ホーム][目次][P6

26 Sept 2009
 Český Krumlov~Passau   

朝食後、出発までに1時間ありましたので、昨夜になってガイドブックに出ていたのを思い出した
バロック劇場の外観だけでも見ておこうと、もう一度お城へ出掛けました。
荷造りをしている時に軽い腰痛を起こした夫は、又もや、散歩はパスとなりました。
朝もやに包まれた7時半頃のお城は、掃除をする人をたまに見かける位でほとんど人影がなく、
一人で歩くのに不安を感じましたが、入口の地図で位置を確認して、急ぎ足で劇場へ向かいました。


 

屋根付き橋を渡りきった右手に小さな案内プレートと扉がありましたが、
お城の中から直接2階の渡り廊下を通って行くのが正式な入口となっているようです。
1680年に建てられた劇場をシュヴァルツェンベルク家のヨゼフ・アダムが
1765年に素晴らしいバロック劇場に改築したそうですが、
外観は隣接している建物と同じルネサンス様式のシンプルなものでした。
よく調べれば、内部が見られるツアーがあったのかもしれないとちょっと心を残してしまいました。



8時半にホテルを出発して、歩いてバスの駐車場へ行きました。
大型車がホテルに横づけ出来ないのは中世の街並みを残しているからこそですが、
重いスーツケースをホテルがバスまで運んでおいてくれる所はパッケージツアーのありがたさです。
右の建物は1500年頃、砦の一部として建てられ、砦を取り壊した後、住宅として利用され、
現在一つだけ残っている円筒稜堡だそうです。


9時50分にチェコを抜けてドイツに入りました。
国境越えにどれだけ時間がかかるかは運任せという状況が、1995年ですら存在したことが嘘のように、
バスは使われなくなった国境検査の建物の側をスピードを落とすこともなく通過していきました。
それでもドイツに入ると人の手が行き届いた穏やかな景色が増えたという印象を受けたのは、
もしかしたら東西の体制が違う時代の名残りかもしれないと思われました。



左上 オーバーハウス城砦

10時40分過ぎにパッサウに到着しました。
2006年秋にブダペストからドナウ河を上り、下船した場所の近くでバスを降り、
見覚えのあるオーバーハウス城砦(13Cの司教領主の館)などの景色をカメラに収めました。
その後、ドナウとイン川に挟まれた三角地帯にある旧市街を2時間ほど歩いて観光をしました。


  

旧市街の石畳の小路を歩くと、洪水の水位標を取り付けた川辺の街特有の建物が見られました。
2002年8月の洪水はプラハやチェスキー・クルムロフと同様にドナウ沿岸にも甚大な被害を及ぼしたようです。
右側のハート・マークは「もうすぐオクトーバ・フェスタ!新ビールが飲めるよ!」という印だそうです。


市庁舎尖塔 サンミッシェル教会

先史時代からの歴史を持つパッサウの地名は古代ローマ時代の要塞‘バタビス’に由来しています。
ドナウ、イン、イルツという3つの川の合流点に位置することによって、
商業的に発展すると共に、東方への防備、キリスト教布教の重要な拠点ともなったパッサウの街は
17C後半の2度の大火によって、イタリア・バロックの街に生まれ変わったと言われます。
小路の間に見え隠れする市庁舎尖塔や典型的なイタリア・バロックのサンミッシェル教会などを見ました。



ガイドさんの案内で抜け道を通って、アルプスを源流とするので水が青いと言われるイン川に出ると、
オーストリア側の対岸に325段の階段を修行のため膝で上ったと言われる
マリアヒルフ巡礼教会が遠望出来ました。(逆光が残念!)

今回は立ち寄りませんでしたが、サンミッシェル教会近くのニーデルンブルク修道院は、
ハンガリーのヴァイク公、後に国王の地位を得た聖イシュトヴァーン(=シュテファン)の王妃ギーゼラが
夫の死後、僧院長を務めた修道院で、今もお墓が残っているそうです。
ギーゼラ王妃はこれから訪れる街で登場する神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ2世の妹にあたり、
実体を把握するのが難しい神聖ローマ帝国も、支配圏の広さだけは理解することができるようです。

ヴァイク公に洗礼を与えたパッサウ司教ピルグリムは、ゲーテの「ファウスト」と並び、
ドイツの2大叙事詩と言われる「ニーベルンゲンの歌」にも出て来る人物で、
パッサウがキリスト教史上いかに重要な位置を占めていたかということが分ります。
作者は‘パッサウの人’としか知られていない「ニーベルンゲンの歌」は岩波文庫に入っていますが、
遠い昔に受講した筈の訳者の相良守峯氏のドイツ文学史を今お聴きすることが出来たら・・・!と思います。

