ホーム][目次][P10

29 Sept 2009
Würzburg~Karstadt~Wertheim  

夜中にヴュルツブルクに到着したフランス号は旧市街の中心から大分下った所に停泊した様子で、
朝の散歩を諦め、朝食後7時45分頃に船の屋上デッキへ出て見ると、
工場地帯に面した街外れの小さな港から、遠くにマリエンベルク要塞やブドウ畑が見えました。



8時半にラウンジに集合して、レジデンツへ向かいました。
中世の面影を残す街が連なるローマへの街道、有名なドイツのロマンティック街道は
ここヴュルツブルクを起点として、南へ360kmのフュッセンへと続いています。
6Cにフランク人によって城が築かれたヴュルツブルクは、686年頃にアイルランド人宣教師キリアンによって
キリスト教化され、8Cには司教区が置かれ、領主司教が統治する街として、
又、交通の要衝地として商業的にも発展していったフランケン地方の中心都市で、
現在の人口13万5千人の中、3万人が学生と言われています。

マリア・テレジアに「宮殿中の宮殿」、ナポレオンに「ヨーロッパで最も美しい司祭館」と評されたレジデンツは、
300余りもの領邦国家がひしめくドイツ国内で、
世襲制の世俗領主と違い、1代限りの領主司教が政治的威信をかけ、
1719年にヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンがプロジェクトを立ち上げ、
1744年にフリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンによって完成した宮殿で、
庭園と宮殿前広場を含めて、1981年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。
ヤコブ・ガルスという官吏が違法取引によって支払った60万グルデン(約1750万ユーロ)の罰金が、
敷地購入費、初期建築費用として当てられ、後世に負債を残さなかったという話も残っています。



西側の大聖堂方面を望む
フランコニア噴水

レジデンツ前広場中央のフランコニア噴水はヴュルツブルクの旗を手にしたフランコニア女神と
市長も務めた彫刻家リーメンシュナイダー、画家グリューネヴァルト、宮廷歌人フォーゲルワイデという
地元ゆかりの3人の芸術家で飾られていました。
広場の西側には大聖堂やノイミュンスター教会の尖塔が見えました。


ホーフ教会 レジデンツ入口

最初にレジデンツ内にある3階まで吹き抜けになったホーフ教会へ入りました。
ウィーンを中心に活躍した建築家ヒルデブラントによるバロック礼拝堂は、
領主司教の権力そのままに、豪華で華美なロココ装飾で埋め尽くされていました。
教会を見た後、馬車に乗ったまま出入りできるよう設計された入口からレジデンツの中に入りました。



「皇帝の間」のフレスコ画
          

入口を入るとすぐにレジデンツ内で最も有名な主階段室がありました。
ヨハン・フィリップ・フランツ司教がイタリアやフランスへ留学させ、学ばせた
無名の宮殿鍛冶屋であったバルタザール・ノイマンが、
フリードリヒ・カール司教に代が変わって起用されたヒルデブラントなど多くの著名な建築家と対立しながら、
最後まで構想を押し通して造ったのが、この支柱を持たない大天井を持つ階段室で、
熱に強い擬石の屋根にも守られ、1945年3月19日の連合軍の爆撃時も
レジデンツの中でも最もよく持ちこたえた箇所だったと言われています。

1744年のレジデンツ建物の完成後も未完成のまま残された多くの部屋の中で、
とりわけ難題だった階段室の天井画は、ヴェネツィアの有名画家バッティスタ・ティエポロに託されて、
1753年に完成したそうです。

  

(3枚の写真は絵葉書より転載)

長さ33m幅18mの世界最大のフレスコ天井画中央部には司教の肖像画やレジデンツ建設風景が描かれ、
「天井の下で大砲を打って、強度を実証して見せる」と言ったノイマンに大砲の上という特等席が与えられ、
ティエポロ自身も左端に描き込まれていました。
「世界の4大陸」をテーマとした天井画にはそれぞれ女性が寓意的に描かれ、
アメリカはワニ、アジアはゾウ、アフリカはラクダが象徴として添えられていました。
「ノイマンによる、技術的に当時最先端のヴォールト天井は、巨大な帆のように<階段の間>を覆い、
空間に類を見ない広がりを与えています。・・・・時代を超えて、あらゆる人間を感嘆させたのは、
ティエポロが絵画によって、ヴォールト天井の存在を消し去ってしまったことです。
ノイマンの建築作品は、ティエポロの傑作によって、無重力のキャンパスに変えられたのです。」と
ミュージアムショップで購入したガイドブックに書かれている通り、
写真を見て想像していたよりはるかに軽やかな空気をまとった階段室でした。

