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13 Dec.2010 |
Shiraz〜Persepolice
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標高1500mに位置し、気候の穏やかなシラーズ(=獅子の秘密)は、
アケメネス朝、ササン朝、ブワイフ朝(AD932−1062)、ザンド朝(AD1749−1793)時代に都がおかれ、
旧市街にザンド朝の街並みや建築物を残す由緒ある古都です。
街を北西から南東に斜めに横断するメインストリート、ザンド通りの北西端に位置するパールス・ホテルは、
部屋の鍵もカードをかざすだけの電子式で、イランにいることを忘れるような西欧的な雰囲気でした。
朝食に行くと、隣席でドライバーのアッバースさんとアシスタントのレザーさんが食事中でしたが、
風邪気味のアッバースさんはテヘランの自宅から「喉に良い」という茹でカブをたくさん持参していました。
コーランはアラビア語しか認めていないと聞きましたので、朝食後、アリーさんに尋ねると
下に小さな字でペルシア語でも書かれているそうで、部屋に戻り、
セーフティ・ボックスの上に載っていた豪華な革製ケースに入ったコーランを開いてみると、
確かに2種類の言葉で書かれていました。
後に英語併記のものも見かけ、原則、コーランとは呼べなくても(注釈書という位置付けのようです。)
各国語に翻訳されていることが分りました。
町中や観光地で見かけた手のマークのポストは貧しい人の救済に使われる‘官製’喜捨箱だそうです。
旅の準備をしている時は、今回は外を一人歩きすることはできないのでは?と思っていたのですが、
ホテル周辺の散歩に出掛けたりして、徐々にイランへの先入観が薄れて行きました。
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9時半にホテルを出発して、エラム(=楽園)庭園からシラーズ観光が始まりました。
セルジュク朝(AD1037−1193)に始まり、ハーフェズも詩に詠んだと言われるエラム庭園は、
ザンド朝に支配者の所有となった後、カージャール朝(AD1796〜1925)に整備され、
1963年からシラーズ大学植物園、2008年から植物学研究センターとして使われている庭園です。
シラーズやエラム庭園を象徴するバラは花の時期を終えていましたが、
この地方のシンボルとされ、「美しい」の代名詞として使われるイトスギが良い景観を作り出していました。
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カージャール朝高官の宮殿 |
シラーズ大学の学生達 |
ペルシア様式の階段状庭園を前面に配した美しい宮殿の外観や
カキ、ビワ、ザクロ、ナツメ、カリンなどの果樹、カエデ類、針葉樹などの植栽を見ながら園内を見学しました。
キャロブの花
ロウバイはWinter-Sweet、マメ科のBird-of-Paradiseという木など樹名板の英語名も興味深かったのですが、
この時うれしかったのは以前から見たいと思っていたキャロブ(いなご豆)の花に出会えたことでした。
キャロブがつける黒いサヤの中の種子は大きさや重さがほぼ均一で、
宝石の重さを計る「カラット」の語源となったと言われていますが、マメ科のイメージとは少し違う花でした。
シラーズの「楽園」にクサボケやスイカズラなどのjaponica種も花を添えていました。
「薔薇とぶどう酒と詩人の町」と詠われたシラーズですが、
世界各地で生産されているシラーズ・ワインのブドウ種の原産地であるかどうかは諸説あるようです。
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イマームザーディエ・アリー・エブネ・ハムゼ
イランの国教と定められているイスラム・シーア派12イマーム派は、
12人のイマームの子孫達をイマームザーデ(聖廟)に祀り、深い信仰を捧げる場所としています。
シラーズには8代目のイマーム・レザー(766-818)の弟、セイイェド・ミール・アフマドの廟、
シャー・チェラーグ廟があり、シーア派の巡礼地とされていますが、
その廟内に入れるのはイスラム教徒のみということで、その弟のアリー・エブネ・ハムゼ廟を訪れました。
スズカケやオレンジを植えた前庭には泉池があり、その周りを囲む文字を刻んだ石の下はお墓だそうですが、
廟内に入るには上を歩くしかなく、これも異文化体験のひとつだったと言えそうです。
10Cに建立した後、地震によって崩壊、19Cに建て直された廟は壁や天井の全面が鏡やクリスタルで覆われ、
万華鏡の中に入り込んだような空間になっていました。
