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2016・6・3 (金) 
大豊(豊楽寺・大杉・定福寺・立川番所)~高知
霊峰梶ケ森と吉野川


素晴らしい好天で迎えた大豊の朝は、朝食前に宿の周辺を散策しました。
土讃線で四国山脈を抜ける時、山また山の中腹に、時には驚くほど高い山間に、集落が点在していることに驚かされますが、
これは三波川(さんばがわ)変成帯や御荷鉾(みかぶ)構造線の破砕帯に起きた地すべりが、
肥沃な土壌や豊かな水に恵まれた地すべり地を形成、そこに段々と伸びていった集落で、
地域が生んだ歴史的生活文化景観と呼べるものかもしれません。
思いがけず、その一つに宿泊できたことを喜びながら、桑の実をつまんだり、山の空気をたっぷり吸い込んだ朝でした。


  
ヤマホタルブクロ                       ニンニクの花

7時20分過ぎにスクールバス停まで送られて行く安達ファミリーの長男、小学校1年生の奏くんとすれ違いました。
四国山地の中央部に位置し、東西32km、南北28km、約315k㎡という広大な面積を持つ大豊町は、
町制を敷いた1972年4月には1万2千人を超す人口を擁していましたが、
2015年の国勢調査では人口3966人、年間人口減16%という国内有数の過疎地となっています。
それに伴い、かつては30近くあった小・中学校が統廃合されて、現在は小・中学校が1校ずつとなり、
私達が5年生の時に林間学校で訪れた大豊の南端の天坪小学校も2011年に廃校されてしまったようです。
奏くんが通う大杉にある2014年開校の「おおとよ小学校」は生徒総数70数名、
広い校区を4コースのスクールバスが回っていると聞きました。

右写真は急斜面に設置されたお茶農家の茶葉降ろし?設備です。
大豊は中国雲南省の酸茶がルーツとされる日本唯一の後発酵茶「碁石茶」の産地となっています。

  

自生する山茶2種とヤブキタ茶を葉が肉厚になる7月頃に摘み、大釜で約2時間蒸した後、数日間寝かせてカビ付け、
その後、桶に漬け込んで重しを載せて数週間置いて乳酸発酵させてから、3~4cmに裁断して筵に広げて天日乾燥、
それを干した様子から「碁石」と名付けられたお茶は、緑茶とは違った酸っぱさや風味を特徴としています。
昭和50年代にはわずか1軒となってしまった生産農家が製法を伝え、伝承生産者が組合を作って守ったことにより、
日本の食文化を守り育てるために設けられた地域食品ブランドの表示基準「本場の本物」の認定を2007年に受け、
健康茶ブームにも乗って、「幻のお茶」は生産量を増やしつつあるようです。



「お山の宿みちつじ」のセルフビルドの風呂・トイレ

安達ファミリーが暮らす離れ

7時半から卵焼き、塩鮭、お味噌汁などの和朝食をいただきました。
その時に昨夜、ふすま越しに聞こえた来た「高校の先生」というイギリス人夫妻と安達さんの会話を話題にすると、
ご主人が高校で哲学と宗教を教えていること、それらは他の西欧諸国にはないイギリスの法律で決められた課目であること、
秋に転校、公務員の夫人の産休、イザベラちゃんが入学する前の好機をとらえた2か月間ホリデーであることが分かりました。
「安全で美しい」日本を旅先に選んだことには、英語教師など夫人の2年間の中国体験が影響したようです。
私達も「ホリデーですか」と聞かれ、「毎日がホリデーです」と答えると、「両親もそうです」という返事が返ってきました。



                    -T.M-



9時前に福山ナンバーのレンタカーで徳島県の祖谷方面へ出かけるイギリス人ファミリーをお見送りしました。
「みちつじ」に3連泊したイギリス人ファミリーとはすっかり仲良しになったと安達さんからメールが届きましたが、
ワールドワイドなホスピタリティを自然と身につけていく安達ファミリーの次男、山っ子渓くんの今後の活躍も楽しみです。

事前に車での一日大豊案内を安達さんにお願いしていた私達は、9時過ぎに「みちつじ」を出発し、
同級生の藤原君との待ち合わせ場所、大田口カフェへ向かいました。
神奈川在住の藤原君は5月31日にフェリーで有明を発ち、1日の午後徳島に到着して、一足早く高知入り、
この日は高知から車で大豊へ来て下さり、約束した9時半に50数年振りの再会となりました。
その時、いたずら気分で、前野さんと名前を逆にして自己紹介をしたのですが、
安達さんの車に同乗してこの日最初の目的地、豊楽寺に着いてから、サングラスを外して、
改めて、「よろしく」のご挨拶をしました。