階段を上るとイタリア人アントニオ・ボッシが手がけたストゥッコ(漆喰)装飾の「白の間」があり、
色彩を抑えた控え室「白の間」の隣は、きらびやかな金細工が施された「皇帝の間」になっていました。
「皇帝の間」のフレスコ画もティエポロによるもので、
1156年のフリードリッヒ1世バルバロッサとブングルト王国ベアトリクスの結婚式や
1168年にヴュルツブルクで行われた帝国議会で神聖ローマ皇帝バルバロッサが
膝まづいた青いマントの司教に権力を委ねる場面が描かれていて、
自らの世俗権力の正統性を伝える領主司教をティエポロが芸術性を持って援護していると評されています。
  2人の司教の政治的野心と芸術への関心によって生まれたレジデンスによって、
ヴュルツブルクはヨーロッパを代表する文化都市として存続していくことになったそうです。



10時過ぎからW航空主催「レジデンツ宮殿の一室を借り切った特別ミニコンサート」が開かれました。
日本人女性が第2バイオリンをつとめるレーデルクァルテットによる演奏会は
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で始まり、ハイドン、メンデルスゾーンの弦楽四重奏と続き、
4人のぴったりと息の合った美しい弦の響きが私達の旅に素敵な色彩りを添えてくれました。
小1時間の演奏会の後、バスに向かう前に「外を写すのはOK」と言われ、窓越しに広場の写真を撮りました。


今回の旅を決めた後、訪ねる街を調べていて、ヴュルツブルクがシーボルトの生誕地であることが分り、
このことを植物ボランティアの仲間に話すと、
「シーボルト像の台座に編み笠をかぶったり、胴乱を持っている天使がいるらしい」という情報が届き、
「写真を持って帰る」ことが特命!?となった訳でしたが、
あいにく船は朝食後の散歩がてらにというのは無理な場所に停泊していましたので、
レジデンツ見学中に徒歩5分ほどの距離にあるという胴像を見に行くチャンスを狙っていました。

・・・が、ガイドの説明を聞きたい、コンサートも聴きたいでは写真を諦めざるを得ない状況となってしまい、
やむを得ないなぁと残念に思いながらバスに乗った所、
何とYEさんが「写して来ましたよ」とデジカメ画面を見せて下さいました。

男声合唱団に所属する音楽愛好家でありながら、コンサートを割愛して街歩きにいらっしゃるという
YEさんのお話を出発前のラウンジで伺い、私は撮りに行けないかもしれないので、
「シーボルト像、撮って来て下さいね。」と軽い冗談のようにお話したのですが・・・・。

「小さなコンビニ風カフェの裏側の、木立の中の目立たないところにひっそりとお立ちのシーボルト先生も、
さぞさびしい日々でしょう。初めて訪れる旅人には、地元の住人に聞かなければ見つけることは
極めて困難なことです。私が聞いた老人は、“確か、このブッシュのあたりにあったはずだよ”と、
自信なさそうに案内してくれました。」というメールと共に写真を送って下さったYEさんに感謝!です。

生誕地ヴュルツブルクには1995年に開館したシーボルト記念館があり、日独交流も図られているようですが、
所蔵品などの質、量はライデンやロシアにお株を奪われているようです。
旅前にもう一つ、ドーデーの「月曜物語」の「盲目の皇帝」という作品にシーボルトが出ているのを見つけて、
3年前に行ったミュンヘンにシーボルトの所蔵品があった謎が解かれました。
シーボルトに関心のある方は是非とも、「盲目の皇帝」をお読みください!


