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16 Dec.2010 |
Yazd〜Taft〜Yazd
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サファイエ・ホテル |
いよいよ迎えたアシュラの祭りはヤズド州の中でも宗教色の強いタフトの街で見物することになりました。
予想される混雑と駐車場確保のために、少し早目に、ホテルを8時に出発しました。
ヤズドから西へ20kmのタフトに30分ほどで到着しましたが、
川辺りの駐車場へ降りる手前で、大型トラックが道を塞ぎ、通行止めになっていましたので、
少し離れた場所でバスを降り、賑わいを見せる道を歩いて中心部へ向かいました。
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朝はサモワールで作ったチャイなど飲み物が中心のようでしたが、
ホレシュテ・ゲイメーと呼ばれる羊、豆、トマトのシチューなどアシュラ料理が振る舞われるこの日は、
家庭ではお料理をしなくて済むのだそうです。
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徒歩でも程なくタキイェと呼ばれるアシュラの祭りが行われる中央広場に到着しました。
右写真はナフルと呼ばれるお神輿で、
私達はその右手、既に見物人の姿が見える建物の上からお祭りを見物をしました。
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9時に最初の集団が広場へ入って来ました。
鎖を振るザンジール・ハニーの後から手で胸を打つスィーネ・ザニーが続き、
列が正面建物前に着くと、説教師が殉教の様子などを話し、全員が頭を垂れて哀悼の意を表します。
頭上にバラ水を振りかける様子も見られました。
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到着した時は骨組だけだったナフルに飾りの布が取り付けられる様子も間近かに見ることができました。
ホセインがナツメヤシの林の中で虐殺されたことに因み、ナフルはナツメヤシで造られているそうです。
布の中心には殉教の地カルバラのモスクの絵が描かれています。
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砂漠のカルバラで72人のホセイン軍がウマイヤ軍の大軍に包囲され、
水さえも断たれた苦しみの中で斬り死をとげ、殉教していった様子を表した山車が次々と入って来ると、
広場の熱狂は一気に高まっていくようでした。
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この2枚の写真はTV中継の場所近くで見ていた時にクルー関係者にカメラを託して、
よいアングルを狙っていただいたもので、右写真には座って見ている女性集団が写っています。
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私達が見物をしていた場所はこのような情景でしたが、
フェンス際に近付いて行くと、見やすい席を譲ってくれる人々がいたり、
「名前はなんですか」「何歳ですか」などと英語で尋ねる高校生達に出会って、
地元の人々との楽しい交流タイムともなりました。
名前はN添乗員さんが下さったペルシア文字のネームカードを見せると正確に読んでくれましたし、
年齢は隣にいたツアーメイトが「それは内緒」とうまく切り抜けてくれました。
こういうお祭りムードの中で、一人静かにコーランを読む年配の方の姿も見られました。
写真を撮ることは女学生や大人からは拒否されることもありましたが、
子供達はほぼ大丈夫で、むしろ大人から撮ってというような素振りを見せられることもありました。
かわいい子供達、はっとする程美しい少女や若い女性にもたくさん出会えました。
中学生以上は外出時、小学生は学校内だけで義務づけられているスカーフですが、
この日は女の子はみんなスカーフをかぶっているようでした。
カメラを託して写真を撮ってもらったTV関係の男性や好奇心旺盛な高校生達ともカメラに収まりました。
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ホセイン軍が殉教した午前中がとりわけ重要とされるお祭りはいつ果てるともなく続きそうでしたが、
2時間近く楽しんだ後、10時45分に集合し、日干し煉瓦建物の屋上特等席を降りて、
ヤズドへの帰途につきました。
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街中、人であふれかえっているようなタフトでしたが、バスまでは迷いようのない一本道で、
時にツアーメイトの姿を見失っても迷う心配はありませんでした。
ターバンを巻いているシーア派の聖職者は黒いターバンの人がムハンマドと血のつながりを持ち、
セイイェドと呼ばれていっそうの尊敬を集めているそうです。
ミニチュアのナフルを売るお店もありました。
途中で山車の列に再び出会いました。
72人が虐殺された所に夜やって来て、涙を流していたというライオンが
命乞いをしたけれど認められなかった赤ちゃんを前にして悲嘆にくれている様子、
砂漠のテントの場面(ウマイア軍?)、首を落とされた人々のリアルな姿まであり、
(足裏を「コチョコチョしてみませんか?」とN添乗員さんがそそのかす程、微動だにしない‘死体’でした。)
信仰とショーが渾然と入り混じったアシュラの祭りでした。
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チャイやナンを振る舞われながら、道行く家族連れと話をしたり、
撮っている筈が撮られている場面をキャッチしたり、様々な場面を楽しみながら、
ゆっくりと1時間かけてバスへ戻りました。