大田山大願院 豊楽寺 薬師堂

今回、大豊に宿を取った最大の理由が、高知県唯一の国宝建造物である豊楽寺の薬師堂を見ることでした。
724年(神亀元年)に行基自らが薬師、釈迦像を刻んで建立、開創したと伝えられる真言宗智山派の寺は、
薬師経説の「資求豊足心身安楽」からとった大田山大願院豊楽寺の称号を聖武天皇より賜ったと伝えられています。

四国に残る最古の建造物と言われる豊楽寺の薬師堂は1151年(仁平元年)に創建され、
山深い参詣道を上ってたどり着いた参拝者が、柴を折って地面に敷いたことに因んで古来より「柴折薬師」と呼ばれ、
愛知県鳳来寺「峰薬師」、福島県常福寺「極楽師」と共に日本三薬師と称されています。
単層入母屋造、こけら葺の屋根、桁行五間・梁間五間、円柱上に置いた舟肘木、横羽目板張の壁の素木造りの堂宇は
1384年(永徳2)、1488年(長享2)、長宗我部元親の命があった1572年(元亀3)に修理、
1631年(寛永8)に土佐藩2代藩主山内忠義によって再び修理された時には正面に一間の向拝が加えられ、
1910年(明治43)には解体大修理が行われるなど、後世の手が加えられていますが、
簡素さと優美さを併せ持つ藤原時代後期の特徴を色濃く残して、1952年に国宝の指定を受けています。

事前予約で、若い住職さんに堂内を案内していただくことが出来ました。
堂内は三間四方の内陣を外陣が取り囲む形になっていて、内陣の柱が半間ほど後退、外陣が少し広くなっているのは、
仏教が普及し始め、多くの参拝者を入れるようにした平安時代後期の仕様ではないかと考えられています。
内陣と外陣の間を仕切った格子戸と欄間は、仏俗の空間を区別する中世密教寺院の様式で、
後世に付け加えられたものだそうです。


       
堂内は写真撮影禁止でしたので、仏像写真は豊楽寺HPから借用

内陣の後方に据えられた須弥壇には本尊の薬師如来像と日光菩薩、月光菩薩の脇侍、右側に釈迦如来像、
左側に阿弥陀如来像(いずれも国の重文指定)が祀られていました。
如来像3体共に130cm余りのヒノキの一木造(現在は寄木造に含む割はぎ造の説もある)で、
左の2体に比べて、ずんぐりとしていて、猫背、落ち込んだ首、袖の短い法衣などに古様が見られる右の釈迦如来像の胎内に
薬師堂の建立年や多数の結願者名の墨書があり、
本来はこの像が薬師堂本尊の薬師如来として制作されたことが分かっていますが、
いつ現在の本尊と入れ替わったかは分かっていません。


 
後付けの向拝
           鐘楼                            三年がかりで引き上げたと伝わる四国最大級の手水石


反りが美しいこけら葺きの屋根

山深くにこのような建物が現存することを奇跡のように感じながら、静かに佇む薬師堂を様々な角度から堪能し、
長い歴史に思いを馳せたひと時となりました。


    

薬師堂の上方には星神社や神仏習合の神を祀る若一王子宮があり、日本的聖域といった趣きの一画となっていました。

1時間ほどで豊楽寺を出発して、幼稚園の遠足か林間学校の時に行った・・・など、まちまちな記憶をたどりながら、
大豊の昔からの名所である大杉へ寄ることに意見がまとまりました。



八坂神社

日本一の自然石恵比寿

   

八坂神社境内にある通称、日本一の「杉の大杉」は、祭神である須佐之男命が手植えしたという言い伝えから神代杉、
又、2本の杉が根元で合着しているため夫婦杉の別名を持つ推定樹齢3000年の巨木で、
1952年(昭和27)に国の天然記念物指定を受けています。
南杉の根回り20m、高さ60m、北杉の根回り16m、高さ57mほどで、杉の周りを一周する遊歩道がついていますが、
どこから見ても、カメラ泣かせのサイズでした。

大杉を11時半に出発、12時頃、「みちつじ」の安達夫妻のお姉さん夫妻が経営する「大田口カフェ」に到着して、
1時間のランチタイムを取りました。



大田口カフェ

  

