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2016・6・4 (土)     
高知(雪蹊寺・若宮八幡宮・牧野植物園)~第4小学校同窓会

雪蹊寺 山門

太玄塔

高知旅半ばのハイライト日、小学校同窓会の一日が始まりました。
この日夕方5時半からの同窓会までの半日は、昨日に続いて、藤原君がお付き合い下さることになり、
9時に車でホテルへ迎えに来て下さいました。
メールで相談しながら進めた半日の過ごし方は、結果的には私の計画にお付き合いいただく格好となりましたが、
幸いにも好みが合って・・・と、都合よく解釈して、長浜へ向かいました。

全国区名所である桂浜の手前、4~5kmに位置する長浜は、観光客のほとんどは素通りすると思われますが、
歴史ファンにはお馴染みの長宗我部元親ゆかりの地で、四国八十八カ所霊場第33番札所の雪蹊寺もあります。
雪蹊寺が近づいた頃、雨がぽつぽつと降り始め、天気予報通りの空を残念な思いで見上げている中に、
20分程で雪蹊寺に到着しました。

山門と呼ぶ鳥居を抜けて雪蹊寺境内に入ると、左手に堂々とした風格を持つ太玄塔がありました。
明治時代半ば、医師より失明を告げられ、失意の中、四国遍路に出た若者を助けて弟子にしたことが
後の名僧、雪蹊寺18代住職山本玄峰を生むきっかけを生んだ山本太玄も又、
明治初年の廃仏毀釈で廃寺になった雪蹊寺を1879年(明治12)に再興した名僧として知られています。



本堂

鐘楼

延暦年間(782~806)に弘法大師が開基、少林山高福寺と呼ばれた真言宗の寺が、
長宗我部元親の保護を受けた中興の祖・月峰によって天正年間(1573~1592)に慶運寺(臨済宗妙心寺派)と改められ、
1599年(慶長4)元親の没後、菩提寺として、元親の法号をとった高福山雪蹊寺と改称されたことが、
四国八十八カ所霊場の中で2寺だけある臨済宗寺院の由来となっています。
南村梅軒から朱子学を学んだ慶雲寺時代の僧侶天室が谷時中、小倉三省等を育て、南学を発展させた寺としても知られています。

2004年(平成16)に改築された本堂前にはお遍路さんの姿が見られました。
鐘楼は1977年(昭和52)に改築されています。


観音堂

大師堂

旅の安全を守る馬頭観世音菩薩を本尊とする観音堂は1931年(昭和6)に改装、
大師堂は1910年(明治43)に建立・・・と、境内内の建造物によって、時代の変遷を辿ることも出来ました。




雪蹊寺のお目当ては寺宝の鎌倉時代の仏像を拝観することで、9時半の予約時間に本堂裏手に回ると、
1957年(昭和32)に建てられた霊宝殿がありました。



運慶作と伝えられ、国の重要文化財の指定を受けている本尊の薬師如来坐像と脇侍の日光・月光菩薩です。
檜の寄木造、漆箔、玉眼の高さ140cmの本尊、172~3cmの両脇侍が鎌倉時代の慶派の作品であることは確認されていて、
そのことが天正時代の慶運寺の名前の由来とされています。


    
 善膩師童子                       毘沙門天                      吉祥天

筑紫の仏師道雲・海覚らの作と考えられている10体が現存する十二神将立像(国重文)の他、
運慶の長男、湛慶が制作した毘沙門天立像と脇侍の吉祥天立像、善膩師(ぜんにし)童子立像が寺宝として残されています。
左足枘(ほぞ)に「法山大和尚位湛慶」と墨書銘がある毘沙門天(166.5cm)は右腕、左手首を欠損していても堂々たる迫力を保ち、
あどけなく愛らしい表情の善膩師童子(72cm)、優美な表情を見せる吉祥天(80cm)と共に、
3体が絶妙なバランスを保って、ゆるぎない存在感を見せていました。

・・・と書いている6月22日にネット検索で見つけた高知新聞記事に驚かされました。
「四国霊場33番札所・雪蹊寺(高知市長浜)が所蔵する毘沙門天(びしゃもんてん)など国重要文化財の仏像3体が、
イタリア・ローマで7月下旬から開催される「日本仏像展」で紹介されることになった。
梱包(こんぽう)が21日終わり、22日に搬送作業が行われる。
寺の関係者は「高知にこういう仏像があることを知らない方も多い。海外に行くことで、認識が広まれば」と期待している。

