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Oct 30 2006
Wien
 
 

船のデッキから見た朝のウィーンの景色です。
対岸は1964年の国際園芸博覧会の開催を記念して開園したドナウパーク方面で、
左側に高さ250mのドナウタワー、右側に国連都市の建物群が見えています。
タワーの展望テラスからは晴れた日にはアルプスの山々や遠くハンガリー平原まで望めるそうですが、
高樹のぶ子著「百年の預言」ではルーマニアの亡命音楽家が身を投げる悲しい場所として設定されています。
大きな港でオオハクチョウの一群を見ることが多かったのは河の景観としては良いのですが、
観光客に餌をもらい慣れた感じはちょっと興ざめを禁じえませんでした。
右の写真の大きな教会はフランツ・ヨゼフ皇帝即位50周年を記念して1898年に造られたものです。

 

   
シェーンブルン宮殿
グロリエッテ
 

9時過ぎに下船し、バスでウィーン観光に向かいました。
市内中心部を車窓観光しながら、最初に行ったのは1996年に世界遺産に登録されたハプスブルク家の居城、
シェーンブルン宮殿です。
マクシミリアンU世が1569年に購入、1612年にマティアス皇帝が狩猟中に美しい泉(シェーナー・ブルネン)を
発見したことからシェーンブルンと名付けられたこの宮殿は、1683年にトルコ軍に破壊された後、
レオポルドT世がヴェルサイユ宮殿を上回る宮殿を目指して再建に着手したそうです。
そしてそのバロック宮殿にロココ様式を加え、今見られる形にしたのが、1740年に23歳で即位した
マリア・テレジア女帝で、建物の外観の黄色はマリア・テレジア・イエローと呼ばれています。

男子皇位継承者が途絶えた後のハプスブルク家を受け継いだマリア・テレジアは、
干渉戦争を仕掛けてくる周辺各国に対して、強い精神力と優れた政治手腕で、
このシェーンブルン宮殿で華々しい外交を展開したそうです。
有名な「会議は踊る」のウィーン会議が開かれた大広間や、ビリヤードの間、鏡の間、漆の間など
1441部屋もあるという宮殿内のきらびやかなロココ朝の部屋のほんの一部を見学して回った後、
幾何学的に整えられた広大な庭園の方に回りました。
遠くに見えるグロリエッテはプロイセンとの戦いの戦勝記念に1775年にマリア・テレジアが建てたパビリオンで、
上部には帝国の象徴、巨大な鷲が地球の上に立って翼を広げているそうですが、以前にここへ来た11年前も、
今回もそこまで歩く時間がありませんでした。次回に3度目の正直を期したい所です。

庭園では保母さんに連れられて来て遊ぶ幼児達を見かけました。
この庭園は既にマリア・テレジアの時代から市民に公開されていたそうですが、申請すれば
屋内のサロン等も見学可能だったそうで、こんな所も彼女が国民から慕われた理由のひとつかもしれません。

ところが帰国後、たまたま見たNHKの世界遺産番組で、
現在はこの宮殿を賃貸住宅として使っていると報じていて、本当にびっくりしてしまいました。
王朝終焉後、オーストリア共和国の財産となったものを、1992年に政府出資会社、
シェーンブルン宮殿文化施設管理会社を設立、住宅難解消のために、
展示スペースの2階以外の大部分の部屋を賃貸住宅として供与し、管理しているのだそうです。
室内を無断で改造しない、外観を損ねる目立つ色のカーテンは禁止という程度の条件で、
入居資格は特になく、100uの部屋で10数万円の家賃だそうですが、ウィーン市民にも余り知られていなく、
知っていても古さに失望して帰る人も多く、現在の入居者は250世帯だそうです。
年間220万人もの観光客が訪れる宮殿の裏側で、そんな日常生活が営まれているとは、
ちょっと面白い話だと思いましたが、 愉快に感じるか、夢が損なわれるかは微妙な所です。

   

 
市庁舎 国会議事堂

リンクを走るトラム
ヴォティーフ教会遠望
カールスプラッツ駅 セセッシオン(分離派会館)
 

