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12 Dec.2010
Ahvaz〜Bishapur〜Shiraz


旅の4日目は「ペルシア」揺籃の地、ファールス州の州都シラーズへ向けて東へ660kmの移動日で、
朝7時にホテルを出発しました。

車窓には廃ガスを燃やす石油工場と雨が降ると浮いてくる塩で地表が白っぽくなった土漠が続き、
塩化現象が農業を衰退させた代わりに石油という資源が見つかった地域の歴史を物語っているようでした。
ロシア、サウジアラビア、米国、中国に次いで原油産出量5番目のイランには精製工場がない為に
高いガソリンを輸入せざるを得ないのだそうです。
(にもかかわらず燃料サーチャージを付加しないイラン航空はエライ!です。)


1時間あまり走ると、畑が増え、黒い山羊の毛皮で覆った遊牧民のテントなどが見られるようになりました。
このあたりは頭にターバンを巻き、だぶだぶのズボンをはいたクルド人遊牧民が多い地域だそうです。


ザグロス山脈の麓に広がる田園風景や日干し煉瓦、平屋根の家の村落を車窓に見ながら、
N添乗員さんの歴史講座とアリーさんのイラン話が交互に挟まれていきました。

BC12C頃、地中海貿易へ乗り出していったフェニキア人が創った文字がアルファベットの原型となり、
ギリシア文字、ラテン文字(ローマ字)となっていった一方、
BC10C頃、中継貿易によって繁栄したアラム人の言語が西アジアの国際語となっていき、
(イエス・キリストは古代アラム語を使い、シリアのアマルーラ村では今もアラム語が使われています。)
アラム文字を母体とした様々な文字が生まれていったと言われます。
その中のひとつがAD4C末〜5Cに生まれたアラビア文字で、
ササン朝時代にはパーレヴィー文字を使っていたペルシア語もイスラム化と共にアラビア文字表記になりますが、
インド・ヨーロッパ語族に属するペルシア語とセム語族のアラビア語は系統を全く異にする言語だそうです。

アラビア語よりペルシア語の方が易しいと聞きましたが、N添乗員さんのペルシア語講座は言葉ではなく、
音として耳を通り抜けるばかりで、ソッベヘイル(おはよう)、サラーム(こんにちは)、モタシャケラム(ありがとう)
ハシテナバシ(お疲れ様)だけで通した2週間でした。
「いくらですか?」「まけて」などと質問しても答えが聞き取れないことは自明ですし、
私達が訪れるような観光地では片言英語と身振り手振りでほぼ通用しました。



長い移動中にはモスクやホテル、レストランなどでトイレ休憩がとられましたが、
チップは必要に応じてガイドさん達が払って下さっているようで、個人的な面倒臭さはありませんでした。
写真は8時45分頃、トイレ休憩をしたモスクの周りに生えていた野生のピスタチオですが、
以前トルコで見た植栽のピスタチオの実とは全く別物に見えました。


牧畜を主な生業とする遊牧民達が風物のひとつに見える車窓風景でしたが、
遊牧民も住み分けされていて、ファールス州に入ると女性の衣裳が派手なトルコ人の遊牧民が増えるそうです。

大麦、小麦の収穫後に焼畑をして野菜類を栽培するという畑にはトウモロコシが見られました。
石油、絨毯、綿、果物、動物皮、キャビア、香辛料、オイルなどがイランの主な輸出品だそうですが、
沙漠の国にしては農産物が多い所が意外に感じられました。


11時前にドゴンバダンの町に到着、2度目のトイレ休憩をとったレストランでは、
入口のナン屋さんからナンをプレゼントされました。
イランが発祥の地といわれるナンにはラヴァシュ、バルバリ、サンギャクなど
厚さや形、焼き方によって数種類あるそうですが、焼き立てのナンの香ばしさは忘れられない味となりました。


イランではバスやタクシーなど特に公共の乗り物に厳しいスピード・チェックが行われていて、
アフワズからシラーズ間では6か所のチェック・ポイント(左写真)で、
ドライバーのアッバースさんがバスに搭載したGPSを手に検査を受けに行く姿が見られました。
道路の制限速度は時間帯によって85〜90kmとのことですが、チェック効果でしょうか、
死因2番目の交通事故は減少傾向にあるそうです。
男性65歳、女性68歳と短目の平均寿命、死因の1番が心臓病、3番が肺癌というのは
排気ガス汚染のせいだろうとアリーさんが言っていました。
因みに徴兵制があるイランでは徴兵証明書がないと車の免許は取れないそうですが、
親がなく家族の面倒をみている人、父親がイラク戦争で亡くなった人、結婚して子供がいる人などは、
18歳(大学に進学した人は22歳)から2年間の徴兵は免除されるそうです。

車窓には収穫時期たけなわのみかんを山積みにした露店が多く見られました。





12時45分に到着したヌーラバードのレストランのランチ・メニューはチェロウ・モルグ(鶏肉)でした。
途中、養鶏場が時々見られましたので、工場生産だと思われますが、地鶏のように美味しい鶏肉でした。
デザートはバナナで、私としては、輸入品より露店のみかんの方が余程うれしいのですが・・・。


