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16 Feb 2007

Fes

 
  
朝5時過ぎにミナレットからアザ−ン(礼拝の呼びかけ)が流れて来て、フェズの1日が始まりました。
7時15分頃、太陽が昇り始めるとともに刻々と表情を変えていくメディナ(旧市街)を
部屋のベランダからゆっくり眺めるという至福のひと時を過ごしました。
   

 
南の丘ボルジュショッドよりメディナを一望
上のパノラマ写真の右端を右方向へ拡大
 

パノラマの右端、下の写真の中央上部の4角い大きな建物が私達が泊まったパレ・ジャメ・ホテルです。
そこから斜め左下に見えている緑色の切妻屋根が連なっている建物がカラウィン・モスクで、
モスクの少し右手の土色の部分がタンネリ(なめし革工場)だと思われます。
フェズのメディナは東西2.2km、南北1.2kmの規模を持ち、「世界一の迷宮都市」と呼ばれています。

イスラム開祖のムハンマドの一族の子孫ムーレイ・イドリースが、バグダッドの王朝に反乱を企て失敗し、
西へ追われて、786年に辿り着いたのがモロッコで、知恵深く、勇敢であった彼が先住民のベルベル人から、
イスラムの指導者として認められ、モロッコ初のイスラム王朝イドリース朝を興し、彼の死後、
息子のイドリース2世が809年にフェズ川沿いの谷間に築いたモロッコ最古の王都がこのメディナです。

イドーリス2世によって857年に建立されたカラウィン・モスクにはマドラサ(高等教育施設)が併設され、
10世紀には大学の機能も持つようになり、カイロ大学と並ぶイスラム最古の大学と言われています。
モスクを中心に学問の街として発展したフェズは「アフリカのアテネ」と呼ばれ、近隣の北アフリカや
スペインのアンダルシア地方から多くのイスラム教徒が移住して来たそうです。
チュニジアのカイラワン出身の人達が作ったのがカラウィン・モスクを中心としたカラウィン地区で、
その東側タンネリの下を流れるフェズ川の東岸にアンダルシア出身の人達が作ったのがアンダルス地区です。
11世紀末のムラービト朝時代に両岸が統合され、市壁で囲まれた地区がフェズ・エル・バリ(旧メディナ)で、
13世紀マリーン王朝時代にその西側にフェズ・エル・ジュディド(新メディナ)が建設されています。
宗教と経済の中核である旧メディナと行政の中核である新メディナ、そしてフランス統治の時代に作られた新市街と
フェズの街は大きく3つの地区で成り立っています。

1981年に世界遺産に登録されたフェズの旧市街は最盛期の14世紀には人口10万人を擁していたそうですが、
現在は4万人余り、ぎっしりと立ち並ぶ2800の建物の中の半分の修復を終えた所だそうです。

 
 
メディナを俯瞰した後、バスでフェズ・エル・ジュディドにある王宮へ行きました。
広大な王宮前広場を歩いて見事な彫金の金色の門の前まで行き、マリーン王朝時代の栄光を垣間見ました。
日本でもたまに見られる勝手に写真を撮って押し売りする観光写真屋?が昨日のラバトやここにもいましたが、
「記念に」とか「自分の写真を残しておきたくないから」と私達のグループでも数名はお買い上げのようでしたから、
デジカメの時代でも一応商売は成り立っているのかもしれません。
   

 
ブー・ジュルード門成

    
メディナの中
 

西の入口ブー・ジェルード門からフェズ・エル・バリに入って行きました。この門は20世紀初頭にフランス人によって
建造されたもので、13世紀の元の門は西側の脇に残っています。

車が入れない曲がりくねった狭い道を行き交う民族衣装を着た人々、ロバや荷車、様々なものを売るお店は
メディナでは見慣れた光景ですが、無数の階段や坂で街が立体的になっているフェズは、
方向をつかむのが難しく、正に迷宮という形容詞がぴったりの街で、
1人で歩くと迷うこと必至だと思われました。

