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27 Sept 2009
  Regensburug〜Kelheim〜Rhein-Main-Donau tour  

水位低下のため速度を落し、予定より2時間遅れて朝7時前にレーゲンスブルクに到着しました。
パッサウからの153kmを16時間かけたというスロー旅です
予定では暗闇の中だからと見るのを諦めていた10km下流のルードヴィッヒ1世建築のヴァルハラ神殿を
もしかしたら見ることができたかもしれないと思いましたが、
計算すると6時より早く、日の出前でしたから、どっちみち無理であったことが分りました。



9時からグループ毎に旧市街の徒歩観光へ向かいました。
私達のグループにはガイドさんの他、レーゲンスブルク独日協会会長アインヘレさんも同行して下さいました。
(O添乗員さん父上とのご縁で?レーゲスブルクと旭川市は姉妹都市となったそうです。)
停泊中のクルーズ船の中に2度乗ったことがあるセレナーデ号の姉妹船を見つけて懐しい思いがしました。


カストラ・レギーナ ポルタ・プレトリア側塔

レーゲンスブルクの歴史はBC4〜5Cに中央ヨーロッパを支配したケルト人の時代まで遡ることが出来ますが、
その後、古代ローマ時代にマルクス・アウレリウス帝(在位:161−180)が築き、
街名の由来ともなった城砦‘カストラ・レギーナ’が今も残っています。
大きな切り石で築かれた北門‘ポルタ・プレトリア’は旧司教館の壁の一部として使われ、
高さ11mの側塔が古代ローマ帝国の駐屯地の規模の大きさを誇示しているかのようです。
ドナウ河が天然の要塞の役目を持ったため、城砦の囲壁は比較的低く、高さ8mほどだったそうです。

第2次世界大戦でも被害を受けず、中世の街が良く保存されているレーゲンスブルクは、
人口15万人の中、学生が2万人というドナウ圏屈指の文化都市で、
神聖ローマ帝国が消滅して200年後にあたる2006年に世界文化遺産に登録されています。
              (「ドナウの古都レーゲンスブルク」木村直司著 NTT出版)


739年に司教区が創設されたレーゲンスブルクに聖ペーター教会を前身とする聖ペーター大聖堂の
建設が始まったのは1275年のことで、以来1634年まで様々な建築師によって工事が続けられた後、
バロック、再ゴシック化の時代を経て、1872年に2本の塔を持つ現在の形になり、
黒ずみが目立っていた緑色の砂岩と石灰石で造られた大聖堂は、
2006年のローマ法王ベネディクト16世の公式訪問に合わせて、修復や洗浄が行われたそうです。
法王(元・枢機卿ヨゼフ・ラッツィンガー)は若い頃、神学教授を務めたレーゲンスブルク大学の名誉教授で、
今も市内に私宅を持ち、レーゲンスブルク名誉市民とされています。


 -SM-

中世末期にバイエルン地方の首都となって以来、近代まで神聖ローマ帝国の首都のような役割も果たした
レーゲンスブルクにはその繁栄をとどめる歴史的な建造物が1200余りも残っていると言われています。
旧市街散策に向かっていると石畳の上を観光用のミニトラムが走っていました。
入り組んだ小路を歩いていると趣向ある店看板の間に大聖堂が見えたり、さすがに風情ある古都の趣きです。

 

13Cの裕福な貴族や商人たちが富の象徴として競うようにして建てた高い塔屋を持つ邸宅が、
多く見られる一画がありました。実用性を持たない高い塔は‘Stone Rich’と呼ばれ、
その邸宅前の道路には深さが5〜7mもあるという貴重品をしまう地下貯蔵庫がありました。   
説明を聞きながら、ただ見下ろすばかりでしたけれど、今もワインなどの貯蔵に使われているようです。



続いて向かったのが1244年に建設が開始された旧市庁舎です。
持ち回りで行われていた神聖ローマ帝国のすべての帝国議会は1594年以降は、
この建物の2階にある「永続的帝国議会広間」で開催されたそうですが、
皇帝、選帝侯、高位聖職者、世俗侯爵など階級によって椅子の高さ、絨毯の色が厳密に定められていたという
内部を見学する時間がなかったのが残念です。



