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 2016・6・6 (月) 
横倉山~仁淀川~小村神社~高知

素晴らしい山歩き日和に恵まれた高知5日目となりました。
仁井田ご夫妻のお迎えを受けて9時にホテルを出発、30分余りで到着した「村の駅ひだか」でお昼のお弁当を調達しました。
そして横倉山が近付いた頃、山の全貌が見られる場所で写真撮影ストップをお願いした所、
四国アイランドplusの野球チーム、高知ファイティングドッグスのグランド前の広場に立ち寄って下さいましたが、
ミズキなどの樹木が生い茂り、少しユニークな横倉山(標高774m)の稜線しか見ることができませんでした。



車の窓から横倉山を撮影

後で観光パンフレットなどを見ると、もっと特徴的な山容が見られるスポットは仁淀川側にあることが分かりましたが、
それはさておき、横倉山に近付いていくだけで、気持が高まっていく車窓風景でした。




前日訪れた自然の森博物館や織田公園の側を通って、10時40分過ぎに横倉山第三駐車場に到着しました。
第一駐車場からは土佐の国唯一の修験道の道場として957年に開山した横倉山の繁栄の跡を残す
「修験の道」という中級者コースもありますが、
私達は500m地点に位置する第三駐車場から片道1・4kmほど遊歩道を歩く初級者向き「自然の森コース」を選択しました。



越知町平家会が設置した「安徳天皇御陵参考地」、「安徳帝800年祭記念の碑」などの石碑の前を通り、
1990年(平成2)に織田盛雄氏(織田公園制作者)が奉納した「横倉宮」鳥居を抜けて遊歩道に入ると、
まもなく安徳天皇に従って横倉山へ入った平家一門の一人、「安徳天皇重臣 飛弾守景家之墓」がありました。

平清盛の娘、建礼門院徳子を母とする安徳天皇は父、高倉天皇から譲位されて、わずか3歳で天皇に即位しますが、
清盛没後の平家追討の動きの中で、1183年(寿永2)に西国へ都落ちして、
1185年(文治元年)の壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門と共に没したと伝えられています。
しかし「醍醐雑事記」や「玉葉」に「先帝行方不明」などの記述があることから、
安徳天皇は壇ノ浦からひそかに脱出して生き延びたという平家落人伝説が西日本に残されていて、
今も安徳天皇陵とされる場所が全国に10数か所あるそうです。
1889年(明治22)に宮内省が正式な安徳天皇陵を下関市の阿弥陀寺陵に決定しましたが、
それと前後して、鳥取県・宇倍野陵墓参考地、山口県・西市陵墓参考地、高知県・越知陵墓参考地、
長崎県・佐須陵墓参考地、熊本県・花園陵墓参考地の五か所が御陵墓伝説参考地として指定されています。

越知町に伝わる平家伝説では、阿波山城谷城主の田口成良に迎えられた安徳天皇が、
かずら橋で有名な東祖谷山に最初の行在所を造営した後、いくつか行在所を変えながら潜幸し、
1187年(文治3)8月に辿り着いた横倉山で修験道の先達である別府氏の支援を受け、練武場、蹴鞠場などを作って安住、
1200年(正治2)8月に23歳で崩御されたと伝えられています。



歩き始めて25分ほどで、中の宮と呼ばれる杉原神社に到着しました。
杉の巨木が多いことから名付けられた杉原神社には伊邪那岐命、伊邪那美命の他、平家の守護神熊野権現などが祀られ、
社殿は改築が重ねられ、現在の建物は1897年(明治30)頃のものと言われています。


    