 展示されるのは、毘沙門天と吉祥天、善膩師童子(ぜんにしどうじ)の木像で、
いずれも鎌倉時代を代表する仏師、運慶の長男・湛慶(たんけい)作。
 目鼻立ちのりりしい毘沙門天が中央に立ち、理知的な美しさが刻まれた吉祥天と、かわいらしい表情の童子が脇に並ぶ。
2014年11月に四国霊場開創1200年を記念してほかの仏像とともに開帳されたが、普段の拝観は予約制。
3体そろって海外に貸し出されるのは米国での展示以来、28年ぶりという。
「日本仏像展」は、日本とイタリアの国交樹立150年記念行事で、文化庁が主催。
飛鳥時代から鎌倉時代に作られた全国の仏像から、高知県の3体を含む35点が
クイリナーレ宮美術館で7月29日から9月4日まで展示される。
そのほか元興寺(奈良県)の国宝・薬師如来像、東京・京都・奈良の各国立博物館が所蔵する仏像などが選ばれた。

 梱包に立ち会った文化庁の川瀬由照・文化財調査官は「日本の彫刻作品のいいものが一通り出た時期の中で、
(雪蹊寺の3体は)運慶の次世代による代表的なもの」と評価していた。」

1225年(貞応4)頃、湛慶の円熟期の作品といわれる仏像3体に出会えたことはこの上ない幸運だったことが分かりました。
ロマネスクとゴシックが混在する13世紀のイタリアの聖堂に安置しても釣り合いそうな仏像達は、
まもなく海を渡って、ローマの宮殿で立派に親善大役の役目を果たすことでしょう。


  
雪蹊寺境内に咲いていたナツツバキとナツメの花 


雪蹊寺の東隣に、廃仏毀釈の中で1870年(明治3)に廃寺になった雪蹊寺に代わって、
高知藩庁に請願して同年12月に許可を得て、翌年創建された長宗我部元親を祭神とする秦(はだ)神社がありました。
ご神体とした雪蹊寺に安置されていた木造元親坐像(県文化財)、現存する唯一の元親肖像、絹本著色長宗我部元親画像(国重文)は
現在は高知県立歴史民俗資料館に保管されているそうです。
また社名の秦は長宗我部氏が秦の始皇帝の子孫とされる秦河勝の後裔と称したことに因んでいます。
背後の山は「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれた元親が22歳で初陣を飾った時の相手、本山氏の長浜城跡です。

    

雪蹊寺の次に訪れたのは、本山氏との戸ノ本の合戦の折に必勝祈願をして以来、元親の祈願社となった若宮八幡宮でした。
昨年、土佐神社で見た入蜻蛉式に対して、出蜻蛉式と呼ばれる社殿は拝殿をトンボの頭部、両側に広がる幣殿を翼に見立てています。
土佐統一から四国平定への25年の道のりの一歩はここに始まったと言えそうです。



長宗我部元親銅像

若宮八幡宮儀式田

若宮八幡宮参道前の鎮守の森公園に1999年(平成11)、没後400年の年に建てられた長宗我部元親初陣像がありました。
台座を含めると7mという大きさに地元有志の意気込みが感じられるようでした。

若宮八幡宮儀式田では、早乙女が投げた苗の泥が土地検分に訪れた土佐藩2代藩主山内忠義の袴を汚した時、
「民百姓の道を歩いていた我々の方が邪魔をした。今後も農事に励むように」と許した逸話に始まったと伝わる
土佐の3大奇祭のひとつ、「神田祭り」別名「どろんこ祭り」が今も毎年4月第一土曜日に行われています。
約300人の男女がお揃いの浴衣で集い、早乙女役の女性12人が桶やバケツに入れた泥を男性達に塗ろうと
相手かまわず追い回すお祭りで、泥を塗られると夏病みをせずにすむと言い伝えられています。



「くじらドーム」の愛称を持つ高知駅 建築:2008年(平成20) 設計:内藤廣

11時頃長浜を出発、高松からバスで12時13分に高知到着と携帯にメール連絡があった木村さんを迎えに高知駅へ行き、
銘品館でお土産を買物しながら到着を待ちました。
東京在住の木村さんは週末に香川県のご実家へ戻り、同窓会には高松から日帰り参加となりましたが、
小学校5年の時に高知の小学校へ転校、中学1年の途中でまた県外転校という転勤族ファミリーで、
高校入学前に偶然、高松で出会った時に入学高校名を聞いたことがきっかけで、今年の初めに連絡が取れ、
「探してくれてありがとう」と50数年振りの再会を既に済ませていた同級生です。
藤原君と木村さんが見間違えずに50数年振りの再会を果たせるか、前野さんと私は引っ込んで見ていようと画策していたのですが、
雨で20分近く遅れて到着した木村さんは予想とは逆の入口から待合室へ入ってきて、
残念ながら、愉快なハプニングを?目撃することは出来ませんでした。



