[ホーム] [目次][P10

 
22 FEB 2007
Granada
 
アルバイシン地区サン・ニコラス広場から見たアルハンブラ宮殿
 

711年にジブラルタル海峡を渡って、イベリア半島を支配したイスラムは929年にコルドバに独立王国を建国、
繁栄を極めたのですが、11世紀に入ると内紛が絶えず、小国分立の時代タイファが始まり、
キリスト教勢力のレコンキスタ(国土回復運動)に押されて行くことになります。
バレンシア、セビリアと次々と降伏していく中で、1238年にイブン・ウル・アラマールによって、
スペイン・イスラム最後の王国ナスル朝がグラナダを首都として樹立されました。
新しく来た者の丘というアラビア語ガルナータを語源とするグラナダは、
ラテン語でたくさん種を持つという意味を持ち、豊穣多産の象徴として柘榴を表すようになって行ったようです。

1492年にグラナダが陥落するまでの250年余りの間、21人の王達の政治の中心であり、
私的住居でもあったのが、イスラム建築の精華として有名なアルハンブラ宮殿です。
シエラ・ネバダの麓、ダロ川とヘニル川の間の高台に築かれた東西720m、南北220mの区域は
宮殿の他、君臣の住居、軍施設、モスク、学校、浴場なども併設された宮廷都市で、
アル・ハンブラ、赤い城の由来は赤砂岩と赤レンガで城が構築されているからという説もありますが、
夜を徹しての工事の間、かがり火で城壁が赤かったからという説が多くの研究者に受け入れられているようです。

   
   
現在アルハンブラの城壁内に入るために使われている唯一の門、「裁きの門」です。
門に入る手前、左手に見えるのは1543年に作られた「カルロス5世の噴水」で、
ナスル朝の都をカトリック化したいという征服者の思いが込められていると言われています。

イスラムの5つの戒律を表すといわれる手のひらが刻まれたアーチをくぐって裁きの門を入ると、
床面に起伏のある内部の通路はカギの手に折れ、アーチ上部には石や煮えたぎった油、鉛などを
落とすための隙間があり、軍事的に計算されつくされた構造となっています。

無事内側の扉をくぐり抜けたとしても、その先はコラレータと呼ばれる広い通路になっていて、
隊列を組んだ騎兵隊達が待ち受けていたそうです。
通路には突撃しやすいようなスロープがつけられていたことが右側の写真で分かります。
   

「裁きの門」から城内へ
「ぶどう酒の門」
カルロス5世宮殿
 
城内に入ると、16世紀に入って出来た免税のぶどう酒市場に因んで命名されたと言われる
「ぶどう酒の門」がありますが、その先にカルロス5世宮殿が素通しで見られることから、
この門はナスル朝の時代から防衛ではなく、通用門として使われていたことが分かります。

16世紀にイタリア・ルネッサンス様式で建てられたカルロス5世宮殿は様々に議論を呼ぶ建造物ですが、
スペイン王家は古いものを破壊したのではなく、このような壮大な建造物を造り、
首都としての機能を強化する政策によって、輝かしい過去を次の時代へとつないだとも言われています。
もしこの宮殿がなかったら、アルハンブラは単なる敗者の文化遺産となり下がっていたということのようですが、
建築主カルロス5世が使うこともなかった未完の建物が不釣合いな威容を誇っていることは確かでした。
 

   

アルカサバ
ベラの塔
 

アルハンブラはアルカサバ、王宮、職人達が住んでいた区域と大きく3つの部分に分けられますが、
ナスル朝に入って、9世紀の要塞を基礎として最初に造られたのが西側の城塞アルカサバです。
ここにはローマ時代のものと推測される積み石も残されています。

武器や鍛冶などの職人の家、兵士達の浴場、貯水槽などの跡が残るアルマス広場を通って、
ベラの塔に登り、グラナダ市街、アルバイシン、サクラモンテの丘などの眺望を楽しみました。

   
 
 
カルロス5世宮殿の設計者マチューカが住んでいたと言われる糸杉の生垣がユニークな
マチューカの中庭を見ながら、現存する宮殿中、最古と言われるメスアール宮から宮殿見学を始めました。

