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2015・2・18 (水)  
足摺岬~唐人駄馬~中浜~四万十川~高知

足摺で宿泊したホテルにも「白山洞門早朝ウォーキング」というエコ・プログラムが用意されていました。
たまたま7年前に同じ足摺国際ホテルに宿泊された旅友もそれを経験されたそうですから、
エコツーリズムという概念も目新しくないのかもしれませんが、私は今回、室戸と足摺でホテル主催プログラム初体験となり、
6時20分にロビーに集合して、東の空が明るくなっていく中、懐中電灯を手に早朝散策に向かいました。


白山本宮の鳥居

白山洞門

林の中では足元を懐中電灯で照らしながら、整備された遊歩道を白山洞門まで下りて行きました。
途中、一般の人は入ることが出来ない白山洞門の頂上にある白山本宮を遥拝するための鳥居があり、
その脇から階段を下りていくと、太平洋の荒波が浸食して出来た高さ16m、幅17m、奥行き15m、
花崗岩海食洞としては日本最大の白山洞門の前に降り立つことができました。



1953年(昭和28)に県の天然記念物の指定を受けた白山洞門の前で記念撮影をする早朝ウォーキング仲間は、
ほとんどが台湾ツアーの人達だったようで、ホテルのガイドさんはまるで私達3人の専用ガイドのようでもありました。
ホテルへ戻ってからフロントで尋ねると、ピンチヒッターという今回の80歳位のガイドさんは実はホテルの会長さんと判明、
ほとんど肩を組まんばかりに馴れ馴れしくしていた夫の焦り&照れ笑いの一幕も見られました。



会長ガイドさんのお話によると、台風の時に海岸の石が波に翻弄される音は夜も眠れない程ものすごいもので、
日本で最初に足摺岬に接岸する黒潮本流が、多くの恵みと共に災害も運んで来る現実を目の当たりにするような海岸景観でした。

  

7時過ぎにホテルへ戻って、夕食と同じ部屋に用意されていた和朝食をいただいた後、
8時にホテルをチェックアウトし、金剛福寺前の駐車場に車を止めて、足摺岬を観光しました。




[第38番] 蹉蛇山 金剛福寺 補陀洛院(ふだらくいん)

822年(弘仁13)に嵯峨天皇から「補陀洛(=観世音が住むインドにある山)東門」の勅額を受けた弘法大師が
三面千手観音菩薩像を刻んで堂宇を建て安置したことが金剛福寺の開創と伝えられています。
歴代天皇の勅願所とされた他、源氏一門の篤い信仰も受け、平安時代後期には和泉式部が来山、生前供養の逆修の塔を建てたり、
室町時代には尊海法親王が住職をつとめ、一条家の庇護を受けて土佐最大の寺院として繁栄、戦国時代に一時荒廃した後、
江戸時代に2代目土佐藩主山内忠義によって再興されたという由緒を持つ寺院です。

 

多宝塔

愛染堂


観音群像

団体お遍路さんで賑わう大師堂

樹木に取り囲まれた3万6000坪という広い境内には源満仲が寄進したと伝わる多宝塔のほか、
愛染堂、護摩堂、不動堂、権現堂など多くの堂や新しく造られた池があり、金剛福寺の豊かさを伝えていましたが、
その分、信仰の場所としての落ち着きからは遠ざかった観光寺といった風情が見られました。


    

金剛福寺を出て、「第41回足摺椿まつり」会期中(2月1日~28日)の椿のトンネルと呼ばれる遊歩道へ行きましたが、
岬先端だけで6万本といわれるヤブツバキは花の盛りを過ぎた訳でもない筈ですのに、華やかさが全く感じられませんでした。


台風などによる塩害でしょうか、どうやらヤブツバキの木には枯損が広がっている様子でした。
そんな様子をカメラに収めている中に、くねくねと曲がったトンネルの先の家族の姿を見失ってしまい、
「灯台」と「天狗の鼻」への分かれ道で携帯に電話をかけましたが、反応がなかったため、しばし立ち止まって迷った末、
左折して、天狗の鼻へ先に行くことにしました。



天狗の鼻からの絶景

ホテル会長ガイドさんの一押しお勧めスポット、天狗の鼻からの眺望です。
私は先ず、灯台の遠望を選択した訳ですが、夫は逆の考えだったようで、(次女は「遠望を先に」という意見だったとか・・・?)
途中で、「灯台へ向かっている」と電話がありましたが、待ち合わせはしないで、それぞれに決めた順路で歩くことにしました。
・・・という訳で、私は素晴らしい絶景を独り占めすることになりました。(と言っておくことにしましょう!?)