2時半にビシャプール(美しい皇帝の街)に到着しました。
シャプール1世(在位:AD241-272)が一網打尽に捕らえたローマ兵捕虜1万人に建設させた街がビシャプールで、
「ローマ軍団が「つるはしで勝つ」とも言われた伝統をもつ集団であることを、このペルシア王は知っていたのである。
・・・ペルシア王シャプールは、そのローマ軍団兵の活用を考えたのである。」と塩野七生さんは書き、
この時、策略によって生け捕りにされたローマ皇帝ヴァレリアヌスはこの地で没したと言われます。

山の麓に築かれた広さ200ha、厚さ4m高さ15mの防壁で囲まれた方形の街はまだ発掘途中のようで、
比較的原型を留めている入口近くの水の神アナーヒターの神殿(右写真)を見学しました。


ササン朝アーチと呼ばれる天井とコーカサスのウラルトゥ様式と言われる水を流す側溝を持つ回廊を降りると、
神殿の空間が広がり、川の水を引いていたという池の跡が残っていました。



石組しか残されていない神殿跡ですが、入口上部の石にはゾロアスター教のシンボルで、
「良い考え、良い言葉、良い行い」を表す3段の翼の彫刻が残り、石灰岩の中には紡錘虫(フズリナ)の化石、
石の接合に使った鉛の跡などを見ることができました。


彩色した漆喰壁、泥と卵を使ったセメント、モザイク床跡など僅かな痕跡を残す宮殿や、
ゾロアスター教が起源というミナレット、モスク跡も見学しました。
右写真の奥の建物は博物館ですが、閉館或いは時間不足・・・?で入館はしませんでした。


フリータイムにアリーさんとツーショット写真を撮った遺跡の管理人さんが、
お礼のように携帯電話を取り出し、見せてくれた画像をデジカメで写して来ました。



アリーさんが指さしても遠過ぎて確認できなかった街の外れに立つ2本のシャプール1世の塔と、
テヘラン考古学博物館所蔵の床のモザイク画でしたが、小さな画像が往年の繁栄を少しだけ伝えてくれました。

遺跡の下のシャプール川では数えきれない程の山羊が水を飲んでいました。
山と川に囲まれた絶好の場所に街が建設されたことは理解できる風景です。


シャプール川を少し遡ったタンゲチョーガンにササン朝時代の磨崖レリーフがありました。
左写真の手前に見えるのはカナートの蓋ですが、
このあたりから地下水路を引いて、ビシャプールの街を支えていたのかもしれません。
その脇を通って、谷間に入って行くと、4つのレリーフが並んでいます。


左は「シャプール1世の騎馬戦勝図」で、鮮明ではありませんが、中央の騎馬姿がシャプール1世、
王の前に捕虜となったローマ軍団兵、王の後にササン朝兵士が彫られています。
右の「バフラーム2世の騎馬謁見図」は騎馬姿のバフラーム2世がラクダに乗ったアラブ人を謁見している場面で、
中央に入っている横溝は1933年にギリシアの発掘調査隊がつけてしまった機材の跡だそうです。


ゾロアスター教最高神アフラ・マズダから勝利の輪を受ける王を描いた「バフラーム1世の騎馬叙任式図」は
アケメネス朝時代には大きく描かれていた神が王と同じ大きさに表現され、
ササン朝時代に入って王権が強大になったことを示しています。
右は王の右側にいるのがペルシア兵、左側に反乱者が描かれている「バフラーム2世の戦勝謁見図」です。

楔形文字で刻まれたペルシア語、アラム語、バビロニア語のアケメネス朝時代のレリーフ碑文を
1835年にローリンソンが解読、考古学の発展に多大な寄与をしたそうで、
アケメネス朝の正当な後継王朝とするササン朝時代のレリーフ解読は一層容易ではないかと思われました。


4時にビシャプールを出発、シラーズの街まで残り120km、田園地帯や山間部をバスを走らせる途中、
農作物が豊かに並ぶ市場やアシュラの祭りの飾り付けをした町を何度か通過していきました。


4時半頃、アレクサンダーがBC336年に侵攻して来た峠、ボッラ・ハヤートを遠望する場所で
写真ストップが取られました。
N添乗員さんが声を掛けて一緒に写真を撮ったのは初笑顔のアシスタントのレザーさんで、
モニター画面を見ると笑い声まで立てていました。
無愛想に見えたレザーさんも、この後、馴染んで来ると共に、
バスの中でチャイやミネラルウォーターを配る時にじらしてみたり、バスのステップ前で通せんぼをしたり、
お茶目さを発揮することになりました。

野生のクリやピスタチオなどが生えるザグロス山脈に5時前に太陽が沈んでいきました。



シラーズの街に入ると渋滞に引っかかってしまいましたが、予定通りの7時にパールス・ホテルに到着しました。



8時からの夕食はビュッフェ・スタイルのスープとサラダ類と牛肉のメイン料理でしたが、
野菜が多いイラン料理は案外ヘルシーで、体調も割と早く順応していく印象を受けました。

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