スークで出会った別の日本人ツアー(大阪発のJ社ツアー)の添乗員さんはアラミさんを見て、
「何で日本語なんや。」と大声を上げていました。私はその中のツアー客の一人から「大変ね。」と声をかけられ、
一瞬頭の中が?でしたが、どうやら添乗員と間違われたようです。(「大変」の意味は微妙ですが・・・。)

 
   

この写真は何だかお分かりでしょうか。
日本のTV番組(「世界・ふしぎ発見」?)のクイズでも取り上げられたものだそうですが、
左側は14世紀に作られた水時計、右側の乾燥した植物は1枝ずつ折って爪楊枝として使うものだそうです。
「アラビア語の名前なら分かるんだけど。」というアラミさんの発音は書き取ることもできないものでしたので、
植物名は分からず、買ってくれば良かった!と今頃気付いても遅過ぎです・・・・。
真中の水時計の下で汗を拭いているのは、アフリカだけで21ヶ国旅行されたというMさんです。
この日は27℃にもなって、日向は暑く、影に入ると肌寒さを感じ、コートを着たり、脱いだり忙しかったのですが、
地元の人々はジェラバ(女性用はカフタン)を着っぱなしで、断熱効果のある民族服だろうと思われました。

−付記−
「水時計の構造は分かりましたか?」という質問が届きましたので、ネット検索してみますと、
「時計塔ダール・エルマガーナ:1317年にこの地域の工芸家によって作られ、
1355年にアブ・ナインが発見した水時計の一部が残る。水力を利用してチャイムを鳴らす時計だったらしく、
小さな窓から機械仕掛けのはやぶさが飛び出す。
この時計は通行人の注意をマドラサに引きつけるように取り付けられている。」とのことでした。
そして右の爪楊枝は、ヨシの実を乾燥させたもののようです。
 
 

14世紀半ばに建てられたフェズ最大のマドラサ、ブー・イナニア神学校へ寄りました。
幾何学模様のタイル・モザイク、細やかな漆喰彫刻、アトラス杉の木部のコンビネーションが美しく、
落ち着いた佇まいを見せていました。建物の壁にコーランの詞句が刻まれているようですが、
アラビア文字はどう見ても複雑な装飾としか思えません。

 

   
 
バスに乗って東側へ回り、カロウィン地区へ入りました。
左の写真はサファリーン広場で、右はカロウィン・モスクの入口です。イスラム教徒以外は入れないモスクでも、
中庭などが見られる場所もあるようですが、今回は修復中のようで保護シートで大きく覆われていて、
全く内部を見ることが出来ませんでした。
 
ダッバーギーン(なめし革職人街)
 

タンネリ(なめし革工場)を見学に行きました。
職人が桶に身体を入れて染色をしている様子が見られるお店に入る手前で男性が配っているのは
ミントの葉っぱです。これで鼻を押さえて、いろんな作業工程の革が発散させている異臭を和らげるという訳ですが、
事前に話に聞いて覚悟を決めていましたので、耐えられないという程ではありませんでした。
企業秘密という植物性染料を使っていますが、白い桶の方は化学性だそうで、
職人も中に入る作業はしていないようでした。

 

ムーレイ・イドリース廟
博物館

パン屋さんの子供達
なつめやしのお店
タジンのお店 香辛料屋さん
 

フェズを築いたイドーリス2世(母親はベルベル人。)のお墓があるといわれるムーレイ・イドーリス廟は、
人々の信仰の中心のようで、毎日お参りする人の姿が絶えないそうです。
周辺にろうそくや香木を売るお店が多いのはそのせいだろうと思われます。

食料品スークを通りがかりになつめやしを1kgも買ってしまい、こんなアラブの国のスークで買ったものを
食べてくれる人がいるかしら、荷物の重量制限は・・・と後悔がちらっと頭をかすめたものですが、
我が自然ボランティアの仲間は種の形が面白い、だめ元で種を土に埋めたなどなど例によって
旺盛な好奇心を示して下さいましたし、スーツケースの重量もセーフでほっとしたことでした。