天狗の鼻を出て少し歩いた所で、夫達とすれ違いましたが、「分かれ道では待ってるのが当然でしょ」と嫌味を言いながら、
あくまで我が道を選び、さらに先にあるビロウ自生地まで足を延ばしました。

ヤシ科の枇榔(ビロウ)は古事記にも記述が見られる通り、古来、天皇制と関わりが深く、牛車の屋根材として使われたり、
現在でも大嘗祭に天皇が禊を行う百子帳の屋根材として用いられているそうで、
民俗学者の折口信夫は風に関わる呪具としての扇の原型がビロウであると考えているようです。
亜熱帯植物の北東限とされる貴重性の割には保護されることもなく、訪れる人もほとんどいない荒れた様子のビロウ自生地でした。


天狗の鼻

灯台

再び来た道を戻って、展望台から高さ80~100mの断崖の景観を楽しみました。
この角度が足摺らしい、目に馴染んだ風景でしょうか、四国最南端の地という語感にも旅情を誘われる感じがします。



アシズリノジギク


葉すらつけていない木が目立つ椿トンネルを抜けて、アシズリノジギクの残り花を見つけたりしながら灯台へ向かう途中に、
硬貨を投げ入れると灯台下の洞窟(亀の洞)まで通じ、地獄へ落ちた先祖の供養ができるという「地獄の穴」、
弘法大師が爪で「南無阿弥陀仏」と名号を彫ったと伝わる「大師の爪書き石」がありました。




足摺岬灯台は1914年(大正3)に造られた当時は白亜の八角塔形のコンクリート造りでしたが、
1944年(昭和19)に米軍機の機銃掃射を受けた後、1960年(昭和35)に現在のロケット型に改築され、
高さ18m、光度200万カンデラ、光達距離38kmという日本最大級の灯台として「日本の灯台50選」に選ばれています。
灯台近くで、前日、見残しのグラスボートに同乗していた夫婦と再会して、挨拶を交わしました。



灯台の側に弘法大師が亀を呼んで不動岩に渡り、身体安全、海上安全の祈祷をしたと伝わる「亀呼場」、
一夜で華表(とりい)を造らせようとした所、天邪鬼が鶏の鳴き声を真似したため、夜が明けたと勘違いして造るのをやめさせたという
「大師一夜建立ならずの華表」の石の土台など、「地獄の穴」、「大師の爪書き石」と共に
「足摺の七不思議」とされる場所を見ながら歩いていると、夫達が灯台まで引き返して来ましたので、
夫「写真撮ろうか?」、私「いらない」、次女「まだ怒ってるよ」・・・などと言いながら、駐車場へ戻りました。



中浜万次郎(1827-1898)

足摺岬観光の入口となっている駐車場脇に中浜万次郎像が立っていました。
土佐清水中浜の貧しい漁師の次男として生まれた万次郎は、14歳の時、出漁中に嵐に会って無人島の鳥島に漂着し、
半年後にアメリカの捕鯨船John Howland号に救助されて、船長William H.Whitfieldに本国へ伴われました。
そこで3年間の正規学校教育を授けられ、期せずしてアメリカへの日本人留学生1号となった万次郎は、
John Mungと呼ばれた10年に及ぶ外国生活の間に近代的な航海技術や測量術、捕鯨技術等を習得し、
2度にわたる7つの海への周航後、鎖国令下の1851年2月、黒船来航の2年前に帰国し、
中浜の苗字帯刀を赦され、幕府直参に取り立てられました。
そして外国事情の講話、航海術書の翻訳、英語教育などで開国にゆらぐ激動期の日本歴史に大きな貢献をし、
1860年(万延元年)に日米修好通商条約調印のための使節団がアメリカ軍艦Pawhatan号で大平洋を横断した時、
随伴した咸臨丸で事実上の船長として重責を果たしたと言われています。
またアメリカからの帰国の際に書籍の他、写真機やミシン等を持ち帰り、江戸で初めて写真撮影をしたのは万次郎と伝えられています。
その後、1869年(明治2)に東京大学の前身、開成学校の教授に任じられています。

                                      (参考:銅像台座の碑版)


