアム・ショップだけ覗いてみました。


 

ここで再び出会ったのがGinkgoでした。
ミュージアム・ショップの商品の多くがイチョウをモティーフにしているのを不思議に思い、
船に戻ってからO添乗員さんに尋ねると、
「先は二つに分かれていても元はひとつというゲーテの詩があるんですよ。」とのことでした。

    「イチョウの葉」    
東洋からやって来て、わたしの庭に植えられたイチョウの葉は
知恵ある者を喜ばす秘めた意味をもっているようです。
これはもともと一枚の葉が二つに分かれたのでしょうか。
それとも二枚の葉が互いに相手を見つけてひとつになったのでしょうか。

ゲーテの友人であるフランクフルトの銀行家ヨハン・ヤーコブ・フォン・ヴィレマーの若き夫人、
マリアンネ・フィン・ヴィレマーにイチョウの葉と共にこの詩を捧げたのは1817年、
ゲーテ66歳の時のことだったそうです。


 

ヘンケルのお店で小型ナイフや‘Stainless steel soap’という台所用の手のにおい消しなどをお土産に買い、
ユーロ圏の金融政策の元締め、欧州中央銀行本店前で写真を撮ったりしながら、帰路に着きました。


  

川沿いの公園にキリやカラタチなど東洋的な植物が植えられていて、少し不思議な印象を受けました。
寒さの厳しいアルプスの北の国でもキリは日本と同じように蕾の姿で来年の春の準備をしています。



少し余裕を持って11時に帰船し、気持のよいベンチに座って、俳句を創るMrs.Yさんや、
ドックでこすった跡をペンキで補修中のフランス号クルーの姿などをカメラに収めました。
92年に1泊したものの、通り過ぎただけのフランクフルトの街を歩くことが出来て、
ちょっとうれしく、楽しかった‘おまけ’の朝でした。




                  -SM-

11時半に船は出港し、マインツまで35kmの航行を始めました。
左は対岸のシュテーデル美術館へいらしたSMさんから届いたフランス号の全体写真です。
出航するとビル群はあっという間に遠ざかって行き、河畔には再びのんびりした田園風景が続きました。


  

ランチはロシアンスタイルの卵の前菜、鱈のアニスソース添え、シナモンアイスクリームとプラムのデザートで、
久し振りに魚がメインのメニューでした。


2時15分からH添乗員さんによる「ライン河とその周辺の歴史」講座が開催されました。

全長1320km、日本の本州より広い流域面積32万k㎡を持つライン河は6か国を貫流する国際河川で、
マインツ、トリーア、ケルン3聖職諸侯、プファルツ・ライン宮中伯、ザクセン、ブランデンブルク、
ボヘミア4世俗諸侯という神聖ローマ帝国の7選帝侯の中、4選帝侯の領邦がライン河流域にあったことからも、
ヨーロッパの歴史にいかに重要な位置を占めていたかということが分ります。
「30年戦争が終結した1648年の後ライン河が独仏の国境となりました。」というHさん講座が終わった3時過ぎに、
フランス号はマイン川とライン河が合流するマインツに到着しました。



合流点から少し下ったテオドール・ホイス橋の袂に停泊した船を4時前に下り、徒歩でマインツ旧市街へ向かい、
ライン河沿いの現代的な市庁舎ビルを抜けて、先ずグーテンベルク博物館へ行きました。



グーテンベルク博物館

世界で最も古い印刷博物館の一つであるグーテンベルク博物館は、
グーテンベルク生誕500年を記念して、1900年にマインツ市民によって設立され、
1927年には1664年建造の「神聖ローマ皇帝の館」へ移転、第2次大戦で爆撃を受けた後に修復され、
1962年のマインツ市2000年祭には現代的な建物を増築、さらに創立100周年にも拡張されて、
現在見られる充実した博物館へと発展していったそうです。
羅針盤、火薬とともにルネサンス3大発明とされる活版印刷を発明したグーテンベルクを
マインツがどれだけ誇りに思っているかを物語る博物館でした。



