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Nov 1 2006
Krems〜Durnstein
 
  

クレムスは5万年前に人類が住み着いたという起源を持ち、オーストリアが異教徒の侵入を防ぐ東方辺境
(オストマルク)と呼ばれていた10世紀末にはオーストリアの中心であった街です。
ワイン、穀類、鉄などの交易で栄えたクレムスの当時の人口は、ウィーンとほぼ同じ2万人だったそうですが、
オーストリアの領土の拡大と共に、王宮もウィーンへと移されて行き、
現在のクレムスの人口は3万2千人、ウィーンのわずか50分の1だそうです。

朝食後、船を下りて川べり沿いを散歩すると、花を持って万聖節のお墓参りに行く人達に出会いました。
花屋さんの店先で時々見かけた檜の葉に松ぼっくり、芥子ぼうずなどのアレンジメントは、
この季節をお祝いする飾り物でしょうか。
ヨーロッパの街を歩くと、マンホールのふたにまで歴史が感じられて、ふと足を止めてしまったりします。

 

   

旧市街
シュタイナー門
教区教会

ピアリステン教会

ピアリステン教会前高台からの眺望
ワイン博物館
 

バスで旧市街まで行き、シュタイナー門から観光を始めました。
朝9時過ぎの街はお店は閉まり(万聖節のお休みのせいかもしれません。)、
人通りもほとんどありませんでしたが、オルガンの音に誘われて入った教区教会では
練習中の賛美歌の美しい響きが聞こえてきました。

バスに戻る11時まではフリータイムとなりましたので、K夫妻と丘の上のピアリステン教会まで登り、
キリスト受難の場面など建物を取り囲むように配された珍しい立体像をみたり、高台からの眺望を楽しみました。
再び教区教会まで戻ってくると、ミサが始まる所でしたので、椅子に座ってしばし見学させていただきました。
言葉は分からなくても、大きな教会堂に響くお説教や賛美歌は人を静かな気持に導いてくれるようでした。

その後、ワイン博物館を覗きました。13世紀にドミニコ会修道士によって建てられた修道院を、
1891年から博物館として利用しているという館内を、時々方向に迷いながら見て回りました。
この地にワイン作りを持ち込んだローマ時代以後、民族大移動の時代はぶどう畑も荒廃していたそうですが、
フランク王国カール大帝の時代から再び栽培が始められたそうです。
ワイン作りの用具や生活の様子が展示された館内には、試飲が出来そうな部屋もありましたが、
残念ながら本物のワインを飲むことは出来ませんでした。

   

 
 

11時過ぎ船に戻り、いよいよメルクまで約35km、世界遺産ヴァッハウ渓谷のクルージングが始まりました。

山の斜面の段々畑で黄金色に輝いているのは、白ワインを作るぶどう畑です。
加藤雅彦著「ドナウ河紀行」には斜面が南向きであること、ドナウの川面からの太陽の照り返しがあること、
両岸の山々が冬の寒風をさえぎり、川からたち上る水蒸気を保ってくれることが
ヴァッハウを芳醇なワインの産地にしたと書いてありました。
‘青くない’と言われるドナウ河も、澄んだ空気と素晴らしい景色の下で充分青く輝いて見えました。

 

 
 
ワイン博物館では試飲ができると思っていた人達の肩透かしを見越したように、
添乗員さんが購入して下さっていたクレムス・ワインをランチ前にラウンジでいただきました。
オーストリアで最もポピュラーというグリューナー・フェルトリーナーという品種のワインです。
すっきりした白ワインのアペリティフの後のランチは、チキンとアスパラガスのサラダ、カレーライスでした。
福神漬けの盛り付けにセレナーデ風?が感じられます。
船はクレムスを出航、デュルンシュタインへ向けて出発しました。
 

 
ケーリンガー城址から見たドナウ河
デュルンシュタインのぶどう畑
聖堂参事会員修道院方面 ケーリンガー城址
 

1時過ぎにデュルンシュタインに入港、2時頃下船して、ミニトレインに乗って、旧市街散策に出掛けました。
去年の秋ボルドーなど南西フランスで見たぶどう畑は紅葉していましたが、ここは一面の黄葉です。
赤ワインと白ワインになる品種の違いと葉の色に相関性はあるのか、調べてみたいと思いました。