中央に設置された棺を囲む金属製の柵の一部にお賽銭を入れる場所があり、
献金がかなり入っているのが見られました。
マスジェド(モスク)はなくてもイマームザーデのない町はないと言われるイランで、
男女が同じ出入口を使用し、写真撮影も大丈夫という規律が例外的に緩やかなハムゼ廟でしたが、
このきらびやかな内部装飾は、今回訪れた数か所の聖廟に共通するものでした。
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日本語では廟と訳すしかなさそうですが、ペルシア語ではザーデでなく、アラームガーヘと呼ぶ
ハーフェズ廟(アラームガーヘ・ハーフェズ)に11時20分に到着しました。
スーフィズム(神秘主義)を象徴する帽子型の屋根の東屋風建物の中央に
シャムソッディーン・ムハンマド・ハーフェズ(AD1326−1390)の大理石の棺が安置されていました。
神=最愛の恋人、酒=神の聖なる贈物として、「神への愛」と「地上の愛」を詠い、
「秘奥の舌」と呼ばれる神秘的で様々な解釈が可能なハーフェズのメッセージは、
イスラムの異端を辛うじて切り抜け、ゲーテの「西東詩集」に詩想を与えたと言われています。
「わが墓の傍に酒を持ち楽師を連れて坐れ そなたの芳香で私は墓から踊りながら起き上ろう」
「わが墓の傍を通るとき祝福をくちずさめ 世の退屈男たちの巡礼場となろうから」
・・・・・・・・・・・・・・・
棺に彫られた詩を朗読するアリーさんのペルシア語にかすかに美しい韻律を感じることができました。
その傍らで、幼い男の子達が「地上の愛」を?実演して見せてくれました。
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ハーフェズ廟の広くて美しい庭園の中には共同墓地の他、礼拝所、ハーフェズ研究センター、展示室、
チャイハネ(喫茶店)、売店などがありました。
エキゾチックな装丁やペルシア文字に惹かれ、読めなくてもいいからと小型のハーフェズ詩集を買ったのですが、
後で開いてみると、英訳のページもあり、宿題をもらった有難迷惑な気分も・・・という所でした。
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人の多い観光スポットに入ったこの頃から、フリータイムに、イラン人との‘交流’が増えていきました。
左は両親にカメラを向けていた男の子を見かけ、家族揃った所を撮りましょうかと声をかけたら、
その5歳の男の子とツーショットで撮ることになったもので、
右は男性からカメラを差し出され、家族集合のシャッターを押してほしいと頼まれたのかと思ったら、
「あなたを撮りたい」と達者な日本語で話しかけられて写したものです。
埼玉のゴルフ場で働いていたという男性は、現在は一家でオタワに在住ということで、
90年代のイラン人の典型的な移動パターンのひとつを見た思いでしたが、
日本人を懐しがってくれる様子に少し安心しました。
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門の外に来園者にハーフェズの詩占いを売り付ける2人組がいましたが、
「そなたと結ばれる吉報はいずこ 私は生命を捧げよう 私は天国の鳥 この世の罠から抜け出そう」
などと多様に解釈できる詩句は占い向きで、
コーランと共にハーフェズ詩集を家庭に常備するイラン人は詩占いに興ずることを好むそうです。
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12時にハーフェズ廟を出発し、ザンド朝のキャリーム・ハーンが居城とした城塞前で写真タイムが取られました。
入口門にユニークなタイル画をはめ込み、四隅に端正な彫刻が施された円塔を配した城塞は、
後に牢獄としても使われたと言われています。
地盤沈下によって傾いたという円塔もありましたが、
沈下の原因をお風呂で使われた大量の水とする説の真偽のほどは分りません。
「イラン風中華料理」というこの日のランチは、お店に入って「おでん」という飾りを見た途端、
ますます期待薄になっていったのですが、料理酒さえ使えない環境で、
中国人シェフが頑張った味を出していて、イラン料理の合間の良いアクセントになりました。
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サアディー廟 |
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昼食後、街の郊外にあるサアディー廟へ行きました。
バグダッドの最高学府に学んだ後、托鉢僧の姿で北アフリカから西アジア、インドまで30年間旅を続け、
様々な階層の人と交わり、十字軍の捕虜にもなったと言われるサアディー(AD1213−1291)は、