旧市庁舎入口のファサード彫刻は、1245年にフリードリッヒ2世により帝国自由都市とされ、
王侯、高位聖職者と並ぶ裕福な市民階級が台頭して来た時代を象徴しているようでした。
入口脇に取り付けているのは旧市庁舎前のコーレンマルクト広場で開かれた商取引き用のスケールで、
真中が靴の大きさと合致するなど長さを測るのに利用されたそうです。

市庁舎塔 新旧市庁舎

旧市庁舎の隣にはバロック市庁舎という別名を持つ17C建造の新旧市庁舎があり、
ドイツ総選挙が行われるという意味の3つの旗が掲げられていました。
(大連立政権からメルケル首相率いる中道右派のキリスト教民主・社会同盟に政権異動があったようです。)
現在、市制を担っているのは市の東方のダッハウ広場に1930年代に建てられた新市庁舎です。



地元の人々、観光客が最も集まるというコーレンマルクト広場ですが、
小さな‘広場’、入り組んだ路に中世的な雰囲気がそのまま残され、魅力ある佇まいを見せていました。




聖ピーター大聖堂へ向かうヴァットマルクト通りに「シンドラーのリスト」で有名なオスカー・シンドラーが
晩年に住んだ家があり、「1200人のユダヤ人を確実とされていた死から救った。
1945年11月から1950年5月までこの街に住み、最初はこの場所に、後にニュルンベルク通りに住んだ」という
1995年に作られたプレートが貼られていました。晩年のシンドラーは不遇であったと言われています。


大聖堂付属施設 聖ウルリッヒ博物館

聖ピーター大聖堂前のクラウテラーマルクト(薬草市場)広場へ戻り、
もしかしたら有名なドームシュパッツェン、大聖堂のすずめ達と呼ばれるレーゲンスブルク少年合唱団の声を
聴くことができるかもしれないと、ミサ中の聖堂内へ入って行くと、
幸いにも人垣が出来ている最後部から、少年たちの澄んだ歌声を聴き、姿もすこし見ることができました。

旧市庁舎周辺は市民階級、大聖堂周辺は司教区域と大まかに分けられるようで
聖ピーター大聖堂の周りには教会施設が多く見られました。


                  -MK-
    

予定コースには入っていなかったのですが、希望を伝えると、アインヘレさんが
アルテ・カペレへ案内して下さいました。
レーゲンスブルクが皇帝と王の都となった出発地アルター・コルンマルク広場にあるアルテ・カペレは
6C末に作られた市内最古の教会を基とするカロリング王朝時代の宮廷礼拝堂です。
ザクセン朝最後の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(在位1010−1024)は居城をバンベルクへ移し、
アルテ・カペレをバンベルク司教に寄贈してしまったのですが、
フリードリッヒ1世バルバロッサが宗教的、政治的配慮によって1146年にハインリッヒ2世とクニグンデ妃を
列聖したことによって、2人はレーゲンスブルクで崇敬の的となっていったそうです。

ミサ中の教会内部には入ることが出来ず、アルテ・カペレが18Cにロココ化された時に
夫妻の生涯を描いたフレスコ画やベネディクト16世の法王即位を記念した新しいパイプオルガンを
柵越しに少しだけ見ることが出来ました。
この日は又もデジカメのバッテリー切れを起こし、アルテ・カペレ正面写真は仙台のK夫人にお借りしました。
パイプオルガンはポストカードから取ったものです。



‘白羊亭’と‘歴史的ヴルストキュッヘ’

ドナウ河で最も古い石橋を見に行く途中に、イタリア紀行へ向かうゲーテ(1749−1832)が
1786年9月4日に1泊した白羊亭がありました。
その折りに「レーゲンスブルクはすばらしい地形を占めている。ここいらに都会ができるのは実に当然のこと」と
ゲーテは書いています。 (「イタリア紀行」ゲーテ著・相良守峯訳)
白羊亭に取りつけられたプレートにはモーツアルト、ハイドンの名前も見受けられました。




世界初の植物学会がレーゲンスブルクのハインリッヒ・ホッペ(1760−1848)によって設立された1790年に、
「花は葉の変形したものである」とイタリア旅行で確信を深めた「植物変形論」を出版したゲーテは、
後にレーゲンスブルク植物学協会の名誉会員に推挙されています。
ワイマール公国の政治家、法律家、詩人、自然科学者と驚くほど多くの顔を持ったゲーテです。



