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24 Sept 2009
     Praha~Tábor~České Budĕjovice~Český Krumlov    

朝8時半にホテル・ロビーに集合して、プラハ城観光へ向かいました。
プラハ城北側でバスを降り、ルドルフ2世が鹿を放し飼いをしていた天然の要害‘鹿の谷’の火薬橋を渡り、
(その鹿はオーストリア継承戦争の時にフランス、プロイセン軍が食べてしまったそうです。)
第2中庭へ入りました。

オバマ米大統領が演説をしたフラッチャニ広場から(‘プラハ演説’は‘フラッチャニ演説’とも呼ばれます)
正門を通って入場しなかったのはバス駐車の都合だったのでしょうか、
95年には通りましたが、もう一度見てみたかったフラッチャニ広場とプラハ城正門でした。
(追記:プラハのHガイドさんから「長時間並ぶリスクを避けたかったからです。」とメールをいただきました。)


衛兵交代 コール噴水

第2中庭へ入った所で、ちょうど交代に向かう衛兵達に出会いました。
大統領官邸の警備を27人で24時間体制で担う軍隊のエリート達は
厳しい条件で選ばれて、入隊して3ヶ月間は歩き方に至るまでまで厳しく叩き込まれます。




聖ヴィート大聖堂 西面ファサード 扉のレリーフ

第3の中庭に入ると、目の前に聖ヴィート大聖堂の西面ファサードがそびえ立っていました。
プラハの古い建物に黒ずみが目立つのはドレスデン近くの鉄分を多く含んだ砂岩で作られているためで、
修複の時は洗浄ではなく、削り落しが行われるそうです。

チェコ北部のスタジツェに住んでいた農夫プシェミスルとプラハのリブシェ女王が結婚したという伝説を持つ
チェコ最初の王朝プシェミスル家ではボジヴォイが実在が確認できる最初の人物で、
その孫がチェコ最初の聖人として崇拝される聖ヴァーツラフと言われています。
ボジヴォイが拠点としたフラッチャニの丘にヴァーツラフが929年に創建したロトゥンダを原型として、
カレル4世が14Cに築いたのが聖ヴィート大聖堂(正式名:聖ヴィート聖ヴァ-ツラフ聖ヴォルチェフ大聖堂)で、
ゴシック、ルネサンス、バロックと様式を重ね、20Cに入ってから最終的に完成しています。

聖ヴァーツラフが聖ヴィート(ディオクレティアヌス時代の3Cに殉教したザクセン地方の聖人)の左腕の骨を
ドイツ王ハインリッヒ1世から受け取る儀式、
プラハを大司教座が置かれるまでに発展させたカレル4世に聖ヴァーツラフの棺を託す儀式のレリーフが
入口扉に飾られていました。
聖遺物の箱の下の鷲はヴァーツラフ、ライオンはボヘミアの紋章とされています。



聖ヴィート大聖堂の内陣は高さ33m、幅60m、奥行き124mで、
P・パーラー設計によるゴシック式ヴォールト天井が見事で、崇高な印象を与えていました。
天地創造の場面が描かれた西面のバラ窓は27000ピースのステンドグラスで、直径は10mあります。




「聖キリルと聖メトディオス」 アルフォンス・ミュシャ作

20Cのステンドグラスの傑作が集められているといわれる大聖堂で、最も秀逸だと言われるのが
アルフォンス・ミュシャ作の「聖キリルと聖メトディオス」です。
兄弟であるキリルとメトディオスはスラブ語でキリスト教を布教する任務でテサロニキからモラヴィアへ派遣された
聖職者で、黒い僧服姿がキリル、はだか姿のボジヴォイに洗礼を与えているのがメトディオスで、
白いマフラーの女性はボジヴォイの妻、赤い服の少年が孫のヴァーツラフです。
最下段の枠内には‘BANKA SLAVIE’とスポンサー銀行の名前が大きく入っていました。
教会のステンドグラスといっても歴史や宗教でなく、脈を計る、棺桶に入る、温かいスープを飲むなど、
医療、死亡、災害の保険会社などの企業広告の絵柄がある所が現代的?でした。