和定食ランチとひよこ豆カレーに分かれたランチ・メニューですが、
大豊へ移住した姉妹シェフのこだわりが伝わって来るラインナップとなっていました。
コーヒーを飲んだり、お土産のピクルスを選んだり、鄙と若さが調和したカフェでゆったりとした時間を過ごしました。


 

熊野神社

粟生山歓喜院 定福寺 本堂

午後は豊楽寺と同じく、聖武天皇の勅願で行基が724年(神亀元年)に開山したと伝えられる定福寺へ行きましたが、
駐車場から境内へ横入りし、真言宗や天台宗と修験道の関係が深く、定福寺でも毎朝お勤めを行なうという熊野神社を過ぎると、
そのまま本堂前に行き着いてしまいました。(参道から仁王門を通って参拝するのが本道・・・?)

この本堂は安永年間(1772~81)の火災で焼失後、1779年(安永8)に土佐藩9代藩主山内豊雍(とよちか)によって再建され、
廃仏毀釈や本堂以外が焼失した1885年(明治18)の火災などの困難を豊永郷の人々の嘆願によって守られ、今に至っているそうです。
本堂に安置されている阿弥陀如来像、薬師如来像(いずれも県指定文化財)は
豊楽寺の薬師如来、阿弥陀如来像と作者を同じくすると考えられていますが、江戸時代の修復がかなり入っているようです。



仏足石

摩尼堂

1984年(昭和59)設置の仏足石を触ったり、1999年(平成11)個人奉納の摩尼車を回したり、
‘観光’で回る時には、どんな宗教の施設でも、おまじないをきちんとこなして?旅の安全祈願をすることにしています。


    
ベニバナヤマシャクヤク               ヤマアジサイ                        ヒメシャガ

Web情報を得ていた「万葉の細道」を散策し、花はそれ程多い季節ではありませんでしたが、
気持ちの良い境内散歩も楽しみました。



鐘楼

仁王門

本堂前の階段を降りると、弘法大師が鬼神を解脱し、人法詔隆の誓いを霊石で残したと伝わる霊峰、梶ケ森が見えました。
梶ケ森(標高1400m)の8合目には御影堂、護摩堂、通夜殿が残る定福寺の奥の院、遍照院があり、
旧暦3月21日の弘法大師の御影供には、毎年護摩供養が行なわれているそうです。

時間があったら覗いてみようと思っていた大豊町立民俗資料館へ行ってみると、
1973年(昭和48)に定福寺境内に作られた町立民俗資料館は老朽化で取り壊され、
NPO法人「豊永郷民俗資料保存会」が2014年(平成26)に建て替え工事に着手、2015年9月に建物が完成した後、
地元ボランティア達によって、民具の搬入や展示作業が進められ、
今年3月末に「豊永郷民俗資料館」が新装開館というタイミングに出会わしたことが分かりました。



木造2階建て2棟、延べ床面積480㎡の新館には国の重要有形民俗資料2595点、大豊町指定の民俗資料約1万点が収蔵され、
県材を使って伝統木構法で建築された建物は、2015年に高知県建築文化賞最優秀の高知県知事賞に選ばれています。


    

  

    

    

スギ建材の香りが充満する中で、山村の生活がリアルに伝わって来る民具の数々を分かりやすい展示で鑑賞して、
思いがけず、意義深い時間を過ごすことが出来ました。
途中でお会いした先代ご住職から、民具の収集を始めた先々代住職の時代からのお話や、
現在なお不足している資金のことなど伺って、
学術的にも価値があり、今後ますます重要性が増していくと思われる資料館が一層注目を受けることを心から願いました。



民俗資料館を出て、定福寺で一番のお目当てにしていた6体の地蔵菩薩立像に会いに宝物館へいきました。
像高110cm、ヒノキの一本造の鎌倉時代の作と考えられているこれら6体の立像は
本来は本堂の本尊両脇に3体ずつ脇侍として安置されていたものですが、現在は宝物館のガラスケース内に収められています。
地蔵菩薩が六道すべての衆生を救うという信仰によって、平安時代後期に六地蔵像が盛んに造られたようですが、
現存する作例は中尊寺金色堂と定福寺のみと言われています。
中尊寺像が6体すべて同じ姿であるのに対し、定福寺の6体は1体ずつ違う表情を持っていて、
3体が微笑していることから「笑い地蔵」の別名を持ち、見飽きない愛らしさがありました。


   