モロッコ料理に使う土鍋「タジン」のふたやドライフルーツ・香辛料の積み上げ方など、
アラブ人は円錐形を好むようです。

 

   
パレ・ムネブヒ
   

14世紀に建てられた邸宅を利用したモロッコ料理レストランで昼食を取りました。
ここでモロッコの独立調印式も行われたという由緒あるお店だそうです。

小皿に盛り合わせた「ケフタ」(モロッコ風前菜またはサラダ?)とレモンやオリーブで風味をつけたチキン・タジン、
果物が今回のメニューでした。
いろいろな肉をタジンに入れて煮込んだり、蒸したりしたものをモロッコ伝統のタジン料理と呼ぶようです。

 

 
     
2時半頃一度ホテルに戻った後、希望者はアラミさんの案内で再びバスで街へ出掛けました。

メディナでは伝統の真鍮、陶器工房の見学と買物をセットにした案内となった訳ですが、
タガネや針を使って細かい彫金をする真鍮製品は私の家には合わない・・・とただ眺めていると、
「4万円を3万円にしてくれた。」とBさんが大きなプレートを買われたのに続き、2〜3人がアクセサリーなど買われ、
「これで帰れる。」とちょっとほっとしている耳元で、「カネモチ、カネモチ」とささやく声が・・・。
振り返るとおじさん店員が手にしたアクセサリーをしきりに勧めていましたが、近付いてきた男の子店員が
そのおじさんの時計を指さして、「カネモチ、カネモチ。ロレックス、ロレックス。」と助け舟を出してくれました。
私は「ビンボー、ビンボー。ヤスモノ、ヤスモノ。」と自分の時計を見せておきました。
モロッコ人は日本語というのは単語を繰り返す言語と思っているのかもしれませんね。

フェズ・ブルーと呼ばれる陶器には興味があったのですが、行った工房の製品は分厚くて、重過ぎたので、
買うのを見合わせました。
 

 
城壁の外
 

バスで新市街のスーパーへ行きました。
そこで夫はランチの時に飲んだビールの値段がばか高かったことを発見して(8倍位?)
悔しがることしきりでした。全般に価格は安そうでしたが、買物はせず、見学だけにとどめておきました。

スーパーの駐車場で出会った中学生達の中に何度も逆立ちを見せてくれる男の子がいました。
「ボンジュール!」と人懐っこく話し掛けて来て、デジカメを覗いて喜んでいる様子でしたが、
写メールを持っている子もいましたから、デジタルが珍しい訳ではないようでした。

4時半頃ホテルに戻り、7時半の夕食までホテル内のお店を覗いたり、部屋でゆっくり過ごしました。
地下にあるハマム(浴場)にはちょっと興味があったのですが、体験する勇気はありませんでした。

 

 
ロビーの一画 エレベーター前
 
異国情緒あふれるパレ・ジャメ・ホテルをちょっとご紹介。(5つ星に泊まるのは珍しいですし!)
元は宮殿だった建物で、現在はフランスのホテル会社ソフィテルの経営となっているようです。

フルーツ・バスケットや花、ミネラル・ウォーターの他、夜、ベッドを整えに来た時に、
「WHATEVER THE WEATHER -CLOUDS,RAIN OR SUNSHINE- MAY YOUR DAY BE RADIANT」という
天気予報カードや「Good Night」と書かれたチョコレートが置かれていて、行き届いたサービスを感じました。
 

 
 

自家製テリーヌの盛り合わせとアニス風味の魚(鱒?)と真鍮プレートを買われたBさんのバースデイ・デザートが
この夜のメニューで、レストランの食事はエスニックではなくフレンチでした。
ホテルの用意するモロッコ料理も試してみたい気がしました。

 

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