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 Oct 16 2004
Loches
ホテルの庭から見た日の出 野生のシクラメン
 
ヨーロッパでは10月末までが夏時間だそうで、朝8時を過ぎて陽が昇ってきました。
半月後には、突然、夜明けが7時過ぎになるというのは今ひとつピンと来ない感じがします。
庭を散歩すると、野生のシクラメン(カタクリの花と大きさも感じもそっくりでした。)が咲いていたり、
リスが走っていたり、部屋はビジネスホテル風でしたが、朝食には焼きたてのパンが出たり、
とても気持ち良く過ごせたホテルでした。ロビー脇ではパソコンも使え、yahoo検索で日本の情報も
得られたのですが、URLの中の~(チルダ)の出し方が分からず、すねっくす小屋の見え方が
確認できなかったのは、ちょっと残念というか間抜けなことでした。
 

アンドレ川 王家の館

   ツアー仲間        <TS>
ルネッサンス様式の市庁舎
 
ロシュの街はアンドレ川に囲まれた立地条件の良さで、6世紀から要塞や修道院が建てられていたそうです。
現在残っている城塞は、11世紀から15世紀にかけてアンジュー伯やシャルル7世など時の権力者の手で
拡張されたもので、ロアール地方で唯一完全な形で見られる中世の城塞都市と言われています。
ガイドのマドレーヌさんによると、私達が今年初めての日本人観光客だったそうです。
  
城塞 ジャンヌ・ダルクのプレート
 
城塞の壁にジャンヌ・ダルクのプレートが貼られていました。
左側の1429年は、ジャンヌがイギリス軍からオレルアンを解放した後、ここロシュのお城で
シャルル7世(この時は王太子)に、戴冠式のためにランスへ行くことを決意させた年ですが、
ジャンヌがカトリック(ヴァチカン)から正式に聖女の認定を受けたのは1920年ですし、
右側の1929年がどういう年か分かりませんでしたので、最下段の文字を辞書で調べてみますと、
CINQUIEME CENTENAIRE 500年記念祭ということのようでした。
   
ドンジョン内の独房
 
ドンジョン(小楼?)はルイ11世の治世から、牢獄として使われるようになったそうです。
ここでのV・I・P(この場合のPはPrisonerです。)が1499年にルイ12世に捕われたルドヴィーコ・スフォルツァ、
色黒だったことからイル・モーロと呼ばれたミラノ公です。
8年幽閉された後、外へ出た途端まぶしさに急死したというのは作り話で(毒殺されたという説もあります。)
割合広い部屋の壁には彼が書いた大砲や星の絵が残っていました。

イル・モーロが画家、技師、式典演出家として雇っていたのがレオナルド・ダ・ヴィンチで、
その頃描かれた傑作、‘最後の晩餐’や‘岩窟の聖母’は今も多くの謎を投げかけているようです。
最近ベストセラーになっている‘ダ・ヴィンチ・コード’はそのあたりから生まれたミステリー小説で、
読み始めたらやめられない面白さです。
 

城塞からの眺望
        旧市街        <TS>
 
ロシェの旧市街は1周しても1km余り、中世そのままの街の趣をゆっくり歩いて味わうことが出来ます。
緑に包まれた中に、レンガ色と灰色に統一された屋根が続く街並みは見事という他ない景観でした。
 

   
自家製スモークサーモンとサラダ 鴨ロースト
 
ツアー中、最も美味しかったと思われるランチ・メニューです。サラダはクスクス風でした。
日本では見られない鴨の大きさ(スライスではなく、ぶつ切り!)ですし、この後、リッチなデザートが出るのですから、
フランスに住むと、ドライバーのパトリック風お腹になるのにそう時間はかからなさそうです。
 

 
−ロシュ中世地区−案内図 サントゥールス教会
レストラン−ジョルジュ・サンド− ランスイエー美術館
 

昼食後の自由時間はTSさんとご一緒に城壁沿いのプロムナードを散歩しましたが、
昼食の頃から降り始めた雨が止まず、仕方なく早目に散歩を切り上げ、ランスイエー美術館へ行くことにしました。
行く途中、夕食のレストラン‘ジョルジュ・サンド’を見つけました。
サンドがパリへ行く途中によく利用していたのが店名の由来だそうです。
ランスイエーはクールベに師事、ドラクロワの友人でもあった人だそうで、彼の風景画が多く展示されていました。
ひとわたり館内を見て回っても、雨は止まないばかりか、雷が鳴り、雹さえ降って来ましたので、
徒歩2〜30分の距離に見えるホテルまで歩いて帰ろうという計画は断念せざるを得ませんでした。
これが今回のツアーでとても残念だったことの一つです。

フランスでは、6日働いたら必ず1日休まなければならないという規則があるそうで、
この日パトリックさんはお休み。1日だけのドライバーがホテルと市街中心まで何度も往復してくれました。
フランス人は冷たいとよく言われますが、この後も親切な場面に何度か出会いました。
田舎まわりだったせいかもしれませんが、 大きく括れる国民性はあるにしろ、
個人レベルでは、人の違いは個人差であると思われました。

 

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