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28 Sept 2009
Nürnberg~Coburg~Bamberg

ケルハイムから104km、分水嶺を越え、13時間ほどかけて、夜中にニュルンベルクに到着しました。
早朝3時頃から2時間ほど行われた給水作業のホースがちょうど私達の部屋の窓の外を通り、
ぼこぼこという音をたて続けたため、ちょっと寝不足の朝でしたが、
朝食後、船を降りて川岸を散歩をすると徐々に目が覚めていきました。


 

左岸は工場地帯でしたが、右岸は川に沿って自然遊歩道が続いていて、
たわわに実をつけたセイヨウサンザシやノコギリソウ、フウロソウの仲間など小さな花が見られました。

8時45分にラウンジに集合して、バスでニュルンベルクの街の観光に向いました。
ナチスの戦争責任者に対する「ニュルンベルク裁判」で有名なこの街は、
第2次世界大戦中に市街地の90%近くが破壊されてしまったそうです。




途中、中央駅から私達のバスに乗り込んで来たガイドさんは、
ニュルンベルクの復興と歩みを共にされたとお見受けする年配の女性でした。
最初のご挨拶の時、バスの前方に座っていたツアー仲間のにこやかな反応を見て、
「みんな英語が分かるようだから、通訳はいらないのでは?」とO添乗員さんを困らせたようです。



街を囲む城壁に残る塔を車窓に見ながら、街の北の高台に位置するニュルンベルク城でバスを降り、
10C初めにハインリッヒ3世が最初の城塞を築いた後、コンラート3世、フリードリッヒ1世バルバロッサが
居城を拡大して、1180年に現在の原型がほぼ出来上がったと言われる城内を歩きました。

プラハに大聖堂や大学を創設し、首都整備をしたカール(=カレル)4世は、
7選帝侯による神聖ローマ帝国皇帝選挙規定及び帝国議会規定を明文化した「金印勅書」を1356年に発令、
新しく選ばれた皇帝は「最初の帝国議会をニュルンベルクで開催すること」と定めたそうです。
そのことによって皇帝達がしばしば滞在した街には、オリエントとの通商で流れ込む富が惜しげなく注ぎ込まれ、
美しく安全な都市として発展し、ドイツの多くの街を荒廃させた30年戦争の戦禍からも
堅牢な城壁によって守られたのですが、その栄光をナチスの党大会に利用されたために
第2次世界大戦で破壊されるという不運に見舞われることになってしまいました。



皇帝達の居城、カイザーブルクの内部見学はせず、南側のテラスから旧市街を展望しました。
切妻屋根の勾配を急にして、古い感じを出しているという中世さながらの統一感ある街並みに、
復興への並々ならぬ努力とねばり強いドイツ人の国民性が感じられました。

右の写真に写っている塔はバルバロッサ(赤髭王)の展望台と呼ばれるものです。
伝説の皇帝バルバロッサは今もチューリンゲンのキフホイザーの山中で眠り続けているのでしょうか、
ニュルンベルクのお守りとも見える展望台でした。



お城から坂道を下って、ティアゲルトナー広場へ向かう途中に立つデューラーの像を見ながら、
第2次世界大戦の被害が少なかったという旧市街の西北エリアに向うと、
屋根や壁面にケッツレル(出窓)を付けた16~7Cの建物が多く残っていました。
聖書を題材とした彫刻を施した張り出し窓はチャペル、屋根の出窓は神棚などとして使われたそうです。



10時から聖セバルドゥス教会でW航空・特別プログラムのコンサートが行われ、
パッヘルベルのトッカータ、バッハのカンカータ「主よ、人の望みの喜びよ」、トッカータとフーガ3曲を演奏、
天井の高い石造り教会とパイプオルガンというベストマッチ・コンビが響かせる素敵な音色を楽しみました。