9時15分頃、足摺岬を出発して20分程で、足摺スカイラインの途中から少し西に入った唐人駄馬に到着しました。
足摺半島の山の中腹にある唐人(=他から来た人)駄馬(=なだらかな丘)には、
自然が偶然造り上げた奇観、古代人の祭祀場所、鏡岩が縄文灯台であったなど諸説ある唐人石巨石群があります。
また周辺からは早期縄文時代(7000年前)から弥生時代にかけての石器や土器片も多数出土しているそうです。


 

亀頭岩

唐人駄馬公園


横たわり、垂直に屹立したりと様々に絡み合う姿を見せる唐人石(とうじんいわ)の間には遊歩道が造られていて、
階段を上り下りしたり、巨石によじ上ったり、すり抜けたりしながら、古代ミステリーが体感できる場所となっています。
また唐人駄馬公園の周りには石が環状に置かれていて、それを世界最大級のストーンサークルと考える人も多いと言われています。


ストーン・スクレイバー

亀石

人工的な細工は施されていないといわれる鋭い刃状の切断面を持つストーン・スクレイバーや
唐人石磐座(いわくら)群で最強のパワースポットと言われる亀石と名付けられた巨石などが謎を深めているようでした。



東のサークル

南のサークル

中心の石に人工的に加工した形状が見られることが祭祀場所の根拠とされる東のサークルと南のサークルもありました。
高知県内でもあまり有名ではなく、訪れる人も少ないようですが、古代好きには必見の場所と思われる唐人駄馬を後にして、
そのまま西へ向けて山を下り、中浜経由で帰路に着くことにしました。

    


カーナビが機能しない細い道に入りこんだりしながら、10時半頃、中浜に到着し、
現存する写真を元に2010年(平成22)に再現された茅葺木造平屋建ての「万次郎の生家」に立ち寄りました。




町には「万次郎帰郷150周年記念の碑」が設置され、「ジョン万次郎を大河ドラマに!」という署名運動も行なわれていて、
土佐清水市が誇る英雄である様子が窺われました。



土佐清水を出た後、国道321号線が四万十川に沿って走るようになってまもなく、天然川うなぎの看板を見つけ、
11時半と少し早目でしたが、「四万十屋」で昼食を取ることにしました。


  

時期的に冷凍物になるとは言われましたが、せっかくだからと天然うな重を注文、
関東のように蒸さずに甘辛のたれにつけて素焼きにしたかば焼きは、歯ごたえと香ばしさを信条としていて、
力強い味わいがありました。
「天然3880円 養殖3000円」という価格設定の微妙さも面白く思われました。




昼食後、どのルートで高知へ戻るかは決めていませんでしたが、
どうせなら車でなければ行きにくい所の方がよいということになり、四万十川を上ってみることにしました。

「日本最後の清流」と称される四万十川は、2010年(平成22)に国の重要文化的景観に選定されています。
地域特有の景観が失われていく中、その重要性と保護の必要性が認識されて、
2004年に公布、2005年施行された改正文化財保護法によって、
2006年に「近江八幡の水郷」が第1号に選ばれた後、現在、国内47地域が重要文化的景観の選定を受けているそうです。

全長196kmの四万十川で営まれている独特の漁労景観、水源の森林を維持・活用する山村集落の景観、
川による物と文化の流通や往来が生んだ景観、石積の田畑や棚田の里山景観など、
高い評価を受けている広域の文化的景観の一端に触れてみようと、
カーナビを「道の駅 四万十とおわ」に設定して、12時過ぎに「四万十屋」を後にしました。
ところが中村の市街地を抜けた後、段々と四万十川を離れていくナビに不安を感じ始めた頃、
工事中のう回標識に出会い、すれ違う車の姿もない農道に入ってしまいましたので、もう一度、中村へ戻って、
ナビ設定を佐田に変えて、スタートし直すことにしました。


           

佐田沈下橋  (建設:昭和47年 全長:291.6m 幅員:4.2m)

四万十川の代名詞のような「沈下橋」の中、最下流の佐田沈下橋に1時に到着しましたので、
それ程のロスがあった訳ではありませんが、知らない道は随分と遠く感じられ、橋の上に立った時の感慨はまたひとしおでした。

増水時に川に沈んでしまうように設計された欄干のない橋、沈下橋は建設費を安く抑えることができるために、
山間部や過疎地など交通量が少ない地域の生活道路として造られましたが、
山間部でも広い道路や本格的な橋が造られる現在では徐々に姿を消しつつあるそうです。
そうした中、高知県では1993年に沈下橋を生活文化遺産として保存し、後世に残すという方針を決定して、
現在、四万十川には本・支流を合せて47の沈下橋が残されています。