12時半から元税務署(=モシール)だったという18Cの建物のレストランでランチとなりました。
この日は大皿で供された様々な肉のケバブを少しずつ取り分けていただきました。
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午後のヤズド観光はアミール・チャグマーグのタキイェから始まりました。
15Cのヤズドの支配者であったアミール・チャグマーグの名前を冠したタキイェは、
タフトのタキイェよりはるかに大きく美しい広場でしたが、現在はアシュラの祭りも行われないようで、
アフガニスタン難民が所在無げに座り込む姿が目に付きました。
120人でかつぐと言われる国内最大のナフル
広場の周りをバザールや大きなバードギール(風採り塔)を持つ建物が取り囲んでいました。
この時、説明をしているアリーさんの近くに寄り、話に耳を傾け、連れに「ジャポネ」と言った後、
私達に日本語で話しかけて来た女性はヘジャブがすっかり板についたヤズド大学の日本人研究者でした。
1272年にこの地を訪れたマルコポーロが「学識の高い、すぐれた人々の住む、美しい高貴な街」と
書き残した魅力を今も留めているヤズドかもしれません。
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次に向かったのは2004年の大地震で崩壊したイラン南東部の世界遺産バムに次ぐ規模を持つ
日干し煉瓦造りの家屋が残る旧市街の一画でした。
国内最大と言われる19Cの貯水池前から街に入って行きましたが、
家々の中の様子が窺い知れない高い土塀に囲まれた迷路が続いていました。
ゴシック建築に影響を与えたと言われる煉瓦を積んで造ったササン朝アーチ、
地震対策のアーチ型構造物、石や焼成レンガで作った雨どいなど
砂漠の地ならではの知恵が随所に残されている500年前の建物群は、
今年(2011年)、世界遺産に指定されるだろうと言われています。
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貯水池 |
集会所 |
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沈黙の塔 |
沈黙の塔内部 |
この日最後の見学はヤズド郊外の沈黙の塔(=ダフメ)でした。
入口の門を抜けるとバードギールとセットになった貯水池や集会所として使われた建物が点在し、
その奥に直径10mほどの2つの沈黙の塔が荒野の中に立っているのが見えました。
2つの塔は男性用、女性用と称されていますが、実際はそのような区別をせずに使われていたようです。
下の集会所で葬儀が行われた後、 内部の階段から運ばれた遺体は石の上に放置され、
骨となった後、真中の穴へ投げ込まれたそうです。
ゾロアスター教で神聖とされる火を汚さないためにイランでは風葬と呼ぶ自然葬が行われていたのですが、
ハゲタカなどの鳥がやって来て3〜4日で食べ尽し、結果的には、鳥葬となっていったようです。
残った骨は塩酸などの薬品で溶かされたと言われます。
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私達が上ったのは女性用と称する右手の低めの塔でしたが、
滑りやすい砂地の足場の悪さを我慢して上った頂上にはヤズドの街の眺望が開けていました。
左写真の中央は1930年代に風葬が禁止された後、土葬されるようになったゾロアスター教徒の墓地で、
遠くにヤズドの新市街が見え、右側には点々と建つ工場が見られました。
車窓から時々見られたペルシア文字のようなスカイラインの山並みがここからも見渡せました。
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若者のバイク乗り場ともなっている塔の下でスナップ写真を撮り、
沈黙の塔の有名人と言われる85歳の管理人のロバおじさんと25歳のロバ君の姿をカメラに収めて、
1時間ほどの見学を終え、4時半前にホテルへ戻りました。
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夕方、N添乗員さんと希望者8名で街まで散歩に出掛けました。
アトゥラスィー広場では血の色の噴水や山車に参加した人達がお祭りの余韻を漂わせていました。
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お祭りでお店は休みではないかと半ば諦めていたのですが、
昨夜の夕食のデザートで好評だったヤズドのお菓子「ゴッタブ」が手に入ったのが大きな収穫でした。
すいかやざくろなど冬の日本とは違う果物店、黒いヘジャブの下は・・・?と思わせる洋品店などを見ながら、
アシュラの祭りの熱気を残した街を1時間ほど散策しました。
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7時からウィンナー・シュニッツェルに似たビーフかつと小さな傘を飾ったアイスクリームという
美味しくも国籍不明な夕食をいただきました。
実は4〜5日目から携帯メールが不具合で、家への連絡が途絶えていましたので、
部屋から国際電話がかけられるヤズドへ到着してから、折を見て電話をかけていたのですが不在続きで、
この日、観光を終えて部屋へ戻った日本時間の夜10時にようやく通じた長女から、
帯状疱疹の悪化で夫が昨日入院したことを知らされました。
その方がむしろ安心という結論に至りましたが、夫にとっては6日間の初入院体験となりました。
家族達が「きっと落したに違いない」と噂をしていたという私の携帯電話は
バッテリーパックの消耗が原因ではないかと思っていたのですが、
帰国後、電池式の充電器が海外使用にはパワー不足で不向きであったことが分りました。
因みに電話代は3〜4分で3〜4ドル、葉書切手代は10円程と通信費の安いイランでした。
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