「チェスキー・クルムロフへ行くなら」とHガイドさんから教わったのが、
カラスがトルコ人の頭を突っついているシュヴァルツェンベルク家の紋章です。
今もウィーンに名前を残す名門貴族が、トルコのウィーン包囲時に活躍したことに因むのでしょうか、
メッセージをストレートに伝えるユニークな紋章でした。
時間をかけてゆっくり絵解きをしたら、もう少しチェコの歴史通になれそうなステンドグラスの数々でした。


聖ヴァーツラフ礼拝堂

聖ヴァーツラフ礼拝堂には小学生の見学者がいましたが、ヴァーツラフの遺骨と王冠をおさめた礼拝堂は
重要な儀式のために使われ、許可なしには入ることができないようで、
入口の人垣の間から一面に装飾が施されたきらびやかな内部を覗き見しました。
今でも宝物庫は?7人の要人がそれぞれ持っている鍵が揃わないと開けることが出来ないそうです。

26日にローマ法王のミサが行われるということで、調律中のパイプオルガンが響く中で
主祭壇や2トンもの純銀が使われているというヤン・ネポムツキーの墓、ボヘミア知事の墓などを見学しました。


聖ヴィート大聖堂 南面 黄金の門

聖ヴィート大聖堂の中でP・ペーターによって建てられたのは内陣と
大きな塔と最後の審判の場面を金色のモザイクで描いた‘黄金の門’を持つ南側で、
これらによって通常は正面となる西側より、南側が重要な構造となっているのは、
王宮と向かい合っていることと共に、
プラハ市内から見た視覚効果を入れた設計となっているのではないかと言われています。

 

南塔に付けられた時計には文字盤がふたつあり、長針と短針とに分れていました。
全景写真では判別できませんが、塔のてっぺんにあるボヘミアの象徴の風見ライオン?が3mといえば、
高さ96mという南塔の規模を想像していただけるかもしれませんね。


大統領官邸 聖イジー修道院

大聖堂と大統領官邸が向きあう広場を抜けて、旧王宮の中へ入りましたが、
予備バッテリーを手荷物にするのをうっかり忘れ、自身のカメラが使えなくなりましたし、
有料の室内撮影を夫に頼むほどでもないかと王宮のビジュアル・レポートは省略となってしまいました。

旧王宮は16Cまで歴代王家の居城として使われた後、18Cまでは国会が置かれ、
1934年からは大統領選挙が行われています。
ロマネスク、ゴシック、ルネサンスと3つの時代様式が複層になった王宮内で重要な位置をしめる
ヴラディスラフ・ホールと聖ヴァーツラフの王冠(複製)や5人ハプスブルグ皇帝の肖像画が飾られた
王宮議会場を見学しました。
馬上競技や議会を開催したというヴラディウス・ホールは16C建造当時、中欧最大の規模を持ち、
見事なリブ・ヴォールトの天井や騎乗のまま上ることが出来る幅が広く勾配の緩やかな階段が特徴的でした。
ホールの床は1791年のレオポルト2世の戴冠式のパーティに合わせて石から板張りに替え、
モーツァルトはこの戴冠式を記念してオペラ「皇帝ティートの慈悲」を作曲しています。
万聖礼拝堂や30年戦争の発端となった‘窓外投出事件’の舞台のボヘミア官庁の見学は割愛されたようです。

ボヘミア初の女子修道院として973年に建てられ、現在は国立美術館になっている
聖イジー(英語名:ジョージ)修道院の脇から、‘黄金の小路’へ向かいました。


黄金の小路

ウィーンからプラハに都を移したルドルフ2世が錬金術師を住まわせて趣味に没頭していた、
王宮に勤める警備兵たちの住居だった、金細工師など職人が住んでいたなど諸説ある‘黄金の小路’は
1800年代以降はアパートとして貸し出されていた家が軒を並べる小さな通りです。



「ウェルトゥムヌス(=植物の神)としてのルドルフ2世」(在位1576-1612)

錬金術、占星術、美術品蒐集などに没頭し、弟のマティアスに王権を奪われたルドルフ2世の奇人振りは、
アルチンボルトに描かせた宮廷肖像画に端的に表れていますが、
この絵は国王を「四季の王」と見立て、賛美したものと言われています。
ブルーの22番の家にはカフカが仕事場として妹と共に短期間住んでいたそうです。



ぶれない姿勢の衛兵とお決まりの!?記念撮影をして、2時間ほど観光をしたプラハ城を後にしました。
ヴルタヴァ川をはさむ旧市街と小地区

プラハの街の景色をもう一度楽しみながら、旧登城道を下りました。
まだまだ見足りないプラハに心を残しながらも、日程は充分にこなしたという充足感とともに
10時45分頃、バスで南方約80kmのターボルへ向かいました。



