[ホーム][目次][P3

23 Sept 2009
Praha
プラハ城とチェハ橋 ホテル・ヒルトン・プラハ

昨夜は早く就寝できましたので、5時半に起床しました。
時差には勝てず、目は何度も覚ましましたが、体調も上々に、旅が始まりました。
6時半に朝食を取った後、7時に散歩に出ると、1人で散歩中のMr.Yさんに出会い、
一瞬、不思議な感覚にとらわれました。
40数年になるお付き合いですが、学生時代の合宿を除くと、初めてご一緒する泊まり旅・・・・。
異国の街を早朝散歩するお互いの姿に一抹の感慨を覚えました。

ホテルから程近いヴルタヴァ川岸に出ると、朝もやの中にプラハ城の堂々とした姿が遠望出来ました。
ヴルタヴァ川(エルベ川支流、ドイツ語名モルダウ川)抜きには語れないプラハの景観です。
1時間ほど散歩をして、ホテルに戻り、9時に観光に出発しました。
2日間のプラハ案内のガイド歴11年の日本人男性ガイドのHさんから
この日のような秋の晴天をチェコでは「おばあさんの夏」と表現すると教わりました。

バスの車窓にマサリク駅、プラハ本駅、国立オペラ劇場、国立博物館、ヴァーツラフ広場などを見ながら
カレル広場を抜け、斬新なデザインのダンシングビル前を通ってイラーセク橋を渡り、
マラー・ストラナ(小地区)のレギー(軍団)橋近くで下車しました。

第2次世界大戦の被害をほとんど受けなかったプラハは、‘黄金の街プラハ’と呼ばれた14世紀半ば、
カレル4世時代の姿をとどめる古都で、1996年に京都と姉妹都市提携が結ばれたそうです。
ヴルタヴァ川左岸のプラハ城とフラチャニ地区・小地区、右岸の旧市街・新市街・ユダヤ人地区と
プラハの中心部は大きく5地区に分けられますが、
旧市街より早く街が出来た小地区は旧市街に比べて‘小さい’という意味で、
新市街は人口増対策のためのカレル4世の移住政策によって作られたそうです。
当時のプラハは人口4万人を擁し、ローマ、コンスタンティノープルに並ぶ大都市だったと言われています。


チェルトフカ川 カンパ美術館

レギー橋のたもとから、カンパ島に下り、歩いてプラハの観光が始まりました。
カンパ島で分流する流れがチェルトフカ川、悪魔の水路と呼ばれるのは、
この島に住んでいたゴシップ好きなおばあさんが悪魔のようだったことに由来し、
家々の間を川が流れる美しい景色は‘小さなヴェネツィア’とも呼ばれています。

マロニエ、プラタナス、菩提樹などの木立に包まれた公園の一角にあるカンパ美術館の横に
奇妙な姿をした3体の赤ちゃん像がありました。
これは‘人を驚かすことがコンセプト’というディビッド・チェルニーという作家によるもので、
プラハ東方に目立っていたTV塔にも同じ赤ちゃん像が取り付けられているそうです。


リヒテンシュタイン宮殿 カレル橋

2002年7月に天皇・皇后陛下が宿泊されたという迎賓館、リヒテンシュタイン宮殿の横から
ヴルタヴァ川べりに出て、カレル橋やスメタナ博物館、国民劇場などの景観を楽しみました。

‘野性的な水’という意味のヴルタヴァ川が時に引き起こす大洪水の記録を刻んだ建物もありました。
カレル橋の橋桁の前の聖牛のような構造物はボヘミアの森の奥から運ばれる氷塊除けで、
水を完全に遮断し、木杭(ヤシ)を打ち込んで地盤固めをして造成したカレル橋は
現在とほぼ同様の工法で造られたと言われています。




歴史あるカレル橋の最大の敵は冬季の凍結と融雪のために使う塩だそうです。
橋の南側半分は鉄パイプを組み、保護シートで覆い、大掛かりな補修工事を行なっていて、
観光客としてはちょっと残念なことでした。


カレル橋の上(マラー・ストラナ橋塔方面) 聖ヤン・ネポムツキー像

占星術によって135797531、つまり1357年9月7日5時31分に工事が開始されたというカレル橋は、
カレル4世の命によりP.パーラーの設計によって5年かけて造られた長さ515m、幅9.5mの石橋です。
かっては電車や車が通っていたという広い橋の上は格好の観光ポイントで、
土産物露店や路上パフォーマンスなどで賑わっていました。