裁判や集会に使われていたメスアールの間はキリスト教の時代になって礼拝堂として改造されたため、
オリジナルの木組天井や装飾が残る中に木製手すりの合唱隊席が作られていました。
16世紀のタイルには、「NON PLUS ULTRA」(この先には何もない)ではなく、
「PLUS ULTRA」(さらに先へ)と変えられたヘラクレスの柱やキリスト教の文様が加えられていて、
レコンキスタ完了と同じ1492年にコロンブスが新大陸を発見して、
「沈まぬ帝国」へと進んでいった時代のスペインを髣髴させるものがありました。
 

 
コマレス宮ファサード 大使の間の玉座

 

コマレス宮ファサードはムハンマド5世が1369年にアルヘシラスを征服した記念に造られたと言われていますが、
アルハンブラ宮殿の政治や外交の中心であるコマレス宮のほとんどは、
ムハンマド5世の父ユーフス1世によって14世紀前半に作られたものだそうです。
ナスル王朝の権力を象徴するかのように隅々までアラベスク模様で埋め尽くされた宮殿の美しさは、
「グラナダに住みながらアルハンブラを見ることができない盲人ほど不遇の星のもとに生まれた人間はいない」と
フランシスコ・デ・イサカに謳わせた魅力を湛えていました。

コマレスの塔の中にある大使の間の玉座は迷路のような部屋を通り抜けて謁見に訪れた大使からは、
逆光の中に座ったスルタンがシルエットしか見えない構造になっていて 、
労せずして?威圧感を与える仕組になっています。何と巧妙な舞台装置でしょうか!
 
‘神のみぞ勝利者なり’
     天人花(アラヤネス) 
                          アラヤネスの中庭
        
 

もともとは砂漠の民であったイスラムの人々の楽園をイメージして作られたと言われるアラヤネスの中庭と
彫刻を施された大理石の列柱廊、コマレスの塔を望むポイントはアルハンブラのハイライトの一つです。
大使の間の玉座からは逆方向に同じような水鏡が見られた筈ですが、
イスラムが滅びた後はカルロス5世宮殿の廂が景観を損ねてしまっています。

宮殿内のそこここに‘神のみぞ勝利者なり’という文字が刻まれていて、完全なものを造るのは
神への冒涜と考えた建築家や職人達は仕事のどこかにわざと不完全な部分を残しているそうです。
王達は彼らの仕事を讃美しながら、他の場所に同じ物を作らないように命を奪ったという凄まじい話も残っています。
泉水両側に植えられたアラヤネスは柑橘系のさわやかな香りのする低木でした。

 
 
アルハンブラで最も有名かと思われるライオンの中庭ですが、
現在ライオンは修復中で、残念ながら全景を見通すことはできませんでした。
この中庭を取り囲む部屋は主に王達のプライベートな住空間とされていたようです。
林立する列柱はナツメヤシのオアシスをイメージしていると言われています。
 
 
ライオン宮の一角にある伝説に彩られたアベンセラヘスの間です。
水盤の赤い染みは嫉妬心に狂った王に皆殺しにされたアベンセラヘス家36人の男性達の血痕の跡だと
伝えられて来ましたが、実は大理石が部分的に酸化して出来たものだと科学的には結論されています。
天井の漆喰で造られた見事な鍾乳石飾りを床に寝転がって写しているちびっこカメラマンがいました。
これは絨毯の上に横になった王達と同じアングルなのかもしれませんね。
 
   
同じくライオン宮にある2姉妹の間とリンダラハのバルコニーです。
光と影をたくみに計算したイスラム芸術の結晶とも言えるこれらの部屋は繊細な女性的魅力を湛えていて、
ここで繰り広げられた人間模様と共々、想像力を大いに刺激させられるものでした。
2姉妹の間の天井はイスラム創始者ムハンマドが神からの啓示を受けた洞窟を表わしているそうです。

このリンダラハ庭園に面した部屋の一つに滞在したアメリカ公使館書記官のアーヴィング(1783−1859)が
「アルハンブラ物語」を執筆し、アルハンブラ・ブームを呼ぶきっかけを作ったと言われています。
岩波文庫から翻訳本が出ていますので、アルハンブラの魅力に迫ってみたい方は是非どうぞ!
   