杉原神社で特に目を引かれたのが本殿周囲に施された精巧で過剰ともいえる彫刻群で、
案内板によると、これらは明治時代に全国的に名を馳せた長州大工の一人、門井宗吉の作と伝えられています。
長州大工と言えば、宮本常一「忘れられた日本人」の中の「土佐源氏」を思い出しますが、
今回の旅の初めに立ち寄った大豊の定福寺で入手した「豊永郷文化通信2」には、
「土佐で稼いだ長州大工」という宮本の著書も紹介されていました。
江戸時代後期から大正時代にかけて各地に出稼ぎに出て、神社・寺院などの建築普請に当たった長州大工の一番の特徴は、
このような精緻な彫刻にあると言われています。
安徳天皇伝説と長州大工が生まれた尾代島(周防大島)が共に瀬戸内海に始まる話であることが興味深い所です。



平家之宮

山小屋

杉原神社近くに、困難な放浪の果てに辿り着いた平家83名のうち、氏名が判明する78名を合祀したという平家之宮があり、
来歴や氏名が書かれた看板が設置されていました。

山小屋の近くには安徳帝を擁して落ち延びた平知盛等が25軒の住まいを構えて都とした折に、
供御水としたと伝わる泉水、安徳水の看板がありました。
安徳水は200年程前、横倉山が日本国霊峰48山のひとつとして有名になった時に修験者の清め水として使われ、
1985年(昭和60)には環境省選定の全国名水百選に選ばれています。



牧野富太郎の歌碑 
「森々と杉の木立の限りなく 神代ながらの横倉の山」


    
 タカネヒカゲノカズラ                オオハンゲ                        トチバニンジン
    
アオテンナンショウ                    ヤマアイ                         フタリシズカ 

古い地層が残り、推定樹齢数百年のアカガシ原生林をはじめ、植物の宝庫としても知られる横倉山は、
牧野富太郎の若い頃のフィールドで、ヨコグラノキ、トサジョウロウホトトギス、コオロギランなどを発見した場所としても知られています。
今回は色彩ある花との出会いはありませんでしたが、地味ながらも初見の花もあって、楽しい遊歩道歩きとなりました。




森の主のようなウロジロガシの巨木の先に、安徳天皇在所跡を祀る鳥居があり、鳥居をくぐって5分ほど登った左下方には
安徳天皇を横倉山まで案内したといわれる田口成良を祀る田口社がありました。
近くで工事をしている人達や真新しい覆屋で囲われている社の様子から、直近に大規模な倒木があった様子が窺われました。




整備された遊歩道を1時間ほど登って、上の宮ともよばれる横倉宮の本殿前に到着しました。
1200年8月に崩御した安徳天皇が鞠ケ奈路に葬られた後、翌9月に平知盛が玉室大明神として祭祀したことに始まる横倉宮は
歴代藩主からの崇拝を受け、しばしば社殿を修改築、現在の建物は1897年(明治30)頃の改築と言われています。
横倉権現と称された時代を経て、1868年(明治元年)に御嶽神社と改称、
安徳天皇750年祭の1949年(昭和24)に神社本庁によって横倉宮と改められたことが案内板に書かれていました。



板塀で周りを取り囲んでいる横倉宮の近くに、大きな老木で、花を確認することは出来ませんでしたが、
牧野富太郎が発見して標本を取ったヨコグラノキの基準木がありました。

 

横倉宮本殿の背後には、かつては修験道の行場のひとつとされ、今はあえて危険を冒す馬鹿かどうかを試す
「馬鹿だめし」と呼ばれる4億年以上の石灰岩でできた80mほどの断崖がありました。



本殿屋根に菊のご紋章

馬鹿だめしを少々試して、絶景を観たり、登った証拠写真を撮り合ったりしました。


ヤマカガシも登場

12時半頃から昼食タイムとなりました。
文字通り姦しい?3人組に押され気味だったMr.仁井田も、2日目ともなると段々に馴染んでくださり、
趣味の海釣りなど興味深いお話も披露されて、次回はグレやバイカオウレンの好期である2月の帰郷案も浮上しました。

昼食後、横倉宮休憩所案内板を見ながら、「馬鹿だめし」もしたことだし、と元来た道を戻ることを決めましたが、
この時、重大な見落としをしたことに気が付いたのは、東京へ戻った直後のことでした。