建設当初は十字架だけだったと言われる橋に、カトリック強化のために伝説化された聖人像など、
30体の彫像(複製・オリジナルは国立博物館)が加えられて、独特の景観を作り出していました。
ヴァーツラフ4世と対立して1393年3月にカレル橋からヴルタヴァ川へ投げ込まれたという
高僧ヤン・ネポムツキー(英語読みでヨハネ・ネポムク)像が最古の彫像で、
「触れると幸運がもたらされる」部分が金色に輝いていました。
投げ込まれた時、5つの星が天に昇って、ネポムツキーの昇天を祝福したそうで、
中欧では彼の像を守護聖人として使っている橋が多いようです。
東洋人の伝道僧を従えているといわれるフランシスコ・ザビエル像は、
工事パイプの隙間から、それらしきまげ姿の像を辛うじて確認することができました。



成田ヴァーツラフ4世のシンボル‘カワセミ’

カレル4世・聖ヴィート・ヴァーツラフ4世
旧市街橋塔

橋を渡り、旧市街側から橋塔を見上げると、カレル4世とヴァーツラフ4世の国王父子像(複製)が
チェコで崇拝されている聖ヴィートをはさんだ姿で見下ろしている彫像がありました。
「この像から王冠と宝珠を取り除いたならば、まるで靴屋が靴を木型にはめているところのようだ」と
高名なドイツ人歴史学者から評されている父王カレル像です。(「物語 チェコの歴史」薩摩秀登著・中公新書)


     

14世紀には親しみやすい賢王として表現されたらしいカレル4世も、
すぐ側の聖フランシスコ教会十字架会士広場にカロリヌム(後述)500周年記念として
ネオ・ゴシック様式で作られた像にはしっかりと威厳が加えられているようでした。



クレメンティウム
カロリヌム500周年記念カレル4世像

新市庁舎
天文塔

旧市街のカレル橋前のクレメンティウムは、フェルディナント1世が勢力を増すフス派に対するために
イエズス会をプラハに招いて1556年に創建した修道院を始まりとして、
ハプスブルク家の擁護の元、2haもの敷地の中に教会3つ、礼拝堂、図書館、天文台などを次々と建築、
プラハ城に次いで大きな総合建築となっていったもので、
現在は国立図書館、国立技術図書館として使われています。

クレメンティウムを抜け、しばしば水が氾濫するために‘水たまり’と呼ばれたマリアーンスケー広場に出ると、
アール・ヌーボー彫刻のバルコニーを持つ1911年に建てられた新市庁舎がありました。


天文時計 旧市庁舎

10時40分ごろ、旧市街広場に到着しました。
旧市庁舎塔にふたつ設置された円形の物は、上がプラネタリウムと呼ばれる天文時計で
時刻だけでなく、太陽や月など天体の動きまで示す仕組みになっていて、
下は農作業を表わす四季の暦でカレンダリウムと呼ばれています。




プラネタリウムの左側にはナルシスト(ヨーロッパ貴族?)と守銭奴(ユダヤ人?)、
右側に異教徒(トルコ人?)と死神の人形が取り付けられていて、
死神が1時間毎にロープを引っ張ると、塔の上の小さな窓からキリスト教12使徒が1人ずつ顔をのぞかせ、
最後にその上の金の鶏がひと声鳴くという仕掛けになっています。

11時近くなると大勢の人が集まって来て、プラネタリウムの仕掛け時計を見上げました。
「見終わって出るのは溜息です」というHガイドさんの予言?通りの展開だったかもしれませんが、
名所は名所として単純に楽しむという心掛けがよろしいようで!?



エステート劇場
カロリヌム

溜息をついてから?16Cにチェコ語の聖書印刷などに貢献した印刷業者に因むメラントリフ通り、
ドイツ人が入植したというハベル通りを抜け、ナ・プシーコシュ通り(旧市街を囲んでいた堀の上の意)に出て、
ヴァーツラフ広場を眺めてからエステート劇場へ向いました。
1783年にノスティツ伯爵によって建てられた後、1789年に所有者が変わり、
スタヴォフスケー劇場(英語名エステート劇場)と呼ばれるようになったこの劇場では、
1783年にモーツアルトの「フィガロの結婚」が上演されて大成功を収めたそうです。
1787年のチェコ初旅行以来、熱狂的な歓迎を受けたプラハでモーツアルトが作曲したのが、
交響曲「プラハ」や「ドン・ジョバンニ」と言われています。
又、長野オリンピックでロシアを破って優勝したアイスホッケー・チームを讃えて作られた
オペラ「NAGANO」が2000年に大ヒットしたそうです。