午後のメニューは牧野植物園として、学校の遠足などそれぞれに思い出を残す五台山へ向かいました。
2000年代前半には毎年の帰省の度に立ち寄っていた私にとっては、10年振りの牧野植物園となりました。


  

1時過ぎに牧野植物園に到着し、先ずは牧野記念館本館のレストラン「arbre」(=仏語で「木」)でランチタイムとし、
トルコ生まれのニューヨークの屋台メシといわれるスパイシーチキンのオーバーライスと鶏ひき肉と野菜のカレーに分かれた
シェフ特製ランチをいただきました。


 

2時過ぎから1時間半ほど、展示館や植物園内を見学、雨の中でしたが、気持ちの良い時間を過ごすことが出来ました。
6月に訪れるのは初めての私にとっては、ヨコグラノキの開花に出会えたことが最大の収穫で、
沖縄と小笠原諸島の固有種という初見のイジュの可憐さにも心惹かれました。


  
ヨコグラノキ                              イジュ 

広い園内散策には時間が足りず、足を延ばせなかった竹林寺にも心を残しながら、3時半過ぎに五台山を後にしました。
4時頃、ホテルへ戻り、中1の転居以来初めての高知再訪という木村さんは帯屋町へお土産買物に出掛け、
1時間後にホテルロビーで再び落ち合って、同窓会会場「味専科 陣屋」へ向かいました。




少し(かなり?)澄ました集合写真撮影から古稀同窓会が始まりました。
直前に2人の都合が悪くなって、26人が参加した中、7人が県外からの出席となりました。
古田写真館、巨大な鶴を折って下さった山崎さんに大変お世話になりました!



自己紹介

「雪の渡り鳥」

近況、ご無沙汰など、土佐人らしいユーモアを添えた自己紹介、挨拶を聞きながら、
古稀同窓会の空気が柔らかく、温かくなっていくのが感じられました。
宴半ばに披露された松村幹事長の達者な三度笠踊りは、
それぞれが無事にここまで「渡って」来られて、集うことができたことへの祝福と受け止めました。



「日本全国幸せ音頭」

古稀会の締め

携帯の「かけ放題」を駆使して、数十人の同窓生に連絡を取って下さった今回のメイン幹事の森木君にも多謝!です。
「幸せ音頭」で盛り上がった会は、2時間余りが瞬く間に過ぎて、8時前に応援団長西本君の締めでお開きとなりました。

個人的には、「久し振りですね」と声をかけて下さった杉本君に「昨夜、お会いしたではないですか」と、
地原君と混同して、思いっきり失礼して(写真予習が裏目に出た「ひげ」インプット・・・)しょっぱなから焦り気味の所へ、
「定福寺へは行きましたか?檀家なんですよ」という「よろしければ、私達の同窓会エクスカーション・プランにご参加ください」と
メールを出していた関東から参加の上村君の話に驚いたり、頭の中がとっ散らかって始まった同窓会でしたが、
6年の時のクラスメイト達、「3・4年で同じクラスでしたね」という森本君の確かな記憶が気持ちを落ち着かせてくれました。
そして秋山さんと一緒に、向かい側に座っていたクラスのガキ大将、岡村君の古い悪事をあばいたり、
(本当は3年務めた後、3か月分の退職金を持ってヨーロッパ放浪に出かけ、テルアビブで岡本公三と間違われ?
拘留されたという話が面白かったです。)、西本君の「今だから話せる」悪ガキ話、小山君と板張り床の東上線の話など、
後方席に根を下ろして、周りの人と話している中に終わってしまった小学校同窓会デビューとなりました。

という訳で?デジカメ片手のdigi-tabiは開店休業、会場全体の雰囲気は山脇幹事さんの写真をお借りすることになりました。
(今後、もし他の方から写真が届いたら、追加掲載しますので、よろしく!)

    

    

8時20分のバスで高松へ帰る木村さんを高知駅でお見送りした後、2次会のスナック「紙ふうせん」へ寄り、
喉に覚えのある?方達のカラオケを耳に、仁井田さんと翌日から2日間の計画の打ち合わせをしました。
お天気次第ということで決めかねていた横倉山登山も決行できる見通しが立ち、
この日1日だけの雨なら上出来!と、10時にスナックを出て、気持ち良くホテルへの帰路につきました。


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