   
王の浴室の薪倉庫に使われていたと言われる部屋は、小さい声が反対側の壁面に伝わることから
「秘密の部屋」と呼ばれています。観光客の実験で両側の壁が黒ずんで、ちょっと汚らしく感じられますが、
真中で大きな声で話すと、逆に音が拡散してしまい、聞き取りにくい天井構造になっているようです。

浴室はローマ人の形態にイスラム独自の特質や装飾を加えて作られたもので、
楽士達の回廊、寝台の間、涼・暖・暑の各部屋、屋根の採光と温度調節の穴など
多彩な建築技術を駆使して造られているのが見られました。
 

 
パルタルの貴婦人の塔
へネラリーフェから見た城壁上に点在する見張り塔

ヘネラリーフェ
 
王達の私的な区画であったパスタルの庭園を通り、王女たちの塔の内部を見ながら、
夏の離宮ヘネラリーフェまで歩いて行きました。

14世紀初めに造られた王族の離宮は、キリスト教徒の手に落ちてから20世紀初頭まで個人の所有となり、
かなり改修されているようですが、中央バルコニーや堀の両側からアーチ型に水が噴出す
アキセア(水路)の中庭などイスラムの魅力をそのまま残しているようでした。
糸杉、ポプラ、夾竹桃の木々、花が咲く月桂樹、アーモンド、ヘーゼルナッツ、ボケなど
庭園の緑と建物との調和も美しく、植物の目覚めには少し早い2月という季節ながら、
気持の良い散策をすることが出来ました。

9時から11時半過ぎまで午前中いっぱいアルハンブラ宮殿を堪能して、バスで街へ下りて行きました。
 

 
 
グラナダ大学学生のトゥナの演奏で「アマポーラ」「ベサメムーチョ」「アルハンブラの思い出」などを聞きながら、
ミックスサラダとサルスエラ(スペイン風ブイヤベース)とアイスクリームのランチをいただきました。
学生は演奏の後、CDをテーブルに置き、集金に回って来ましたが、私は「9年前に買ったから。」とお断りしました。
グラナダには古くからこうして学資をかせぐという習慣があるようです。
 

 

アルバイシン地区
   
昼食後、11世紀にグラナダで最初の砦が築かれたアルバイシン地区へ行きました。
ダロ川をはさんで向かい合うアルハンブラ宮殿とアルバイシン地区は共に世界文化遺産の指定を受けています。

城壁のアーチ門の上部の縦の亀裂は絹の重量を測る器具跡で、この地区が絹産業で栄えていた時代には、
重量に応じた税金を納めなければ城壁内に入ることが出来なかったそうです。
細い道が入り組んでいるイスラムらしい街の中を1時間程散策しました。
この地区ではカルメンと呼ばれる果樹園のある中庭付きの家が多いことが特徴となっていました。
 

 
   

再びバスに乗って、カルトゥハ修道院へ行きました。
16世紀のゴシック様式の上に、18・9世紀のバロック様式を重ねた内部の装飾は、
外側の簡素さからは信じ難い過剰さで 、ただただ圧倒されるばかりでした。(写真撮影は禁止でした。)
スペイン王家の威信をかけて造られたという所でしょうか。
信者でもない者の個人的な好みで言うと、キリスト教会はロマネスクから初期ゴシックあたりまでが
見たものの心を落ち着かせる場所という印象を受けます。

 

 
グラナダ門 イザベル女王とコロンブスの像

王室礼拝堂
カトリック両王にアルハンブラ宮殿の鍵を渡す最後の王ボアブディル
カテドラル
 
1度ホテルに戻った後、M添乗員さんと希望者で歩いて街へ下り、王室礼拝堂やカテドラルを見学しました。

1506年から1517年にかけて造られたゴシック様式の王室礼拝堂ではカトリック両王や
その次女フアナと夫フェリペの墓のほか、宝物やフランドルやイタリアの巨匠の絵が聖具室で見られました。
1518年から200年近い歳月を費やして建てられたルネッサンス様式の美しいカテドラルは、
ステンドグラスやパイプオルガンも見事で、荘厳な美しさを持っていました。

ヌエバ広場からシャトル・ミニバス‘アルハンブラ・バス’に乗って、6時半頃ホテルへ戻りました。
 

 
     
長ネギのテリーヌ、ポークロースの詰め物とメロンという地元の食材を使った郷土料理は、
ツアーメイト達の口に合ったようで、なかなか評判の良かった街のレストランでの夕食でした。
     
 
9時半ごろから11時近くまで、アルバイシン地区のタブラオでフラメンコを鑑賞しました。
左の水玉模様の衣裳のダンサーは大変人気が高く、毎晩踊るとは限らない実力者で、
巧みな踊りを見ることができたのはとてもラッキーとのことでした。
大きな舞台で見るのとはまた違った迫力のある踊りと歌を、洞窟と言う不思議な空間でゆっくり楽しみました。
 

目次][P10