聖セバルドゥス教会はつららで火を起こしたり(太陽と虫メガネのような作用?)、
瀕死の人を助けた奇跡で聖人に列せられた11Cの隠棲僧セバルドゥスが作った礼拝堂を元に、
ロマネスク、ゴシック様式で増改築を重ねて15C末に完成した教会です。
中央祭壇の前に1519年に作られたセバルドゥスの遺骨を納めた金箔のお棺が安置されていました。



デューラー・ハウス

再びティアゲルトナー広場へ戻り、ルネサンス画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)が
38歳から亡くなる58歳まで住んだデューラー・ハウスの外観を見学しました。
デューラー・ハウスの再建は第2次世界大戦後のニュルンベルク復興のシンボルとなったそうです。
現在は記念館となっている内部を入口から少し覗かせてもらいました。
デューラー・ハウスの右手に見えるのは城壁の屋根付き回廊で、
城壁は全長5kmで街を囲み、その上に128塔の見張り塔が築かれていたそうです。



ティアゲルトナー広場
ヴァイス・ゲルバー・ガッセ

カフェが並ぶティアゲルトナー広場からアルブレヒト・デューラー通りを下って行くと、
14Cの美しい木骨組みの家が並んだヴァイス・ゲルバー・ガッセ(白く鞣す革職人の小路)に出ました。
意匠をこらした看板、ゼラニウムで飾った窓辺などメルヘンチックな雰囲気のある通りでした。


ペグニッツ川マックス橋
                       
ヴァイン・シュターデル(ワイン・ハウス)

ニュルンベルクの街はペグニッツ川で南北に2分され、北側はゼバルドゥス地区、南側はローレンツ地区と
それぞれの地区を代表する教会名で呼ばれています。
ペグニッツ川沿いを少し散策した後、ヴァイン・シュターデルの前を通って、中央広場へ向かいました。


中央広場と聖母教会 ‘美しの泉’

街外れの湿地帯でしかなかったユダヤ人居住区が街の発展と共に街の中心地として取り込まれ、
ユダヤ人虐殺、家屋焼き払いという暴挙の後、6mほど埋め立てて造られたのが中央広場です。
虐殺と中央広場創設の認可を与えたカール4世によって寄贈された聖母教会は、
プラハ城やカレル橋と同じP.パーラーによって設計され、
12時になるとカール4世が7人の選帝侯と共に現れる仕掛け時計を正面ファサードに持っています。
その聖母教会も時代の荒波からは逃れられず、プロテスタント、カトリックと変遷を辿り、
第2次世界大戦では猛爆撃を受け、側壁とファサードだけが残ったそうです。 
                        (旅名人ブックス「ドイツ・バイエルン州」日経BP企画)




広場入口にある‘美しの泉’は八角形の水盤の上に、彫像などを取り付けた19mの塔を持つ
1396年に作られた街で最古の泉で、その周りを1587年に作った鉄格子の柵が取り囲んでいました。
鉄格子には継ぎ目が分らないリングによって親方に腕の良さを見せつけて町を去ったという弟子と
親方の娘の悲恋伝説に因む‘Ring of Wish’がはめ込まれていました。
3回まわすと願いごとが叶うそうで、順番待ちをして祈ったのは、旅の無事・・・という平凡さでした。
クリスマス市で有名な中央広場での15分ほどのフリータイムに、ニュルンベルク名物のソーセージ、
‘ニュルンベルガー・ヴェルスチン’を屋台で買ったY夫妻のお相伴をさせていただきました。
11時40分にバスに戻り、90kmほど北に位置するコーブルクへ向かいました。



 

アウトバーンを走って、1時にコーブルクの街はずれのレストランに到着しました。

  

120名余りが一度に到着して、てんやわんやの店内でしたが、雰囲気の良いレストランで、
野菜ポタージュ、ポーク、アイスクリームのランチ・タイムを楽しみました。


 