マリエンベルク城塞 アルテ・マイン橋

11時20分にレジデンツを出て、マリエンべルク城塞へ向かいました。
城壁が並木道に変えられ、木々に包まれた旧市街やマリエンベルク城塞を車窓に見ながら、
マイン川を左岸に渡り、城塞へ登って行きました。



マリエンベルクは1200年頃、コンラッド司教が防衛と居住機能を持った城を建造したことを始めとし、
政局が安定して、司教が山を下り、レジデンツに居城を移すまで、
領主司教が支配を行った難攻不落の要塞で、マリエンベルク(マリアの丘)という名前は
建設時期は不明ですが、要塞内庭に残る聖母マリア教会に由来するそうです。
現在はマインフランケン博物館、領主館博物館として使われている建物の外側に沿って歩き、
高台からヴュルツブルグ旧市街の眺望を楽しみました。




左手アルテ・マイン橋の上に見える尖塔が聖母マリア礼拝堂、中程にノイミュンスターと大聖堂、
右手奥にレジデンツが見え、長い歴史と洗練された文化を感じるパノラマが広がっていました。



本当はもっとゆっくりと散策して、魅力を味わってみたかった街ですが、俯瞰した景観を心に刻み、
12時にヴュルツブルクを後にしました。



 

延々と続くブドウ畑を通り抜けて、船が待つカールシュタットまで、40分ほどバスを走らせました。
フランケンワインの名産地としても知られるヴュルツブルクの土地台帳にブドウ栽培の記述が
初めて出てきたのは779年のことと言われています。

私達の帰船を待って、フランス号はヴェルトハイムへ向けて出港しました。
ドック通過の予約時間の厳守はリバークルーズの鉄則で、遅れたら先の見通しが立たなくなるのだそうです。





1時過ぎからのランチは狩人風テリーヌ、子牛とマッシュルームの煮込み、クレープシュゼットでした。
遊んで帰って来ると美味しいお料理が待っている・・・これは病み付きにならないのが嘘という世界です。



食後は部屋から流れて行く景色を眺め、写真を撮ったりしながらのんびりと過ごしました。
開閉できない窓ガラスに姿が写ったりしましたが、光線の具合よく、見られる写真が撮れることもありました。
2階ラウンジや屋上デッキと、1階の私達のキャビンからの角度の違いがお分かりいただけるでしょうか。



4時から「ヨーロッパ博学とんちクイズ大会」が開かれました。
第1問の世界三大料理はフランス、中国、トルコ料理というのは知っていましたので難なくクリア、
フランス料理が世界最高峰の料理になったのはマリーアントワネットとナポレオンのお陰という第2問は、
何となく出来すぎのように思い、Xにして、早々とリタイアしてしまいました。
王室コック達が田舎へ戻ってレストランを開業してフランスの食文化が生まれたということのようです。
イギリス王室からスタートしたアフタヌーンティの習慣が生まれたのは、
国王の浮気を防止するためにお妃が考え出したというのはご存知でしょうか?
これはあてずっぽうでOを得ましたけれど・・・・。
このような問題の数々で、じゃんけんなどの敗者復活戦も重ねて、「豪華粗品」が配分されて行きました。
クイズに頭をひねりながら、やはり時々写真を撮っていましたが、
2階ラウンジから見る川沿いの家は1階からに比べ、目線が少し下がることが分ります。



雨の予報が外れ、曇り気味ながら、時に青空ものぞいたラッキーなお天気だった1日も
夕方7時前に暮れ始め、川の色も段々と暗くなって行きました。



スモークサーモン、フィレ牛肉、山羊のチーズのリエージュ風ケーキが夕食のメニューでした。
割りばしで遊んだ?前菜など、シェフやクル―達にも余裕が出てきた頃でしょうか、
この夜のラウンジはまた特別な賑わいを見せていました。



パーサー、添乗員さん達と一緒にY夫妻も楽しそうにステップを踏んでいます。

ダンス鑑賞後?部屋に戻ってしばらくすると、上階からドリルを使うような音が響いて来て、
添乗員さんの部屋に電話しても、ラウンジへ探しに行っても姿が見えず、どうしたものかと思いましたが、
異音はそれ程長くは続かず、ほっとするという一幕がありました。
結局、異音はエアコンの故障、添乗員さん達は夕食中に到着していたヴェルトハイムの街を
翌朝、私達を案内するために偵察に出掛けていたというのが事の次第だったようです。
ダンスのお付き合い?や下調べなど、添乗員さんの様々な仕事を垣間見た夜となりました。


目次][P10