実は横倉宮から西北に歩いて6~7分の所に安徳天皇陵墓参考地があったのです・・・。
横倉山全体が参考地と勘違いしていたこと、横倉宮が陵墓と思ったこと、などが失敗の最大原因ですが、
高知県唯一の宮内庁所管地として陵墓守が配置されているという歴代皇陵と同様式の陵墓を見落としてしまったのは、
「馬鹿だめし」効果でしょうか、全くお馬鹿な結末となってしまいました。



(地図と写真は越知町観光協会HPより借用)

弘法大師でさえ足摺で「見残し」をしたのですから、と気を取り直して?
トサジョウロウホトトギスやコオロギランの季節に、出来たらもう一度、横倉山へ登りたいと今は思っています。


浅尾沈下橋

3時間ほどゆっくりと堪能、結果的には無念を残した横倉山を2時に出発して、段々と遠慮をなくしていった私の要望に応えて、
少し遠回りをして、沈下橋がある仁淀川の景色を見せていただきました。
周囲を山に囲まれた浅尾沈下橋は仁淀川の自然を象徴する景色と言われています。
川べりにはスイカ畑に敷くためのヨシを刈る男性の姿が見られました。



写真は仁淀川にかかる最下流の沈下橋、名越屋沈下橋を車で渡っている場面です。
このあたりでは沈下橋が自動車教習コースに入っているそうですが、怖さのあまり、逆に引き込まれそうな感じでした。

早くからプランのひとつに上がっていた仁淀川下りは今回は割愛しましたが、仁淀川の景観を見られただけで満足して、
「道の駅 土佐和紙工芸村 くらうど」の駐車場でアイスクリンで一服入れながら、
カーナビを最後の目的地、小村神社に設定しました。



仁淀川橋から国道33号線を少し西へ戻って、3時半に日高村の小村神社に到着しました。
100mほども続く杉並木の参道が土佐二宮の風格を見せている由緒ある神社です。



国常立命(くにとこたちのみこと)を祭神、 古墳時代後期の金銅荘環頭大刀拵大刀身を神体とする小村神社は、
社伝では587年の鎮座と伝えられ、1347(貞和3)の棟札には本社の造営は国司があたることを先例としたとあるそうです。
本殿は流造、幣殿と拝殿の中央部に高屋根を載せた土佐独特の蜻蛉様式建築が見られました。
社殿後方に見える樹齢1000年と伝えられる牡丹杉は、
異変があるときには梢に大きな火が懸かるという伝説を持ち、燈明杉とも呼ばれています。



流造の本殿

社の剱神社と秋葉神社

神庫

神庫に収められていると思われる1958年(昭和33)に国宝に指定された金銅荘環頭大刀拵大刀身は、
毎年11月15日(雨天中止)が拝観日とされています。
この他、法会の練供養で使われる平安時代後期の行道面・木造菩薩面2面(国重文)、蓬莱鏡、銅鉾、須恵器などが社宝とされています。
国宝の拝観はかないませんでしたが、本で見ていた国宝の所在地を確認して、うれしい出会いがまたひとつ増えました。



ウエルカムホテル

高知県立高知城歴史博物館

4時半前にウエルカムホテルへ戻り、2日間すっかりお世話になった仁井田ご夫妻と握手をしてお別れしました。
(本当にありがとうございました!)

部屋に荷物を置いて、ドリンク券サービスで一服入れた後、時間もあることだし、と散歩に出かけることになりました。
この場面での行先は、卒業した第4小学校校区しかない、という訳で、高知城の下を通って西へ向かいました。
お城前には来年3月にオープンする高知県立高知城歴史博物館が全容を見せていました。

第4小学校裏を流れる江ノ口川 後輩!?

