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Nov 5 2006
Munich〜Hohenschwangau〜Wieskirche〜Munich
   
マキシミリアン通り
   
朝食後、観光に出発する前にホテル前のマキシミリアン通りを散歩しました。
左写真の行き止まり、マックス・ヨーゼフ広場と、右写真正面の州議会マキシニリアノイムを結んでいるのが
マキシミリアン通りで、マックス・ヨーゼフ(マキシミリアン1世)の孫に当るマキシミリアン2世が
都市計画の一環として1853年に建設を着手した全長1200mのノイエ・シュトラーセ(新通り)です。
車の少ない日曜日の朝8時過ぎに通りの真中から写真を撮りました。
   

イザール川
マキシミリアン2世像
オーバーバイエルン議事堂 州立民族学博物館
ケンピンスキー・ホテル エルメスとカルティエの店
 

12世紀から20世紀初めまでバイエルンを統治したヴィッテルスバッハ家の学問や芸術をこよなく愛した君主達に
よって建設された建築物や収集した美術品であふれたミュンヘンはイザール河畔のアテネとも呼ばれるそうです。

ドナウ河支流イザール川の橋の上にマキシミリアン2世像が立っていました。
通りの中程にはマキシミリアン2世のミュンヘン美化構想に基づくマキシミリアン様式で建てられた
オーバーバイエルン議事堂や民族学博物館があり、帰って来てから分かったことですが、
この博物館にはシーボルト寄贈の日本の展示品もあるようです。

ケンピンスキー・ホテルの向い側はエルメスとカルティエ、この辺りからマックス・ヨーゼフ広場に向って
名だたるブランド店が軒を連ねていて、ミュンヘンで最も地価が高い通りであるということが納得出来ます。

 

 
 

8時50分、バスに乗ってホーエンシュバンガウへ向かいました。
建物の屋根や窪地に雪が残る田園風景の中を2時間バスを走らせると、前方に現われたのは
雪を冠したチロル・アルプスの山々です。息をのむ、という表現がぴったりの崇高ともいえる美しさでした。

 

 

ホーエンシュバンガウ城
ノイシュバンシュタイン城
 

バスを降りると小高い丘の上に、ルートヴィッヒ2世が生涯の大半を過ごしたというホーエンシュバンガウ城が
見えました。右はシャトル・バスで山の途中まで上り、段々近付いていくノイシュバンシュタイン城です。

たまたま見た添乗員ブログによると、前々日の3日には雪でシャトルバスが運休になり、
そのツアーは麓から歩いてお城まで上ったそうです。
雨の予報が外れ、先ず先ずのお天気になりましたし、寒さもゆるんで、本当に天候にも恵まれた旅となりました。
ここホーエンシュバンガウは、アウグスブルグからアルプスを経由してローマに至る
古代ローマ帝国のクラウディア街道の重要な交易地であったそうです。

 
マリエン橋から見たノイシュバンシュタイン城
ホーエンシュバンガウ方面 マリエン橋

ヴィッテルスバッハ家紋章

城門館
ルートヴィッヒ2世
 
ルートヴィッヒ2世はマキシミリアン2世とプロイセン王家ハノーバー家の王女マリーの間の長男として
1845年8月にミュンヘンで生まれました。
1864年3月に父マキシミリアンが逝去、18歳半ばで政治経験もないまま王位に付いたそうです。

ノイシュバンシュタイン城(ノイ=新しい、シュバン=白鳥、シュタイン=石)はルードヴィッヒ2世の構想によって
1869年9月に着工、1884年には王の住居には入居できるようになったそうですが、
1886年、王の突然の謎の死によって工事は中断され、未完成のまま残されている白鳥城と呼ばれるお城です。
 

 

歌人の広間

寝室
居間
 

16歳の時、ミュンヘンの歌劇場でオペラ「ローエングリン」を観てワーグナーと運命的な出会いをした
ルートヴィッヒによって造られた白鳥城は、パルシファル伝説による歌人の広間、ローエングリンの居間、
トリスタンとイゾルテの寝室など、全館がワーグナー歌劇場の趣きです。
館内は撮影禁止でしたので、ガイドブックからほんの一部をご紹介させていただきましたが、
将来、「特別にルートヴィッヒのお部屋をご用意しました。」というツアーが出来たとしても、
おそらく泊まりたいとまで思う人はいませんよね!?
ワーグナー没後50周年を記念して1933年に歌人の広間で行なわれた祝祭コンサートが、
戦争や資金難で中断した後、1969年から再開されるようになったそうですので、
そちらのご招待ならうれしいと思うかもしれませんが。

