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19 Feb 2007
Ceuta〜Algeciras〜Gibraltar〜Casares〜Torremolinos
 

ヌエストラ・セニョーラ・デ・アフリカ教会
アフリカ戦争記念碑
   
少しゆっくりの9時45分に出発の朝、昨日より少し散歩の足を延ばしてみました。
私達が泊まったパラドールは戦争記念碑や教会のあるアフリカ広場に面していましたが、
隣は軍司令部だったようで、何気なく建物の写真を撮ろうとしたら、ダメ!と制止されてしまいました。
のんびりしたリゾート地に見えて、やはり他国の中にあり、軍事的な色合いを合わせ持つ街のようです。
   

凱旋門?
サンタ・マリア・デ・アスンシオン大聖堂
街の中心の通り
   
街並みは全くヨーロッパ的ですが、わずかに残るアラブ風建物やスカーフをかぶった人達が、
北アフリカにいることを感じさせてくれました。
モロッコの街では(ここはスペインですが。)オレンジの木が街路樹としてよく使われていましたが、
手が届くあたりの実はもぎとられ、高い所の実だけが残っている木が多いようでした。
   

海岸の遊歩道からアチョ山を望む
遊歩道にあった彫像
   

海岸沿いには整備された遊歩道があり、遠くにポルトガル時代の城塞が残るアチョ山が見えました。
山頂は今も軍事施設となっているようです。
彫像は「GOBERNADOR DE CEUTA 1415-1437」と書いてありましたので、
ポルトガルの最初の支配者だろうと思われますが、子供を抱いているのが不似合いなような強面でした。

   
中央市場 金髪ペコちゃん
中央市場入口 パラドール・ラ・ムラーリャ
 

大きな建物の中の中央市場を覗いてみました。時間のせいか生鮮食料品店なども人出が少ないようでしたが、
ふと見た雑貨物店に金髪ペコちゃんを発見。こちらでは‘Miss Palomita’と呼ばれているようです。
Palomitaちゃんには情ないペコちゃんニュース(不二家の食品偽装・・・)が届いているのでしょうか。

 

 
セウタのフェリー乗場 アチョ山とセウタ港
セウタの街 ジブラルタル海峡
ターリク山 行き交うフェリー船
フェリー船内 アルヘシラス港
   

ギリシア神話ではヘラクレスが12の功業の10番目の冒険の途中に海峡を通過して、
「ヘラクレスの柱」を立てたと言われています。それがジブラルタル海峡であったかどうかには諸説あるようですが、
ジブラルタルをはさんで立つターリク山とアチョ山がその2本の柱であるというのが現在の通説となっているようです。
その時ヘラクレスは「NON PLUS ULTRA」(この先には何もない)と記したと言われています。

ジブラルタル渡峡が今回の旅の最大の楽しみと言われるMさんと船外に出られるデッキを探して船内を探索して、
フェリー後部のクラスの違う?船室をそーっと通り抜けると、最後尾のドアから外に出られることを発見しました。
水しぶきがかかるような狭いデッキから、‘ジブラルタル渡峡’というロマンを?楽しみましたが、
14kmを40分余りで走り抜け、何ともあっけないひと時でした。

この狭い海峡だけで外洋とつながっている地中海は海流よりも風に支配されている海だと言われています。
ほとんど閉鎖された内海である地中海で古代から繰り広げられて来た壮大なドラマの数々、
風の影響を受けたドラマだけでも枚挙にいとまが無さそうです。

   
   

お昼頃、ヨーロッパと北アフリカをつなぐアルヘシラスのフェリー・ターミナルに到着しました。
先史時代まで遡る歴史を持つアルヘシラスは、地中海の回廊として重要な役割を果たして来たようです。
イスラム時代に「アルヘシラ・アルハドラ」(緑の島)と呼ばれていたのが現在の地名となり、
レコンキスタ晩年の14世紀にカスティリアとグラナダ王国の間で激しい争奪戦が繰り返された後、
ジブラルタルがイギリス領になると共に衰退の一途をたどって行ったそうです。
現在はスペインの重要な国際港のひとつとして活気を取り戻しているターミナルから
街の中心にあるレストランまで歩いて行きました。