ミニトレインでぶどう畑を抜け、街の中心まで行くと解散になりましたので、山の上に聳えるクエンリンガー城址へ
登ることにしました。山頂付近は強風が舞い、思わず座り込んでしまう程で、とてもスリリングでしたが、
片道30分ほどの山の小道のミニ・ハイキングはとても良い旅の思い出になりました。

30年戦争の1645年以来廃墟のままの姿をさらしているケーリンガー城には、
レオポルドX世(ハイリゲンクロイツに聖十字架を預託したり、オーストリア国旗の由来となった王)と
イギリスのリチャード獅子心王にまつわる物語が残されています。
第3回十字軍遠征の折、自身の功績を示すためにレオポルドが掲げた軍旗を引き摺り下ろしたリチャード王は
レオポルド王の怒りをかったため、変装してオーストリアを通過しようとしたのですが、見破られてしまい、
1192〜93年に幽閉されたのがここデュルンシュタインだったそうです。
王お気に入りの吟遊詩人ブロンデルが、リチャード王の好きな歌をうたいながら幽閉場所を捜し歩いていたら、
王が城から声を合せて歌ったという伝説が残っています。

財政難解消のために身代金誘拐をしたという説もある自国王レオポルドよりも、イギリスから身代金が届くまで、
おいしいお酒を飲みながら楽しく暮らしていたといわれるリチャード王の方が人気が高いのは、
この街のホテルやレストランが‘リチャード獅子心王’という名付けられている所にも表われているようです。

 

 
ミニトレイン 旧市街
 
街まで降り、K夫人と小さなお店でクリスマスの飾りなど買い物を楽しんでから、歩いて船に戻りました。
昨日のハロウィンのかぼちゃ、ワイン博物館にも展示してあった藁の輪の飾りなど、
秋の収穫を祝う風習がまだそこかしこに残っているようでした。
 

 
 

4時半からラウンジで、ザッハートルテの食べ比べティタイムが開かれました。
「大事な客人のためにすばらしいデザートを作るように」とメッテルニヒから命令を受けた時、
病気で寝込んでいた料理長の代わりに16歳の料理見習フランツ・ザッハーが作った
チョコレートとジャムのケーキがザッハートルテの誕生物語だそうです。
その後デリカッテッセンを開き、息子の代にはホテル・ザッハー開業と順調に繁盛していったザッハー家が
一時落ち目になった時、資金援助をしたのがデーメルで、
援助の見返りとしてデーメルは同じトルテを作る許可を得たのだそうです。
ザッハートルテを名乗れるザッハーとデーメルの2店のケーキの食べ比べは、
今回はやや酸味の勝ったザッハーに軍配が上がりました。
ウィーンで重いお買物をしたS添乗員さん、間違えないよう小旗を作って下さった駐在デスクのOさん、
楽しい企画をありがとう!と、夕食前でしたが、頑張って、残さずいただきました。

夕食はかにとアボガドの黄身酢和えの前菜とベニソン(鹿肉)のカシスソースです。
豚肉の生姜焼きを選ばなかったのが珍しかったのか、O駐在員さんに「Hさんは洋食がお好きなのですか。」と
聞かれましたが、いつでも食べられる豚より、旅先では鹿を選ぶのが正解、というのが私の考えです。
でも旅半ばから用意されたお味噌汁などの和朝食は、目覚めきらない朝の胃に優しく収まってくれました。

 

 
 
夕食後、‘ベッティーナとハンナス’というコンビの歌とマジックショーが開かれました。
オーストリアの曲やアメリカン・ポップスを情感たっぷりに歌うベッティーナさんと
古典的な?マジックを楽しそうに見せてくれるハンナスさんでした。

その後、K添乗員さんとホイリゲ(居酒屋)へ行くのを楽しみに、夫はショーをパスし部屋で休養していたのですが、
ショーが終る頃、外は小雨が降り始め、ホイリゲ行きは中止になりました。
 

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