‘歴史的ヴルストキュッヘ’というのは石橋の建設が1135年から1146年まで行われた時、
工事職人のために飯場で昼食用ソーセージを焼いたのを始まりとするドイツ最古のソーセージ店で、
観光名物となったのは17C頃のようですが、どなたが買ったのか分らないまま賞味させていただいた
焼き立ての一口のソーセージは、この雰囲気の中で味わうのですから美味しくない訳がありませんでした。



平均水深5〜6mといわれるドナウ河(深い所で40m)が夏に異常渇水を起こした時を利用して、
工事を始めたといわれる長さ350m、15のアーチを持つ石橋は風格のある堂々とした姿を見せていました。
ドナウ河貿易をハンガリーまで支配し、時には黒海までも出掛け、またヴェネチアやフランスとの交易も行った
中世のレーゲンスブルクの商業活動を支えたドナウ河と石橋です。



旧市街側で橋を守るのは黄金の門‘ブリュッケ・トア’で、その左手の建物‘ザルツシュターデル’は、
パッサウから船で運ばれた来た塩を貯蔵する1616年建築の帝国都市用の倉庫です。
石橋の中央で、手をかざして街をみている‘ブリュッケン・メンヒェン’(橋の小人)は
レーゲンスブルクが1446年に司教権から解放され、自治権を得た自由を象徴しているそうです。



3時間ほどレーゲンスブルク観光をした後、バスに乗って、フランス号が待つケルハイムへ向かいましたが、
船がまだ到着していないことが分り、思いがけず、ルードヴィッヒ1世がナポレオン支配から解放された記念に
1842年から20年余りかけて作った‘解放記念堂’に立ち寄ることが出来ました。
自作の詩をゲーテに添削してもらったり、ミュンヘンのニンフェンブルグ城に見る美女の間など
ロマン的傾向を持つ王らしいと言えるモニュメントでした。



解放記念堂前からドナウ河を見下ろすと左側水路にフランス号が入って来るのが見えました。
1時半ごろ戻った船は、‘我が家’に帰ったような寛ぎを与えてくれました。
全員が乗船するとすぐに次の寄港地ニュルンベルクへ向けて出航しました。




  

ランチはリヨン風サラダ、タラのパイ包み、フルーツサラダというメニューでした。
デザートのチーズはバターをつけると美味しいと聞きましたが、高カロリーを避けて止めておきました。
覚えておいて、いつか試してみたいと思います。


 
ライン・マイン・ドナウ運河の穏やかな景色




4時からH添乗員さんの「ドナウ・マイン河」講座が開かれました。

ヨーロッパの大動脈であるライン河とドナウ河を結ぶ運河の構想は古くからあり、
8世紀のカール大帝の掘削遺跡、ルードヴィッヒ1世の19Cの小規模な運河も残されていますが、
本格的に工事が始められたのは1921年のことで、戦争による中断を経て、
1960年に工事が再開、開通したのは1992年のことだったそうです。
70年代にほぼ完成していた運河が20年間放置されていたのは、
共産圏を流れるドナウ河と西側のライン河の河川法が違っていたことが大きな理由だったようです。

ドナウ河から67mの標高を上がり、分水嶺を越えた後、マイン河まで175mの標高を下る運河は
171kmの間に高さ5〜6mのドック(閘門)を16か所設けて建設、
黒海と北海まで3000kmをつなげる歴史的な事業となり、
この運河によって飛行機やトラックより経費が安い貨物船の運行が増加傾向になったそうです。

ライン河支流であるマイン川は(ケルト語で水の意)、ドイツ国内だけを流れる川であるため、
ドナウやラインなど国際河川と違ってドイツ特有の文化が守られているというお話を聞きながら、
これから訪ねる街への期待を高めていきました。


夕刻の河畔の村と紅葉


チキンサラダ、フィレミニョン、フルーツケーキという夕食をいただきながら、
早くもハンガリー人シェフの腕の良さが話題になりました。
クロワジー社のクルーズ5回目のO添乗員さんによると、「今までで一番おいしい」ということで、
これは大きな幸運でした。




いつもながら、バースデイの方への心配りもありました。
祝われるのがうれしいかどうかは微妙なところですけれど・・・。


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