今回の旅の途中、いくつかの街で実を見かけたシラタマノキの花がレストランの庭に咲いていました。
日本の亜高山に生育するシラタマノキとは少し様子が違うようです。



コーブルク城
ケッツェンゲッセ門

チューリンゲン南部の森とマイン川上流の渓谷に囲まれたコーブルクは、
10km先は旧東ドイツ圏で、東西分割の時代には兵が配置されていたことなどが観光を遠ざけていたようで、
「地球の歩き方」などガイドブックに掲載されておらず、日本では知名度の低い街ですが、
ヨーロッパの歴史上には重要な位置を占める由緒ある街でした。
多くの著名人が滞在した中でも、ヨハン・シュトラウスはすっかり街を気に入って、帰化までしたそうです。




パーキングにバスが着くと、6~7名のガイドさん達が出迎えてくれました。
早いもの順で決まった私達のグループ・ガイドはトレンチコート姿の若い女性でした。
旧市街へ向かう道路から遠望できたフランケンの冠と呼ばれる標高469mのコーブルク城は、
カール5世に追放されたマルティン・ルターが1530年に半年間匿われて聖書のドイツ語訳を続けた城塞で、
古い部分は11C、ほとんどは14Cに造られています。
城壁の一部の14C建造のケッツェンゲッセ門から、第2次世界大戦後に再建された旧市街へ入って行きました。


市庁舎とアルバート公像(左端) タウンホール

マルクト広場の市庁舎前には婚姻政策によって支配を広げたザクセン・コーブルク・ゴータ公国の中でも
とりわけ有名であった英国ヴィクトリア女王の夫君アルバート公の銅像が立っていました。
植民地から得られる富と産業革命の成功で英国の繁栄の時代を築いたヴィクトリア女王を支えたのが、
アルバート公の知性と賢明な助言であったと言われ、
9人の子供に恵まれた円満な女王一家は理想の家庭としてイギリス国民の敬愛を集めたそうです。

市庁舎の向かい側には街の支配者であった伯爵邸のタウンホールがあり、
美しいドイツ・ルネサンス様式の建物で囲まれたマルクト広場は落ち着いた古都の風情を見せていました。
カフェで寛ぐ人々、煙を上らせる松ぼっくりで焼くコーブルク名物のソーセージ屋の車など、
ゆったりと流れる空気の中に本物の豊かさを見たような思いでした。


13Cの薬局 聖モーリッツ教会

ドイツで最も古いといわれる薬局の横を抜けて、聖モーリッツ(サン・モリッツ)教会へ行きました。



聖モーリッツ教会はローマ皇帝ディオクレティアヌスが北アフリカで戦った時の異教徒の将軍モーリッツが
後にキリスト教に改宗し、聖人に列せられてコーブルクの守護聖人となったことによって
名付けられたプロテスタント教会です。
コーブルク城に匿われていたルターが説教をしたと言われるモーリッツ教会の主祭壇には
牧師家族にまつわる彫刻が飾られ、カトリック教会とは違った趣きを見せていました。
現在もコーブルク人口の60%はプロテスタント、19%がカトリック教徒だそうです。


 

道路上にモーリッツの顔のマンホールがありました。聖人を踏みつけていいものかどうかは
迷う所ですが・・・・。右側の4枚の金のプレートはヒットラーの犠牲者を悼むもので、
こちらは「つまづいた時に気が付く」という意味で、路上にはめ込まれたものだそうです。



エーレンブルク城
カジミール・ギムナジウム

大学を作ろうとした16C末の侯爵ヨハン・カジミールの願い叶わず、ギムナジウムとなった建物の前を通り、
シュロス広場へ行って、ヴィクトリア女王が水洗トイレを持ち込んだというエーレンブルク城や、
広場に面して建つ劇場やカトリック教会を遠望して、コーブルク観光を終え、
再びバスで40kmほど南下して、バンベルクの街へ向かいました。



 

1時間足らずのドライブで、5時15分頃、バンベルクに到着しました。



自分の車で一緒に来る筈だったコーブルクのガイドさんが遅れ、ガイド不足というピンチを切り抜け?
私達のグループは190cmはありそうなのっぽガイドさんの案内で、
6時に閉まってしまうという大聖堂へ急ぎました。
途中、通った‘小ヴェネツィア地区’と呼ばれる夕日を受けたレグニッツ川沿いの漁師町は、
絵のように美しい景観を見せてくれました。
ツリフネソウ、オドリコソウ、アスチルベなどが咲く川沿いの道も心惹かれるものがありました。