その他、四国最古と言われる聖徳太子立像(高さ117cm)、梶ケ森の御影堂に安置されていた弘法大師坐像の写し、
平安時代後期に造られた十一面観音立像(高さ162cm)、1722年(享保6)清水隆慶作の銘がある不動明王坐像(高さ20cm)など
寺宝の数々を拝観させていただきました。



持仏堂(大師堂)

仁王門前にて

先代ご住職の釣井龍宏さんのお話を伺いながら、ゆっくり拝観して、定福寺滞在が2時間近くなってしまったため、
予定の大田口カフェでのティタイムを割愛して、高知自動車道大豊インター近くのショッピングプラザへ藤原君の車を駐車した後、
再び安達さんの車に同乗して、この日最後の見学地、旧立川番所書院へ向かいました。


山暮らし4年目の安達さんの「すぐ近くです」という距離、時間感覚とはかなり違い、長く、深く感じられた山道を走った山奥に、
旧立川番所書院がひっそりと立っていました。

立川番所は「日本後紀」に797年(延暦16)に街道が整備されて駅が置かれたという記述を持つ古くからの官道の要衝ですが、
その山越えの厳しさ故に平安後期には室戸岬周りの海路に取って代わられたそうです。
その後、土佐藩6代藩主山内豊隆が、時化の多い海路を避けることや飢饉や災害による経済危機の負担を減らすため、
経費が少ない陸路を幕府に願い出て、官道を再整備、参勤交代路として、
1718年(享保3)から立川番所が土佐路最後の藩主の本陣となり、「立川御殿」とも呼ばれるようになったと伝えられています。
現在、立川番所跡に残る建物は、立川口番所役人であった川井家10代目当主、川井惣左右衛門勝忠が
寛政年間(1789~1801)に建築した土佐の山間部には珍しい書院建築で、
1872年(明治5)に個人の手に渡り、旅籠として一部改築された後、1973年(昭和48)に町が譲り受けて、
翌年に旧立川番所書院として国の重要文化財の指定を受けています。
建物開館は日曜日と祝日のみということで、外観を見学しただけでしたが、
どっしりとした茅葺屋根の存在感に圧倒されながら、困難至極の参勤交代に思いを馳せました。

古くから土佐の国防、交通の要衝であった大豊の豊永郷を中心とした今回の旅では、
長い歴史や深い生活文化に触れ、多くの知見が得られ、豊永の神仏様に感謝!という素晴らしい旅のスタートとなりました。
                          ( 参考:「高知県の歴史散歩」山川出版社 現地パンフレットなど)

4時過ぎに大豊インター近くまで戻り、安達さんとお別れした後、高知まで約40km、藤原君の車に同乗させていただきました。
5時頃、高知市追手筋に面したウェルカムホテルで下車、チェックインした後、荷ほどきする間もなく、
慌ただしく、同宿の前野さんとひろめ市場へ向かいました。


30名近くが集う古稀同窓会では、話ができる方が偏ってしまうことが予想されましたので、
幹事さん達とはご挨拶がてら、予め、顔合わせをしておきたいと考え、(何しろ57年振り・・・)
「前夜祭」と称する席を用意していただいたのでした。
食堂、居酒屋、土産物店などが所狭しと並ぶ「ひろめ市場」は、土佐藩筆頭家老、佐川1万石の深尾家の屋敷跡にある、
幕末の当主深尾弘人(ひろめ)氏に因んで名付けられた高知の町の人気スポットです。

5時半に東奥の「赤ちょうちん」でという約束でしたが、待ちきれなかったのか、会ってもわからないという危惧感があったのか、
男性陣が入口で待機して下さっていました。


    
カツオたたき                  ウツボから揚げ                        ニロギ

高知の海の幸をいただきながら、「鬼女房」と称するおのろけ、20代のヨーロッパ放浪、県警の内輪話など話が飛び交い、
瞬く間に半世紀の時空をとび越えていきました。
高知の宴会は果てしなく・・・が常識?ですが、翌日の本番、はたまた年齢を考えて、8時にお開きとして、ホテルへ戻りました。


   

コンパクトなシングルルームは、ほとんどテレビさえ見ず、部屋では休息に務める私の旅スタイルには充分なものでした。
国内の旅とはいえ、タイム&カルチャーのずれを癒すためには、出来るだけ睡眠を確保してエネルギーをチャージし、
明日も元気に!という旅の日々です。
大豊で手に入れた資料を眺めながら、2日目が暮れていきました。

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