1256年にシラーズに戻った後に流浪体験をもとに「果樹園」や「薔薇園」などを著した思想家、詩人です。
1930年に再建された廟の中央に大理石の棺が置かれ、周りを詩を刻んだタイル壁が取り囲んでいました。
「ことばもて、ひとは獣にまさる。されど、正しく話さざれば、獣、汝にまさるべし」などと
思索に富んだ箴言は、今なおイラン人の道徳規範とされ、子供達にも学ばれているそうです。
現在はチャイハネとして使われている庭園地下のカナート跡も見学しました。
池の中では投げ込まれた硬貨と魚が共存していて、現役で機能している水施設のようでした。
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ナシール・アル・モルク・モスク |
シラーズの最後の観光としてナシール・アル・モルク・モスクへ立ち寄りました。
シラーズ市長であったナシール・アル・モルクが家族のために私財を投じて19Cに建築したモスクでは
夏・冬用に分れた礼拝室や牛の力で水をくみ上げたカナートなどを見学しました。
モンゴル様式といわれる六角形の低目のミナレットが独特でした。
このモスクがローズ・モスクとも呼ばれる由来は、タイルの色合いや図柄やを見れば一目瞭然です。
ヨーロッパとも交易し裕福な商人であったといわれるナシール・アル・モルクの
ヨーロッパの建物をタイルに描き、ステンドグラスも採用したユニークなモスクでした。
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イーワーン(3方を壁で囲み、前面にアーチ型の開口部をとった構造物)を中央に置いた回廊が中庭を囲み、
技巧的なムカルナス(鍾乳石飾り)を多用した全体的な構成には伝統的なイスラム様式が見られました。
右写真は毎月のように海外旅行をし、肩こり、腰痛など経験したことがないという驚異のお話満載だった
今回の最高齢84歳のKさんに「あやからせてください!」とご一緒していただいた1枚です。
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シラーズ観光を終え、ペルセポリスに向かう前に、シラーズの玄関口であるコーラン門で写真を撮りました。
門の上部の小部屋にはコーランが置かれ、旅人の安全を見守っていると言われています。
この時は女性は4か月、男性は1年半、旅をしているという一瞬、国籍が分らなかった日本人若者に出会い、
長い旅をしている人特有の笑顔に誘われて、一緒にカメラに収まりました。
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タフテ・ジャムシード・イン |
シラーズから60km、1時間ほどバスを走らせて、4時半にペルセポリスのホテルに到着しました。
「ITTIC INNS PERSEPOLIS TOURIST COMPLEX」をタフテ・ジャムシード・インと呼ぶ理由は聞きそびれました。
7時からの夕食は、見た目は同じようですが、味の良さに定評がある元クルーズ船のシェフによるものでした。
魚料理の時はN添乗員さん持参のワサビとお醤油が人気を博していました。
夕食後8時から、この日ハーフェズ廟のショップで購入したキュロス2世の円筒碑文を前に、
N添乗員さんの「イランの歴史講座」が開催されました。
ダレイオス1世(在位:BC522−486)がサトラップ(総督)制を敷いてシルクロードの原型を作り、
貨幣統一、宗教保護という先進的な施策で帝国を繁栄させたアケメネス朝時代(BC550−330)、
アルデシール1世(在位:AD226−241)に始まるササン朝時代(AD226−651)に
シャプール1世(在位:241−272)がローマ帝国を破ったという所まで話が進んだ後、
同時代のパルミラのゼノビア女王の話に移って、講座が締め括られました。
莫大な資金、軍事力を持っていながら、ローマの軍門に下ったゼノビアの二つの不幸は、
シャプール1世の死亡を知らなかったこと、ローマのアウレリアヌス帝が賢帝であったことで、
もし彼女の支配が続いていれば、後のイスラム世界の膨張もなかったかもしれないという意見は、
「手本と仰ぐクレオパトラにでもなったかのように勢力拡張に執着」、
敗戦の「責任を、重臣たちに転嫁したのだ。自分は・・・・彼らの野心に利用されていただけなのだ、と。」と
「ローマ人の物語XU」に書く塩野さんとはかなり見解のへだたりが見られましたが、
ここに美女に弱い男性と同性に厳しい作家という構図が存在するかどうかはさておいて・・・。
1時間ほどの講座が終わり、外へ出ると、小雨がぱらついていて、星の観察は延期となりました。
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