バンベルクの街は東フランク王国の城塞が造られたことを起源とし、
ハインリッヒ2世がローマと同じ7つの丘を持つバンベルクを宗教上の中心都市としようと
1007年に司教座を置いてから大きく発展していった街です。
莫大な私財を寄進して聖堂や修道院などを建設したハインリッヒ2世とクニグンデ王妃は
人々からの敬愛を受け、街の守護聖人として、今も大聖堂に葬られています。

右側の大聖堂入り口の写真は南面のものですが、コーブルクの聖モーリッツ教会とよく似た
裸体のアダムとイブの彫像はこの地方特有のものかと思われました。



大聖堂はロマネスクとゴシックの過渡期の1237年に両方の様式混在で現在の形に再建されたそうです。
ドイツ中世美術を代表すると言われる13Cの‘バンベルクの騎士像’の作者は不明ですが、
モデルはハインリッヒ2世の妹婿であるハンガリーの初代王、聖イシュトヴァーンという説もあるようです。
パッサウ、レーゲンスブルクと歴史のつながりを目の当たりにして、これぞ旅の醍醐味!という思いがしました。



リーメンシュナイダーが14年の歳月をかけたというハインリッヒ王とクニグンデ妃の石棺には、
2人にまつわる話が表現豊かに彫られていて、大聖堂の最高の美術品のひとつとされています。


旧宮殿(ハインリッヒ2世宮)
新宮殿 新宮殿バラ園

大聖堂の周りを取り巻く旧宮殿、新宮殿の外観を見て歩きました。
旧宮殿はハインリッヒ2世の宮殿跡地に14Cに建てられた司教の宮殿で、現在は歴史博物館として使われ、
新宮殿はバンベルク司教かつマインツ選定候であったシェーンボルク家のロータル・フランツ伯の宮殿として
ルネサンスとバロックの建物を2棟ずつ組み合わせて18C初頭に作られたものです。
120部屋を持つという宮殿は大き過ぎて、カメラに収めきれませんでした。
バンベルクの街は17Cの30年戦争で甚大な被害を受けましたが、この新宮殿建設に刺激された貴族達が
バロック様式の邸宅を次々と建築し、再び司教座都市としての壮麗さを取り戻していったそうです。



新宮殿の中庭にあるバラ園から、現在は老人ホームとして使われているというベネディクト会修道院付属の
聖ミヒャエル教会が見えました。
第2次世界大戦の被害も受けず、1993年に世界遺産に登録された‘バイエルンの真珠’と讃えられる
素晴らしい旧市街の街並みも中庭テラスから展望できました。



宮殿から旧市街中心部へ降りて、‘シュレンケルラ’というラオホビール(燻製ビール)の店に立ち寄った後、
14Cのゴシックを18Cにバロック様式に改築した旧市庁舎が建つレグニッツ川の橋を渡りました。
橋の上に建つのは望楼で、両側の建物が庁舎となっています。
ここでも橋を守っているのはヤン・ネポムツキー(ドイツ語読みははて・・・?)でした。



レグニッツ川を少し上って、もう一度、小ヴェネツィア地区を橋の上から眺めた後、
6時50分にバスに乗り、旧市街の北の外れを流れるマイン・ドナウ運河で待っていたフランス号に戻りました。


  

この夜はバンベルクに停泊ということで、心なしかのんびり見えるフランス号で
ロシア料理のつぼ焼き風パスタ・スープ、カモのフィレ肉、焼きパイナップルとアイスクリームという
量も質も程良いメニューの夕食をゆっくりと楽しみました。

夕方遅くなるので寒さ対策をと言われた一日でしたが、コートが邪魔になるほどのお天気に恵まれて、
駆け足ながら、歴史ある3つの古都を訪ねた充実の一日でした。


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