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Oct 31 2006
Wien〜Krems
 
セレナーデ号の朝
 

セレナーデ号の朝はO駐在員さんの船内放送、7時15分からのラジオ体操で目覚めていきます。
ラジオ体操風景が軍隊のように見えるという外国人クルー達も、
日本語挨拶の集団特訓などで、かなり日本式に馴染んで来ているようです。

観光に出発するまでの時間にK夫妻と4人で、フランツ・ヨゼフ50周年記念教会まで散歩に行きました。
旅先のジュネーブでイタリア人アナーキストに皇妃エリザベートが暗殺された1898年に
建造されたという皮肉な運命をまといながら、ドナウ河沿いに堂々と立っている教会です。
壁面を飾る優美なレリーフが天国に召されるシシィを表しているようでした。

 

 
   
   

0時に美術史美術館が開くまでに時間の余裕がありましたので、シュテファン寺院へ寄りました。
ウィーンのシンボルともいえる寺院は、近くからではとてもカメラに収まりきらない大きさですので、
広場に置かれていた模型で全容をご覧下さい。
1359年から65年をかけて造った137mの南塔は、寺院の塔では世界3番目の高さだそうです。

観光用馬車が列をなす広場から、この寺院で結婚式、葬式を行ったというモーツアルトのレリーフや、
ハプスブルク家紋章である双頭の鷲のタイルが美しい屋根などを見ながら内部に入りました。
作者アントン・ピルグラム本人が覗き窓から身をのりだしているという石造りの説教台のまわりを
先生に引率された小学生が取り囲んでいましたが、
興味がなさそうな子供達が混じっているのは世の東西を問わないようでした。

   

 
 
美術史美術館と自然史博物館のほぼ同じ建物が向き合い、その真中にマリア・テレジア像が立つ一画は
ハプスブルク家の栄光の時代を最も色濃く残している場所のひとつです。
様々な色の大理石で作られた入口のホール、大階段、天井の絵画など建物全体が美術品といわれる
美術史美術館へ行きましたが、結局、今回もヨーロッパ絵画だけ見て回り、エジプト、古代ギリシア・ローマ時代の
作品には行きつかなかったという厖大過ぎるコレクションを持つ王家の美術館です。
写真はノン・フラッシュであれば見逃されるようでしたので、性懲りもなく?有名作品を写して来ました。
作品目録のほんの一部としてご覧ください。
 

 
ブリューゲル「バベルの塔」 ブリューゲル「雪中の狩人」 ルーベンス「古代の4大河川」
レンブラント「大自画像」 フェルメール「絵画芸術の寓意」 アルチンボルド「夏」

デューラー「皇帝マクシミリアンT世」

シュトリーゲル「マクシミリアンと家族」 ベラスケス「王女マルガリータ」
 

 
 

ウィーンの目抜き通りケルントナー通りのお店でウィンナー・シュニッツエル(仔牛のカツ)のランチをいただきました。
今回の旅ではワインだけではなく、ビールも度々登場しました。
酸味のあるチョコレート・ケーキのデザートはとてもおいしくて、お腹いっぱいと言いつつ残さず食べてしまいました。

 

 
ベルヴェデーレ宮殿上宮
ベロット「ベルヴェデーレ宮殿からみたウィーン」 上宮から望むウィーン市街

ムンク「浜辺の夏の夜」

セガンティーニ「悪しき母親」

エゴン・シーレ「死と乙女」
クリムト「接吻」

午後の2時間余りの自由時間はK夫人は大観覧車(「第三の男」で有名です。)に乗るためにタクシーでプラターへ、
夫は1人でトラムに乗ったり、買物をしたいと中心地に残り、Kさんと私はK添乗員さんとバスで
ベルヴェデーレ宮殿の美術館へ行くグループに加わりました。

トルコのウィーン攻撃の時、撃退の総司令官として活躍したプリンツ・オイゲン公の夏の離宮として、
18世紀初頭に建てられたベルヴェデーレ宮殿は上宮と下宮に分かれたバロック様式の壮大な宮殿です。
美術史美術館所蔵のイタリア人画家ベロットが描いた「ベルヴェデーレ宮殿からみたウィーン」(1760年頃)と、
同方向の写真を並べてみました。シュテファン寺院の尖塔やサレジア会教会のドーム、
カーレンベルグやレオポルドベルグの丘など250年前と余り変わらない景色が広がっています。

