「もしも彼の治世が十九ヶ月でなくて十九年であったとしたら・・・・宗教は、現世の利益とは無関係の、
個々人の魂を救済するためにのみ存在するもの、にもどっていたのではないだろうか。
宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、
一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか、と思う。」 (「ローマ人の物語]W キリスト教の勝利」)
塩野七生さんがこのように描くローマ皇帝ユリアヌスと出会ったことをきっかけに、
辻邦生著「背教者ユリアヌス」を読んでみました。
シチリア以来の旅仲間と6月に上高地へ行った時、ユリアヌスがガリア軍団を率いてドナウ河をひそかに下り、
コンスタンティウス討伐に向った場面を読んでいた私は、
「秋にユリアヌス・ツアー、ドナウ・クルーズをしませんか。」とお誘いをかけました。
早速、興味を持ってくださった名古屋のK夫妻に続いて、2組の方と共に、ほとんど日をおかずに、
キャンセル待ちという状況ながら、4組の申込みをしました。
ユリアヌスやドナウ河で同報メールが盛り上がったものの、最終的に2組の方のご都合が悪くなり、
参加は2組になってしまいましたが、キャンセル待ちは解除され、席も無事確保されました。
ヨーロッパ2番目の大河川、長さ2800kmを超すドナウ河下流の1400km区域、
ハンガリー、セルビア、ブルガリア、ルーマニアが今回訪れる国々です。
弾薬庫と呼ばれるバルカン半島を、国境を作りながら、縫うように流れるドナウ河に、
4世紀のユリアヌスを求めるのは無理と承知しながら、古代ロマンと変貌する中欧の旅に
本や音楽に触れながら、徐々に期待を高めて行きました。
そして、いよいよ出発!と、旅の荷造りをほぼ終えた10月24日の夜9時過ぎのこと・・・・。
「ここ数日間の天候異常でブダペスト下流域の一部が渇水、水位の低下で下りの航行が危ぶまれる状況に
なりましたので、ブダペストから上る航路に変更させていただきたい。ドラキュラ城の代わりとして白鳥城へ
ご案内させていただきます。」というNトラベルからの電話が一瞬の中に期待を打ち崩してくれました。
しばし呆然としてしまいましたが、2週間の休みを調整したことだし、一部、95年に訪れた所とダブるにしても、
ドナウ河の景観は下流域より優れているだろうし・・・とキャンセルしないことを決め、
ご一緒する名古屋のK夫妻とも確認電話を取り合うまでには、さほどの時間を要しませんでした。
翌25日の朝9時半頃に参加するかどうかの確認、10時半に最終的にツアー催行が決まったという電話が
Nトラベルから入り、いよいよ本格的に頭の中を下りから、上り航路へと切り替えることになりました。
改めてパンフレットを出して秋のドナウ・クルーズの全コースを見ると、ドイツのパッサウで下船後、
ザルツブルグ、インスブルグを経て、白鳥城(ノイシュバンシュタイン城)へ行くコースがあり、
そのルートを辿るのだろうと、オーストリア横断をガイドブックで確認したりした旅前日でした。
夜7時を過ぎてNトラベルから、13時5分発のアリタリアから、11時30分発のKLMにフライトを変更するという
どたばたの止めのような電話が入りましたが、乗りかかった船からは下りられないし、
もうとことんお付き合いしましょう!という気分になっていました。
・・・・・と、何はともあれ、26日からドナウ・クルーズの旅が始まりました。
上の地図のC-2コース、ブダペストからパッサウまで、ウィーンでの停泊が1日増えて、8泊9日の船旅と、
ミュンヘン2泊、アムステルダム1泊というのが2週間の旅の全容です。
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