 

ターボル旧市街の地図と城壁門

ボヘミアの丘陵地帯を1時間半余りバスを走らせて、ターボルに到着した後、
先ず、新市街のホテルのレストランで腹ごしらをしました。


  

サラダとグヤーシュ(ハンガリー料理?)、アップルパイというランチ・メニューでした。
使い勝手の違う夫のカメラで、クネドゥリーキに焦点を合わせたため、
訳の分からない写真になってしまったグヤーシュは牛肉を煮込んだお料理です。
大抵このような3コースというのがツアーの食事でしたが、
必ず付いていたデザートが素朴で美味しかったという印象が残っています。



ジシュカ広場

ターボルは教会改革運動のヤン・フスが火炙りに処せられた後、フスの教えを信奉する民衆や農民が
‘フス派’運動を繰り広げた街で、街名はパレスチナのヨルダン川近くの山に由来すると言われ、
スメタナの「わが祖国」の第5曲「ターボル」はフス派の歌をモチーフに作られています。

東西500m、南北400mほどの小さな旧市街のまんなかに軍人指導者に因むジシュカ広場がありました。
機械工業国と言われるチェコ人のこだわりでしょうか、プラハでもいろいろな時計を見ましたが、
この広場の塔の時計も24まで数字が刻まれているものでした。
小さな街に相応しい小さな教会に入ったり、漆喰装飾が美しい建物を眺めたり、
ジシュカ広場のまわりでのんびりとした午後のひと時を過ごしました。



高台にある城壁からブルタヴァ川の支流ルジェニツェ川の眺望を楽しんだ後、
2時40分頃バスに乗り、更に南下して、チェスケ・ブディヨヴィツェの街へ向かいました。


プシェミスル・オタカル2世広場 1731年建造の市庁舎

プシェミスル・オタカル2世(ヴァーツラフ1世の息子でアネシュカの甥)が1265年に建設した都市が
チェスケ・ブディヨヴィツェです。
16Cには塩や銀の集積所、醸造業などで最盛期を迎えた街は、17Cの30年戦争や大火災で衰退、
19Cに入ってヨーロッパ初の鉄道馬車軌道が敷設され、
オーストリアのリンツと結ばれたことによって交通の要所として復興しています。



この街のヴディヨヴィツキー・ブドヴァルというビールはドイツ語でヴドヴァイザー・ブドヴァルと読み、
ドイツ系移民がアメリカで作ったビール‘バドワイザー’の名称のルーツとなっています。
ビール老舗の元醸造所の居酒屋へ行って、ビール休憩を取りました。



小1時間のバスストップの街・・・・とビールを飲んで、のんびり写真を撮って過ごしていた4人組ですが、
このHPがちょうどチェスケ・ブディヨヴィツェまで到達した今日(10月21日)、
仙台のHKさんから「Hさんが撮っておられない写真をお送りします。」(飲みに走ったことがばればれ?)と
オタカル2世広場のほど近くにある黒塔の展望台からの写真が届きました。



                    -HK-

高さ72.29mの黒塔と高さ45.67mの塔の展望台からの俯瞰写真です。
チェコで最も広い1辺133mのオタカル2世広場の美しさによって保存都市指定を受けている街を
もっとよく見ておくべきだったと思っても後のまつりですが、
HKさんのお陰で、見てこなかった角度から街を見ることが出来てうれしい限りです。



チェスケ・ブディヨヴィツェから22kmほどのチェスキー・クルムロフの街に5時半ごろ到着しました。
クルムロフ城の近くに位置する小さなホテルの部屋からの街の眺めも愛らしく、
明日の1日滞在への期待が高まる夕刻でした。


  

夕食前に今回のツアー仲間の自己紹介タイムが持たれました。
夫婦9組、女性2人組、個人参加の男性1人、女性3人と、入社4年目で主にクルーズ・ツアーを担当している
元気はつらつのO添乗員さんの計25名が今回の旅仲間となりました。

スープとハーブチキンとチョコレートの夕食時は、自己紹介の後とあって、
いっそう和やかな空気が流れているようでした。
(その余り?うっかりフォークを入れてしまったケーキ写真が見苦しくてスミマセン。)


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