訪れる人もいないオフシーズンのこと、沈下橋と屋形船という四万十を代表する景観をゆっくりと味わった後、
川沿いの県道340号線を走り、三里沈下橋、川登大橋を過ぎてから国道441号線に合流しましたが、
国道といっても2車線、1・5車線などと道幅がめまぐるしく変わる山道で、しかもダンプカーが結構多く走っていて、
かなりハードなドライビング・コースとなりました。


高瀬沈下橋    (建設:昭和48年 全長:232.3m 幅員:3.4m)

佐田沈下橋から25分程で到着した高瀬沈下橋で写真ストップを取りました。
高瀬沈下橋は四万十川で3番目に長い沈下橋で、夏にはホタル見物、キャンプなどで賑わう観光スポットとなっているようです。


 勝間沈下橋 (建設:昭和34年 全長:171.4m 幅員:4.4m)     岩間沈下橋 (建設:昭和41年 全長:120m 幅員:3.5m)

「釣りバカ日誌14」の撮影が行われた3本の橋脚が珍しい勝間沈下橋や、ポスターなどに最もよく登場するという岩間沈下橋を遠望して、
沈下橋風景を堪能したドライブを終え、2時15分に「道の駅 四万十とおわ」に到着しました。


    
2006年(平成18)に窪川町、大正町、十和村が合併して四万十町となったそうですが、
「人の集まり」を意味するという「十和」という響きにも惹かれてやって来た四万十川中流域の景観は下流とは大分違うものでした。
それでも、写真でははっきりしませんが、遠くに茅吹手沈下橋も見え、
地場の農林産物と共に、住む人の営みが感じられる風景の広がりを見て、お土産の買い足しなどもしながら、
はるばると訪ねてきた満足感を得ることができました。




「がったん、ごっとん、しまんとじかん。旅もくらしもゆっくりがえい。」という木の看板がかかった
予土線「土佐大正駅」のレトロな駅舎もカメラに収めて来ました。
国鉄・JRグループで初めてのトロッコ列車を1984年から走らせていることや、「土佐昭和駅」や「半家」(はげ)という駅名で
マニア間では有名な予土線のようです。

四万十川を離れ、前日にも寄った「道の駅 あぐり窪川」に3時半に到着し、一休止を入れた後、
高知自動車道に乗り、伊野ICで降りて、高知市街へ入りました。
そして、いつも今の時期に文旦を頼んでいる青果店に寄って注文書を渡し、お土産品発送用に段ボールみかん箱をもらってから、
前々日と同じブライトパークホテルに5時前にチェックインしました。


  

前回は次女のシングル・ルーム、今回は私達の部屋がランクアップされていて、快適な高知旅最後の宿泊となりました。
荷物を置いてから高知駅前でレンタカーを返却し、走行距離644.7kmの高知横断の旅が一先ずの幕下ろしをしました。



高知駅

武市半平太・坂本竜馬・中岡慎太郎‘先生像’

その後、お土産買物行脚の次女に付き合って、高知駅の「銘品館」へ寄った後、ホテルの部屋にお土産品を置いてから、
歩いて帯屋町へ向かい、6時に「ひろめ市場」へ到着しました。





    

「やいろ亭」の魚の目利き職人が造った絶品の塩タタキやサバのお刺身、アオサノリ天麩羅、牛ハツ燻製、餃子、さつまあげ・・・など
居酒屋メニューを楽しみながら、3時間、兄夫婦と飲んで食べて、最後の夜が高知らしく更けていきました。



外国人グループの姿も見られる屋台市のような「ひろめ市場」で受けたTBSの取材は、
どうやら何でもランキングのような番組で、飲み文化の紹介ではないかと思われますが、目下、オンエアは・・・?という所です。
いつもなら一軒だけでは終わらない兄を、行きつけのお店が閉まっていたのを幸いに?見送った後、
‘締め’の「アイスクリン」を手に食料品物色に余念のない次女を待って、9時半にホテルへ戻りました。
こんな時間を見越して徒歩圏のビジネスホテルを選んだことも、旅の成功のひとつに数えても良さそうです。


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TBS番組は4月にオンエアされた後、YouTube配信されているのを次女が見つけました。

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