グーテンベルク(1400年頃-1468年)



金属加工職人であったグーテンベルクが活版印刷術を発明したのは1445年頃のことと言われています。
博物館内の地下に復元されたグーテンベルク工房で、
金属活字を木枠に固定して油性インクで印刷するプロセスの説明と実演が行われました。

その後、2階の展示でグーテンベルク工房で印刷された世界初の‘印刷された聖書’を見ました。
42行X2段で印刷されているため「42行聖書」と呼ばれる聖書は、
1452年から55年にかけて、6台の印刷機と20人ほどの手で印刷されたもので、
印刷された黒い文字に挿絵師によってカラーの装飾頭文字が施された美しいオリジナル本でした。
様々な時代の印刷機や印刷物が展示され、ゆっくり見ると多くの発見に出会えそうな博物館でした。



5時に同じ広場に面する大聖堂へ向かいました。
BC1Cにローマ人が軍事拠点としたモゴンティアクム(ケルトの光の神‘モゴン’に由来)に始まるマインツは、
8C半ばにボニファティウスがキリスト教化に貢献、
その後に続いた司教達によって大司教座がおかれて以来、ドイツの宗教の中心都市として君臨しますが、
1792年にフランス革命軍の進攻をおそれた選帝侯が逃亡し、連邦制が敷かれた後、
1802年に大司教の座を失い、1814年にはヘッセン国の支配下に入るという歴史を辿った街で、
現在はラインラント・プファルツ州の首都となっています。

975年に大司教ウィギリスによって造営が始められた聖マルティン&聖シュテファン大聖堂は、
11~2Cにドイツ王の戴冠式が7回行われたカイザードームで、
ロマネスク、ゴシック、バロックと様式を重ね、大聖堂と呼ばれるにふさわしい堂々とした姿を見せていました。
身廊中央祭壇にはマルティン像が置かれ、側廊には歴代司教の墓碑群などが見られましたが、
修復されたステンドグラスには新しい感覚も取り入れられているようでした。



マルクト広場

30分ほどの見学後、大聖堂北西に位置するマルクト広場で解散し、各自で船へ戻ることになりました。

  

適当に歩いている途中に出会ったH添乗員さんに教わり、立ち寄ったグーテンベルクが洗礼を受けた教会は
廃墟のように見えましたが、部分的には修復された様子も見え、
グーテンベルクが亡くなった1468年2月3日に住んでいたという右の写真の家も改装工事中でした。
川沿いのプラタナスの並木道をのんびりと歩いて、6時に船に戻りました。



            -SM-



フランス号は最後の寄港地ストラスブールへ向けて7時に出航しました。
左の写真はSMさんによるマインツの夕暮れ風景、右の写真は再び通過したマイン川との合流点です。


さよならカクテルパーティ

7時半からラウンジでさよならカクテルパーティが開かれました。
クルージングを支えて下さったクルーや添乗員さん達の1人1人に感謝を込めた拍手をおくり、
同じテーブルに座った旅仲間と記念撮影をした後、「乾杯!」のグラスを合わせました。






8時からのガラディナーはフォアグラのテリーヌ、仔牛のロース肉、チーズパイというお料理の後、
オーロラをイメージしたというフランべのデモンストレーション付きのベイクドアラスカをいただきました。
写真を見る度に名残り惜しさが思い出される最後の晩餐の様子です。


ゆっくりとした夕食の後、10時半からクルー・スタッフ達によるショーが行われ、
少し照れくさそうな姿もご愛敬の数々の出し物を見て、楽しいひと時を過ごしました。
一番愉快だったのは、ピンボケになってしまいましたが、2人袴のような出し物でした。
余興の発想には万国共通のものがあるようです。
フランス号はストラスブールまで204km、翌日の午後までライン河航行が続けられました。


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