バロック、ネオ・ゴシック、アール・ヌーヴォーなど様々な様式でウィーンの街を彩る建築物の数々は、
バスの車窓にみるだけでも魅力的な存在感がありました。
上の4枚はトラムの電線が邪魔をしていますが、建物や街の様子はお伝え出来るでしょうか。
見所満載のウィーンの街は、何度訪れても、興味の尽きない都市のひとつだと思います。

 

 
 
‘シェランメルバ−’というお店でブロッコリーのポタージュ、鱒のムニエル、ケーキのランチをいただきました。
鱒が何だか落ち着かない頭の向きでしたので、他の方のお皿を見ると、
そんなことはどうでもよいという風に、ばらばらな方向を向いていました。
この位の店構えをしている日本のお店ではあり得ない盛り付けでしたが、鱒は新鮮で美味しかったです。
 

 
ウィーンの森 リヒテンシュタイン城

シューベルトゆかりのレストラン‘ヘルドリヒスミューレ亭’
 
午後はウィーンの森へ行きました。
ウィーンを取り巻く小高い山を‘ウィーンの森’と称し、その広さは東京23区の倍以上もあるそうです。
トルコに破壊された後、リヒテンシュタインによって18世紀に再建されたロマネスク様式のリヒテンシュタイン城や
シューベルトが‘菩提樹’や‘美しい水車小屋の娘’の作曲をしたというレストランで写真タイムを取りながら、
住宅街が点在する黄葉の森の中をバスで走りました。
 

 
 
次に寄ったのがオーストリア辺境伯、バーベンベルク家のレオポルトV世によって1133年に設立された
シトー派のハイりゲンクロイツ修道院で、第3回十字軍遠征の折、
レオポルトX世がエルサレム王から贈られ、この修道院に保管された聖遺物、
聖十字架(ハイリゲンクロイツ)の一片が、この修道院の名前の由来になっているそうです。
また祖国のために闘った激しい戦闘の後、レオポルトX世が胴に巻いていた帯を外した所、
着衣の上下は血で真っ赤に染まっていたのに、帯の部分だけが真っ白だったという伝説から、
赤、白、赤のオーストリア国旗が制定されたそうです。

95年にここを訪れた時はステンドグラスが美しい教会内部を見学しましたが、
今回は少し立ち寄っただけで、3つの窓がシトー派の特徴を表すロマネスク建築の教会正面や回廊、
前庭の三位一体のペスト記念柱など外部だけを見学しました。
現在ここでは72人の修道士が祈りと労働の自給自足の生活を送っているそうです。
 

 
 

ウィーンの森で最後に寄ったのがマイヤーリンクでした。
ここはフランツ・ヨゼフとエリザベートの1人息子、ルドルフ皇太子が17歳の男爵令嬢マリー・ベッツェラを道連れに
1889年にピストル自殺をした場所で、フランツ・ヨゼフ皇帝はこの場所をカルメル派修道院とし、
皇太子をまつる祭壇を作らせています。ハンガリー政策に対する皇帝と皇太子の間の意見の対立、
ステファニー皇太子妃との不幸な結婚が悲劇を呼んだともいわれていますが、
事件の真相はいまだ謎に包まれているようです。
かってはハイリゲンクロイツ修道院の所有地だった場所を、フランツ・ヨゼフ皇帝とルドルフ皇太子が
1886年に狩猟用の領地として買ったマイヤーリンクは、今も静かで寂しい佇まいを見せていました。
カトリーヌ・ドヌーヴ主演映画「うたかたの恋」を思い出される方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

 
メニューにほうれん草の胡麻和え、肉じゃが、なめこ汁という
和食が加わりましたが、私が選んだのはひらめのフィレ、
小海老のバターソースという洋食でした。
スープ風に見えた肉じゃがはやはり今ひとつだったようです。

この夜は「ラストサムライ」が上映されるということでしたが、
私達は部屋でゆっくり本を読んで過ごしました。
ウィーンに停泊するこの1日は自分達で自由にウィーンを歩けば
良かったというのがこの旅唯一の心残りとなりました。
 

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