エステート劇場の北側のカロリヌムは1348年にカレル4世が創設した神聖ローマ帝国最古の大学です。
今はカレル大学の本部となっていますが、当時の様子を留めているのは、
カレル橋、旧市庁舎塔の出窓と同じP・パーラー設計によるゴシック様式の大きな出窓だけとなっています。



ヤン・フス像
ティーン教会

再び9月28日のヴァーツラフの日(暗殺された日)のお祭りの出店で賑わう 旧市街広場に戻り、
2本の尖塔がアダムとイブを表すというティーン教会や
宗教改革の先駆者としてカトリック教会の腐敗、世俗化を批判し、
異端者として1415年に火あぶりの刑に処せられたチェコの英雄ヤン・フス像などの説明を受けました。
像の台座に「真実を愛し、真実を語り、真実を守れ」と書かれているというヤン・フスの視線は、
ティーン教会の聖母マリア像に向けられていると言われますが・・・・?



火薬塔前

その後、ツェレトナー通りからランチ・レストランのある市民会館へ向かいました。
1475年に造られた旧市街を守る城壁門が17Cに火薬倉庫として使われたため、
火薬塔と呼ばれるようになった高さ65mの塔の下に4人並んで記念撮影をしました。
2ユーロの通行税(=写真チップ)を払って、門を通り抜けると、市民会館の正面に出ました。



宮廷があった場所にチェコ市民の社交場としてアールヌーボー様式で1911年に建てられた市民会館は、
1918年のチェコスロヴァキアの独立の時に歴史的な場所となっています。
正面入り口の半円形の「プラハより敬意をこめて」というK・シュピラル作のモザイクは修復中で
ネット越しにしか見られなかったのは残念でした。


  

地下のビアホールでのランチ・メニューはプラハ・ハム、ロースト・ポーク、アイスクリームでした。
ロースト・ポークのつけ合わせはクネドゥリーキというチェコ名物の蒸しパンとキャベツの酢漬けです。
それに当然、ビールを付け合わせた人が沢山いたようです。


 
国立博物館とヴァ−ツラフ騎馬像 ヴァーツラフ広場

1時半にフリータイムになり、ナ・プシーコシュ通りを歩いて、ヴァーツラフ広場へ向かいました。
ワルシャワ機構軍が侵攻して、‘プラハの春’を押しつぶしてしまった1968年、
共産党体制が崩壊したビロード革命の1989年に歴史的な舞台となったヴァーツラフ広場は、
長さ750m、幅60m、広場というより大通りに近く、昔は馬市場があった場所だそうです。
「武器ではなく私自身のたいまつをもって人々の心に火をつけたい」と
1969年に相次いで焼身自殺をしたヤン・パラフとヤン・ザイーツという2人の若者が望んだ方向へと
社会情勢は舵取りをしているのでしょうか。

ビロード革命から20年経った今年4月に「核なき世界」の実現を謳う「プラハ演説」を行ったオバマ米大統領に
10月9日に期待を込めたノーベル平和賞が贈られました。
‘チェンジ’の21世紀となりますように!

レオポルト門 聖マルチン教会 円形塔

博物館前から地下鉄に乗って、ヴィシェフラト(高い城)へ向かいました。
このフリータイムをどう過ごすか、Mrs.Yさんと何度かメールをやり取りして、情報ソースは違いながら、
意見の一致を見たのが、チェコ最初の王位が置かれたという伝説の地ヴィシェフラトでした。
短時間のフリータイムで、プラハ制覇感!?を得られる場所はここしかないと思ったのですが、
地下鉄のチケット購入、ガイドブックの地図に4人で悩みながら到着したヴィシェフラトは
想像していたよりはるかに整備された公園になっていました。

それでもプラハ最古のロマネスク建築のひとつと言われる聖マルチン教会のロトゥンダ(円形塔)や
カレル4世時代の要塞を見つけながらの散策は、プラハ中心地からほんの地下鉄2駅ながら、
街中とは違う郊外散策の気持ち良さを感じることが出来ました。
スメタナの「わが祖国」の第1曲「ヴィシェフラト」が頭の中を流れる程に聴き込んでくれば、
楽しさが倍増していたかも分りません。