校門も校舎もすっかり変わっていましたが、場所の記憶に懐かしさを誘われました。
校区に散在する4つの寺子屋を統合して、1872年(明治5)に順応学舎が設立され、1874年(明治7)に上街小学校と改称、
1947年(昭和22)に高知市立第4(だいし)小学校となり、
1973年(昭和46)に行われた創立100周年記念式典の「開校100年」記念石碑が校庭に立っていました。

校門近くには、龍馬の脱藩の折にひそかに朝倉村まで見送り、維新後には裁判長、各種大臣を歴任した「子爵河野敏鎌君誕生之地」
1878年(明治11)に設立された自由民権運動結社「嶽洋社址」という昔のままの2つの石碑が残り、
その隣に1990年(平成2)に新たに建立された「婦人参政権発祥之地」という碑が、
1880年(明治13)に日本で最初の女性参政権を県令に認めさせた「民権ばあさん」楠瀬喜多を顕彰していました。

    

学校から南へ向かい、電車通りを渡った辺りが坂本龍馬の家があった一画で、「才谷屋跡」「龍馬 珈琲」という看板の喫茶店や
「坂本龍馬誕生地碑 内閣総理大臣 吉田茂」という石碑がありました。
石碑前のふたつのベンチに挟まれた龍馬の写真と同じものが小学校講堂の壇上にも飾られていたことが思い出されます。



電車通りを東に向かい、枡形の出雲大社の前で、昔は気付かなかった「吉野朝廷時代古戦場址」の碑を見つけました。
1336年(建武3)から1342年(興国3)に3回にわたって行われた合戦の地となったことを記念する石碑は、
この合戦の終結とともに、土佐でも足利方が勝利を収めることになったことを伝えていました。


枡形で電車通りを北へ渡ると、私が通った幼稚園ルートに昔のままの建物が残っていることが分かりました。
いかめしい雰囲気をそのまま留める織田歯科や高知教会の門柱との懐かしい再会でした。



新庁舎建築のため、分庁された市役所建物の間を通り抜けている時に目に入った標識や消防署に置かれた救命ボートが、
南海トラフの最前線に位置する高知の危機感をまざまざと伝えていました。



高知県庁

高知大神宮

高知県庁や天照大神を主祭神とする高知大神宮前を通って、帯屋町の「ほにや本店」でお土産の買い足しをして、
2時間ほどのノスタルジック散歩を終えました。



この日の夕食は、懐かしさに誘われて、半世紀振りの「コックドール」に決めました。
料理評論家の岸朝子、王貞治、瀬戸内寂聴、渡辺淳一、五木寛之氏など数々の有名人をひいきにしたという洋食屋は、
昭和のレトロさをそのまま店内に残していました。
山歩きのスタイルのままで、土佐弁を話さない二人組が珍しかったのか、一世代年長と思われるレストランのサービス女性が
私達のテーブル脇に立ってしばらく話し込まれたことや店頭に貼ってあった広告文を総括すると、
宮内庁大繕部と親交のある香川一氏に弟子入りをした窪川清氏が、
1950年(昭和25)の昭和天皇の高知御幸の折に(日の丸を持った人垣を覚えています)料理方として参加、
その翌年にコックドールを開業、サービスの女性は窪川清氏夫人で、現在は子息がシェフを務めていらっしゃるとのことでした。



著名人達がお目当てにしたという秘伝レシピのデミグラスソースで煮込んだハヤシライスを、昭和を感じながら賞味しました。

8時にホテルへ戻って、充実した5日間の高知旅に感謝&満足をしながら、宅急便の荷造りをしていて、
ふと思い出したのが中・高校時代の友人Mちゃんで、結婚姓が上村さん、田舎は確か豊永だった筈・・・という訳で、
9年の歳月を飛び越して電話をすると、「豊永は上村だらけだから」と定福寺の檀家という同級生の上村君へつながる偶然もなく、
大豊の話は簡単にスルーされてしまいましたが、翌朝9時にホテルへ迎えに行くから一緒にお茶をしましょうという約束が
あっという間に成立して、どこまでもあったかい故郷の空気が感じられました。


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