カレル4世の14Cにプラハ、フリードリッヒ3世の15Cにウィーンが独立した司教座を得たことによって、
パッサウの支配力は次第に衰えていきましたが、1552年に締結されたパッサウ協定は、
ルター派をキリスト教の正式な宗派として認めた1555年のアウグルブルク宗教和議の
基となったと言われています。



新レジデンツ

街の中に戻り、18Cに建てられた新レジデンツに入り、美しい古い写本が飾られた図書館や、
宝物が飾られた部屋を見学しましたが、支配力を落としたと言っても、なかなかの財力だと見受けられました。
モーツアルトは5~6歳の頃、このレジデンツで行ったピアノ演奏がうまくいかなかった為、
パッサウの街を余り好まなかったようです。


隣接する聖シュテファン大聖堂を見下ろせる部屋が新レジデンスの中にありました。
ちょうどミサが行われていて、世界最大17388本のパイプを持つオルガンの響きを聞く幸運に恵まれました。


  

15C初めに基礎が置かれ、1618年からバロックに改造された大聖堂は見事に装飾され、
荘厳な美しさを見せていましたが、よく見ると、高い柱の上から手を振る天使がいました。
デザイナーのウィットある仕掛けで親しみを誘っているのでしょうか。



ドイツ最初のランチはじゃがいものスープ、サラダ、鱒のグリル、チェリー・ケーキでした。
これは日本人ツアー向けのメニューで、レストラン厨房で用意されているお料理のボリュームを見ると、
オクトーバ・フェスタで飲んで、食べて・・・・地元の人達が恐ろしいお腹周りになるのは必至と見受けられました。



新市街

レストランの入口にはお誘いのように?ビール瓶詰め機が置かれていました。
昼食後、新市街のレストランの近くまで出迎えに来たバスに乗って、フランス号が待つ河岸へ向かいました。



 
フランス号 市庁舎

2時半過ぎに乗船すると、まもなくフランス号はレーゲンスブルクへ向けて航行を始めました。
川から見るパッサウの景色にはまた格別の趣きがありましたし、
河岸から手を振って見送ってくれる人達もいて、とても気持ちの良い出航の情景でした。



停泊中の船、行き交う船で、賑わいを見せているパッサウを出航、
旅の前哨戦を楽しく元気に終えることが出来た安堵感と本番への期待をのせて、
7泊8日のクルーズがスタートしました。



2001年ベルギー生まれのMs.France号(MsというのはMotor Shipの意味だそうです)は
長さ110m幅11m160人乗りのフランス・クロワジー社の河船です。
15㎡の船室はホテルに比べると格段に狭く、簡素な造りになっていましたが、
クローゼットに荷物を納めれば、それ程の問題もなく船生活を過ごすことが出来そうだと、
せっせと巣作りにはげんだ午後でした。
「PLEASE KEEP THE ENVIRONMENT IN MIND」とシャワー室にシールが貼ってあり、
エコ(ロジー)&エコ(ノミー)なクルーズということになりそうです。



4時半にラウンジに集合して、オリエンテーションが行われました。
今回のツアーは夏の観光シーズンにウィーン~ブダペスト間を往復するフランス号が
ストラスブールへ戻る回航を利用したW航空のチャーター企画で、
日本人乗客118名を7人の添乗員さんが担当するというものでした。
私達のチェコから入ったグループ、ストラスブールで下船後、アルザスや黒い森へ足を延ばすグループ、
河の船旅だけの4つのコースに分かれた7グループがここで大集合したことになります。
名古屋、大阪、福岡からのグループが合流して、郷土色豊かな?船内となりました。
添乗員さん達のご挨拶は7人7様で楽しいものでした。

右の写真は6時半に再びラウンジに集合して行われた法律で定められた安全講習の様子で、
私達のグループのO添乗員さんがデモンストレーションをしている所です。



安全講習が終わった後、‘ドナウ河のさざなみ’の音楽とともに、ウエルカム・カクテル・パーティが始まり、
フランス号の27名のクルー・スタッフが紹介されました。
厳しい採用試験を通りぬけたというドイツ、オーストリア、ハンガリーなど多国籍なスタッフ達でした。


  

サラダ&ミートパイ、アルザス風チキン、チェリーケーキが初ディナー・メニューでした。
飲み物は予めドリンク・カードを購入し、折々、清算するシステムになっています。
夕食ごとにY夫妻とワインボトルをシェアしたカードのトータルは最後にお伝えすることにしますが、
クルーズ船の割にはリーズナブルなワインを揃えていたエコなフランス号でした。


目次][P6