   

 
     

サラダとシーフードのフリッター、アイスクリームのデザートのランチでした。
ボリューム勝負のような見かけですが、食材が新鮮ですから、美味しくいただくことが出来ました。

 

 
ターリク山 道路と交差する空港滑走路
はるかにアチョ山を望む アフリカ原産バーバリー種のサル
ムーア人(北アフリカのイスラム教徒)の城 鍾乳洞
 

昼食後、バスでイギリス領ジブラルタルの街へ行きました。
クロマニヨン人の時代から人類が住んでいたことが分かっているジブラルタルは、
地中海に接する全ての国にとって重要な土地で、昔から領有争いがしばしば起きたようですが、
西ゴート、イスラム支配の後、王位継承権を巡ってスペインがオーストリアなどと争っている機に乗じて、
イギリスが占領、1704年以来300年経った現在もイギリスが支配しています。
フランコ時代には20年近くも国境封鎖をしたそうですが、EU加盟によって和解、現在は安定した関係を保ち、
税制で有利なこともあり、住民投票では英国領有を賛成する票が圧倒的に多いと言われています。

奥行き5km、幅1.5kmの小さな半島のほとんどを標高426mのターリク山が覆っているという地形で、
パスポート・コントロールを抜けると一般道路と空港滑走路が交差している光景が目に入りました。
バスでターリク山の中腹まで上り、コンサートホールとしても使われる鍾乳洞を見学したり、
セウタやアルヘシラスの眺望を楽しみました。
観光客の集る展望台に沢山いたバーバリ種のサルにも伝説があり、
北アフリカからイスラムが持ち込んだこのサルがいる限りイギリスの占領が継続すると言われ、
第2次世界大戦でドイツに追い込まれたチャーチルがサルの増加を指令したら戦況が持ち直したそうです。
大戦後10匹だったサルは今では210匹に増えています。

ターリク山の西側のふもとに南北に細長く伸びる街で少し自由時間が取られました。
セウタから眺めていた岩山にこんな街並みが開けていたとは到底信じられないような光景でした。
2階建てバス、英語の標識がイギリス領であることを感じさせる他は、
いろんな文化が混じる国境の街という印象でした。
1969年にジョン・レノンとオノヨーコが自家用飛行機でパリから往復、数時間滞在して、
ここで結婚式を挙げたことを思い出しました。

 

 
シエラ・ベルメーハの山並み
白い村カサレス
村の中心部の家並みや教会
   

M添乗員さんのルート判断で、当初は明日のコースになっていた白い村カサレスに寄りました。
海沿いのシエラ・ブランカに対して、内陸に入ってシエラ・ベルメーハ(赤い山脈)と呼ばれる岩肌の赤い山脈を
分け入った山中にひっそり佇むこの村は、フェニキア人が入植したという古い歴史を持っていますが、
地名はBC61年にこの地の硫黄泉で肝臓病を治したと言われるユリウス・カエサルに因んでいるそうです。
イスラム時代そしてレコンキスタの後、改宗するか国外に出るか迫られ、表面上はキリスト教徒となった
イスラム教徒モリスコ達が住んでいた時代の面影を残す夕刻のカサレスを30分余り散策しました。
観光地として整備が進んでいる様子の村はクレーンが立ち、改修を進める建物が目立ち、
良い写真を撮ることが出来ませんでしたので、全景はお土産物屋さんに飾っていた写真コピーを使いました。

夜8時前にトレモリーノスのホテルに到着しました。
この夜の食事は大型リゾート・ホテルのレストランでのバイキングということで写真は撮りませんでした。
さしずめ自分のペースに合わせて疲れた胃を休める日、といった所でしょうか。

   

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