聖ペテロと聖パウロ教会

ヴィシェフラトのランドマークとしてカレル橋などからも見える双塔を持つ聖ペテロと聖パウロ教会は、
11C後半にヴラティスラフ2世によって建造されたのが始まりで、
後にネオ・ゴシックに改修され、双塔が加えられたのは1902年のことだそうです。
「地球・街角ガイド PRAHA」(同朋舎出版)には12C初期の「聖ロンギヌスの石棺」と
14C中期の「雨の聖母マリア」の板絵をぜひ見るようにと書いてあり、
探し当てることはできましたが、コピーであったせいか有り難さの?欠ける板絵でした。


スメタナの墓 ドボルザーク記念碑

公園墓地
プシェミスルとリブシェ王女

聖ペテロと聖パウロ教会の横手に広がる墓地にはスメタナの墓やドボルザークの記念碑がありました。
この神聖なる場所でゲームのようにお墓探しを楽しんだことを
手遅れかもしれませんが、写真の前で謝罪しておきましょう・・・・。

墓地を出て、ベビーカーを押して散歩をしている女性達や若者のグループが目立つ公園へ行くと、
J・ミスルベク作「プシェミスルとリブシェ王女」の像がありました。
リブシェ王女はこの地でプラハの未来を予言したと言われています。


公園の下方に「リブシェ王女沐浴場」と呼ばれる廃墟を見つけることも出来ました。
ヴルタヴァ川やプラハの街の美しいパノラマも堪能して、
1時間半ほどをヴィシェフラトで過ごした後、ヴルタヴァ川方面に下り、市電で旧市街へ向かいました。


ルドルフィヌム 旧市街広場に面したオープン・カフェ

多方面へ市電が走っていることに気づかず、最初に来た電車に誤って乗ってしまい、
焦って下車、ヴルタヴァ川左岸から右岸へ歩いて戻り、乗り直しというハプニングがあったり、
「日本は素晴らしい国。技術も歌舞伎も素晴らしい」と電車の中で話しかけてきた若いチェコ人男性が
ルドルフィヌム(芸術家の家)前で市電から降りた時、申し出てくれた案内を断るのに一苦労しながら、
(今だに親切だったのか、他の思惑があったのか分りませんが、分れる時の悲しそうな表情を思い出します。)
旧市街広場に戻り、カフェでひと休みをしました。

プラハ交響楽団の本拠地で、プラハ音楽祭のメイン会場でもあるルドルフィヌム前の広場は、
「ヤン・パラフ広場と改称され、焼身自殺をしたヤンの義挙をたたえ、民族の歴史にその名をとどめている」そうです。 
                          (「プラハの春」春江一也著・集英社文庫)成田


ティーン教会 聖ミクラーシュ教会

4時半ごろ買物に行くY夫妻と分れ、私達は旧市庁舎塔の展望台までエレベーターで昇り、
「百塔の街」「建築物博物館」と称えられる120万都市の景観を楽しみました。
高い所から見る景色もまた格別です。


旧新シナゴーグ カフカ像

5時15分に再びY夫妻と合流して、ユダヤ人街を通って、帰途につきました。
1890年代に取り壊されたというヨーロッパ最大のゲットー地区に歴史のかけらを求め、
特徴的なシナゴーグの外観だけをカメラに収めました。
高級ブティックが並ぶパリ通りには不思議なカフカの像が置かれていました。
裕福なユダヤ人家庭に生まれ、ユダヤ人からも敵視されることがあったというカフカの孤独や不安を
象徴しているのでしょうか、カフカ文学と同様に様々な解釈が出来そうな彫像でした。



アネシュカ修道院

最後にユダヤ人地区の東端に位置するアネシュカ修道院へ寄りました。
現在は国立美術館となっている修道院には人影がなく、時間もありませんでしたので、
入口から少し中庭を覗いただけとなりました。
女子修道院院長としてプシェミスル王家の繁栄を支えたアネシュカ(1211年生まれ)は
1989年にパウロ2世法王によって聖列に加えられたそうです。
キリスト教界には計り知れない特別な時空が存在しているようですね。
「チェコという国家がヨーロッパの中にしっかりとその地位を確立していった背景には、
生涯を宗教者として過ごした一人の女性の努力があったのである。」と薩摩秀登氏は書いています。

広大な敷地を持つアネシュカ修道院からヴルタヴァ川沿いの道に出ると、
ホテルまでは20分ほどの距離だと思えましたが、
6時も近くなっていましたので、歩くのを断念し、タクシーを拾ってホテルへ戻りました。




ホテル・レストランでの7時からの夕食は鶏と野菜のスープ、サーモン・ステーキ、ケーキのメニューでした。
この日から、Y夫妻とシェアしてワイン・ボトルを開けることが定番となりました。

目次][P3