年間100万人の観光客が訪れるという白鳥城は1992年にここを訪れた時よりはるかにシスティマティックに
館内を見て回る仕組が出来ていました。
先ず入場券に刻印された時間に電光掲示板の指示に従って自動ゲートから入場、
受付でオーディオ・ガイド機が渡されますが、説明ポイントへ行くと自然と?日本語が流れてくる優れものです。
最近の展覧会と同じシステムですが、何ヶ国語かが用意されている所に感心させられました。
今回は人民服を着た中国人の団体が多かった様子です。
莫大な借金によって造られたノイシュバンシュタイン城も、もうとっくに黒字に転換しているだろうと思われました。
精神病という偽鑑定書によって謎の死に追い込まれたルートヴィッヒ2世ですが、
バイエルンでは今も愛されている王様の1人だそうです。

 

 
玉座の間からのアルプ湖方面眺望

下山
 
城内の窓から見る自然の風景に安らぎを感じたりしながら、1時間余り白鳥城を見学した後、
マリエン橋から白鳥城の眺望を楽しみました。
白鳥城といえば出て来る景色ですが、やはり絵のように美しい景観です。
ルートヴィッヒは、母マリーに因んで名付けられたマリエン橋から夜の白鳥城を眺めることを好んだそうですが、
城館全体を照明で明るくするのは大変な仕事だったようです。
白鳥城の遠望を堪能した後、Eさん、K夫妻と5人で麓まで歩いて戻りました。
馬車に乗ることも出来ますが、大した距離ではありませんし、何より、林の中を歩くのはとても気持を
さわやかにしてくれます。馬車やバス用に道が舗装されていたのがちょっと残念でしたけれど・・・。

麓にある古いホテル、ミューラーでランチを取りました。観光客相手のレストランに多くは期待できませんが、
それに合せたように今回の料理写真は完璧なピンぼけ・・・。食べきれないビーフ料理でした。

帰りのバスに向う前方の山の中腹に、まわりと隔絶し、孤高ともいえる姿で白鳥城が佇んでいました。
 

 
ヴィース教会
 
ノイシュバンシュタイン城からほど近い世界遺産ヴィース教会へ寄りました。

イエスが余りにも悲惨な姿をしていた為、1734年にシュタインガーデン修道院附属の食堂主人に引き渡された後、
屋根裏に置き忘れられていた‘鞭打たれる救い主の木像’を農婦マリア・ロリーが譲り受け、
熱心なお祈りを捧げていると、1738年に木像の顔に涙が流れるのを見たという奇蹟によって、
巡礼教会となったのがヴィース教会の始まりです。
ロリー夫妻が1739年に建てた小礼拝堂を復元したものが手前にある小さな建物です。
巡礼者、観光客を合わせ、ここにも世界各国から年間100万人もの人が訪れているそうです。
 

 
 
1745年から1754年に建築されたヴィース教会は1985年から91年までの大規模な内外装改装工事によって、
創設当時のロココ様式の姿に完全に再現されたそうです。
18世紀の最高の職人によって作られた教会は、ヨーロッパで最も美しいロココ教会と賛美されています。
華やかで、きらびやかな教会でした。
 

 
ヴィース教会の周り 帰りの車窓
 
ヴィース=草原の名の通り、美しい草原地帯が広がるヴィース教会を後にして帰途につきました。
帰りのバスの車窓も、緑の多い美しい景色がミュンヘン市内に入る少し前まで続いていました。
多くの家々の軒下には新しい薪がきれいに高く積み上げられ、冬が近いことを報せているようでした。
 

 
 
ホテルに戻って、昨夜と同じホテル内のレストランで夕食をとりました。
ほうれんそう詰ラビオリ、ポーク・フィレ、ベリータルトとアイスクリームというメニューでしたが、
シェフが昨夜とは違うのではという印象を受けました。見た目、味、分量がオーソドックスというか古い感じです。
日曜日シフトの厨房に想像を逞しくしてみたりしました。
 

 

ホーフブロイハウス
 
夕食後、K添乗員さんと希望者7人で、ホテルから歩いてすぐのビアホール‘ホーフブロイハウス’へ行きました。
ドイツ全国の3分の2のビール醸造所が集るというバイエルン州にはビアホールが数多くあるそうですが、
中でも1589年設立のホーフブロイハウスは由緒ある王室醸造所で、
ヒットラーが演説したことでも有名な1200人収容可能なビアホールです。
生演奏、楽しそうなおしゃべりでホール内は大変な賑わいでした。
K添乗員さんはさすが山男!の飲みっぷりでした。私はほんの真似事で・・・・。(本当です?)
外に出て記念撮影をと思ったら、あっという間に人懐っこいといわれるミュンヘンっ子?カップルに
両側から挟まれてしまいました。ビアホール前ならではの光景ですね。
 

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