上宮のベルヴェデーレ美術館でお目当てのクリムトやエゴン・シーレを堪能しましたが、
同様に分離派のメンバーであったジョバンニ・セガンティーニがこの美術館の開館祝いとして寄贈したという
「悪しき母親」というタイトルの105×200cmの大きな作品に強烈な印象を受けました。
夕方の微光に沈みかけたアルプスの山々と木につながれた母親達・・・・。深い象徴性を秘めた怖い作品でした。
ゴッホも「オーヴェルス平野」という作品を贈っているそうです。
(ムンク、シーレは撮影禁止と知らずにカメラにおさめたものですが、他は図録から取りました。)

因みに現在上映中の映画「クリムト」は、ハプスブルク帝国が640年の歴史を閉じたと同じ1918年に
クリムトが臨終を迎えた所から話が始まります。見舞う人すらいないクリムトの死の床を訪れた
愛弟子のエゴン・シーレもまた同じ年の秋にスペイン風邪で世を去ってしまうのですね。
幻想的な世紀末のウィーンに触れてみたい方は、どうぞご覧になってください。

   

 

シュテファン寺院北塔からの眺望

プムメリンの説明プレート
ホテル・ザッハー
   

3時20分頃、ケルントナー通り近くに戻り、残り30分のフリータイムにKさんとシュテファン寺院へ行き、
エレベーターで北塔にあがってウィーンの街の眺望を楽しみました。
歩いて南塔に登ったという夫は、まわりがネットに覆われていて、全く期待はずれの眺めだったそうですが、
高さでは負けるものの北塔からの眺めはなかなかのものでした。
1683年にトルコ軍が敗れた時に置き去りにした大砲などを溶かして作ったという大きな鐘プムメリンは、
初めは南塔に置かれていたそうですが、第2次世界大戦の時の延焼で落下、
その後、再建されて北塔へ移されたものだそうです。
鐘は大きすぎて写せませんでしたので、プレートを代わりに撮って来ました。
集合場所のカフェ‘モーツアルト’近くのザッハー・ホテルはチョコレート・ケーキ・トルテで有名で、
「百年の預言」の舞台ともなっています。

   

 
 

5時に船は出航して、クレムスへと向いました。6時間ほどの航行となる予定です。

夕食は牛肉のカルパッチョ、ペコリーノチーズの前菜、鴨のグリル、揚げバナナというメニューでした。
かまぼこと昆布巻き、筍とふきの含め煮、豚汁という和食メニューは同じテーブルでは見ませんでした。

大観覧車に乗っていらしたK夫人は部屋のビデオで「第三の男」を鑑賞された夜だったようですが、
私達はTVをあまりつけず、ゆっくり、のんびり過ごしたことの多い今回のクルージングでした。

   

 
付記 −ウィーン・ドゥブリング区と世田谷区−
 
 
12月1日付区報「せたがや」に東京都と同じく23区あるウィーン市の19区、ドゥブリング区と世田谷区が
1985年以来、姉妹都市提携を結んでいるという記事が出ていました。
雄大な川が流れていること、緑豊かな住宅都市であること、文化都市を志向しているというのが
3つの共通点ということです。
翌86年に多摩川とドナウ川が「友好河川共同宣言」を行い、
92年にはドゥブリング区内に日本式庭園「せたがやパルク」が開園したそうです。
地図で提携区を探してみると、ウィーン中心部から北へ4〜5kmのハイリゲンシュタット辺りだと分かりました。
 
 
 

『ウィーンの森とドナウ川に囲まれ、ぶどう畑の広がる閑静な住宅街です。音楽のまちとして知られ、
ベートーベンが居住していた家、「ベートーベンハウス」やよく散歩をしたという小道がそのまま残されています。』
という19区ハイリゲンシュタット方面へは今回は行きませんでしたが、写して来た写真から
ちょっとゆかりのあるものを探してみました。いずれもバスの車窓から写したものです。

左はハイリゲンシュタットで「皇帝」「田園」を作曲したベートーベンが1827年に亡くなった時、
お葬式が行なわれたドライファルティッヒカイト教会(聖三位一体教会)で、
右はハイリゲンシュタット駅の近くにあるというフンデルトヴァッサー作のゴミ焼却炉です。
自然との共生をテーマとしたと言われる20世紀のウィーンのアーティスト、フンデルトヴァッサーの焼却炉は
2001年に大阪にも作られたそうです。ウィーン中心部からズームで撮ったものですが、
ウィーンの森まで辛うじて写っていましたのでご紹介させていただきました。

   

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