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                     晩秋の高知旅                              


  江戸時代の土佐国絵図

2016年6月に第4小学校の同窓会に初めて出席した後、有志5人で関東幹事会を結成、
2017年5月に高知や関西から遠来の同窓生も含めて23名の参加を得て、関東でも初めての同窓会を開催することができました。

その後、数人の同窓生に「11月に小村神社の国宝大刀と室戸のヤッコソウを見に高知へ行きたい」と話をすると、
古稀になって盛り上がった同窓会の勢いのままに、11月の高知同窓会が実現する機運が高まっていき、
夏頃に高知3名(森木・山脇・仁井田)、関東3名(合田・坂井・速水)で幹事を組み、
11月15日に1日だけ公開される小村神社の国宝拝観に合わせた同窓会&遠足の計画が動き始めていきました。

そうして出来上がった小学校同窓生と共に過ごした4泊5日の故郷探訪の旅、
私にとっては40年数年振りとなった晩秋の高知をご一緒にお楽しみいただけたら幸いです。


2016・6・2 (木)
羽田〜高知(高知城・第4小学校同窓会)

11月12日午前8時5分発ANA561便で羽田を発ち、高知へ向かいました。
日曜日の早朝でしたので、渋谷からリムジンバスという最も楽な交通手段を選択、
5時半過ぎに家を出るという以外は、楽々スタートとなりました。
6時20分にマークシティを出発したリムジンバスは、空いた高速道路を40分ほど順調に走り、7時に羽田空港に到着しました。

A320機はほぼ定刻に羽田を離陸、東京湾から箱根上空へ差し掛かるとまもなく、富士山が見え始めました。
今年は強風や気温の影響で積雪が少ないと報じられていた通り、ベストの美しさとは言えない雪の少ない富士山でしたが、
山の全容が見られた時は、旅の成功が保証されたような気分になります。



紀伊水道を過ぎて四国に入ると、室戸岬は機体の下に入ってしまったようですが、室津・津呂港を確認することが出来ました。
9時35分に高知龍馬空港に着陸、はりまや橋までリムジンバスで行き、タクシーに乗り換えて、
宿泊ホテル「オリエントホテル」にスーツケースを預けてから、歩いて実家へ行きました。

11時頃から軽い昼食を取りながら、兄夫婦とおしゃべりをしているとあっという間に12時半近くなり、
慌てて呼んだタクシーは来るのが遅く、少し焦ってしまいましたが、
待ち合わせの12時45分ぎりぎりに高知公園内の山内一豊像前に到着することが出来ました。

5月の第4小関東同窓会の後、7月に上野の岩崎邸をご案内いただいたボランティア・ガイドの大坪さんご紹介の根木さんによる
高知城ご案内が今回の高知旅の最初のプログラムでした。
毎日のように目にしていた高知城をガイド付きでまわるとどのような発見があるのか、楽しみなプランのひとつだったのですが、
高知在住の同窓生には身近かな日常の点景に過ぎないのか、計画に手を上げたのは関東や関西から参加の4名だけ、
1席森本君、2席合田君、3席速水、4席坂井君と各クラス一名ずつ、きれいに並んだ所が自慢できる?メンバー構成となりました。


  
山内一豊像

追手門と高知城

大正2年(1913)に建設された銅像(1940年代に金属供出)の原形をもとに、
平成8年(1996)9月に再建された山内一豊銅像は、後方に写っている昭和48年(1973)建て替えの県立図書館と共に、
近くで学校生活を過ごした10代の頃の私には馴染みのないものでした。

関ケ原の戦いの功で土佐24万石に封ぜられた初代土佐藩主山内一豊(1545又は1546−1605)が、
築城家の百々越前守安行を総奉行として、慶長6年(1601)から大高坂山に築城を開始、
10年の歳月をかけて、2代藩主忠義の時代に全城郭が完成した高知城は、
8代藩主豊敷の時代、享保12年(1727)の城下町の大火で追手門を残して、天守閣を始めほとんどの城郭を焼失、
享保14年(1729)に江戸幕府老中酒井讃岐守の許可を得て、
普請奉行に任じられた深尾帯刀が再建に着手、延享2年(1745)に二の丸、寛延2年(1749)に天守、
再建25年目の宝暦3年(1753)に全城郭が整えられました。
高知城焼失から再建にかけての時期は、享保の飢饉が西日本を襲った時期と重なり、
幕府からの財政援助を受けながら、土佐郡樫尾山で製鉄事業を開始したり、地域産業の維持、振興も図られたようです。




かつての3分の1足らずしか残らず、幅も半分になったといわれる堀のほとりに、「野中兼山先生邸址」という石碑が立ち、
土佐藩政期初期に奉行職として、南学を奨励、港湾整備、用水路や新田開発、森林整備など殖産興業に尽力し、
土佐藩経済の礎を築いた兼山(1615−1663)を顕彰していました。
領民疲弊の責任を問われて辞任した寛文3年(1663)に急逝、諸子も宿毛に幽閉されて、野中家は断絶したと伝えられています。


追手門前に立つ「国寶高知城」の石碑

昭和9年(1934)の「国宝保存法」によって国宝指定を受けた高知城は、
「文化財保護法」が制定された昭和25年(1950)に天守閣をはじめ15の建造物が国の重要文化財指定を受け、
国宝指定からは外れていますが、石碑はそのままに残されていました。


追手門

高知城では珍しく大きな石を用いた石垣が枡形を構成している追手門は、
慶長年間に創建、寛文4年(1664)に再建された後、 元禄11年(1689)の火災によって焼失、再建と修復が繰り返され、
現在伝わるものは享和元年(1801)に再建、昭和20年(1945)の空襲で半壊後、
昭和23年から26年にかけて解体修理工事が行われたものです。
軒隅を反りあげた土佐独特の本木投(ほんぎなげ)工法で造られた入母屋造りの渡櫓は力強さと端正さを併せ持ち、
 黒塗りの下見板張りは雨水から壁を守ると共に建物を引き締める効果を見せています。


   

木連格子(きつれこうし)を採用した破風、欅の化粧板で覆った主柱や扉、冠木の要所に取り付けた銅製の飾り金具、
軒裏に設置した防御施設の隠石落しなど、細部に見られる美意識や仕掛けが見逃せない追手門ですが、
天守と追手門が現存するのは弘前城、丸亀城と高知城の3城だけという点も自慢というのが根木さんのガイドでした。


     
          板垣退助銅像                 山内一豊の妻・見性院と名馬太田黒銅像

追手門を抜けると左手の階段脇に、昭和31年(1956)に再建除幕された板垣退助銅像がありますが、
題字が当時の内閣総理大臣吉田茂によるものであることに今回気付いたのは、年の功のひとつと言えるかもしれません。
上級藩士の乾家に生まれた板垣退助(1837−1919)は、藩命を受けて江戸で騎兵術と蘭式兵法を学び、
中岡慎太郎を通じて薩摩と連携、新政府で参議を務めた後、下野して高知に立志社を設立、自由民権運動指導者として活躍し、
日本初の政党である自由党を結成、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残しています。

登りにくく、降りやすい幅に工夫されていると言われる板垣像横の石段を杉の段まで上ると、
昭和40年(1965)2月に除幕された山内一豊の妻・千代(まつという説もある)像があります。 
近江国浅井氏家臣の娘、美濃国八幡城主遠藤氏娘など諸説ある千代(1557−1617)は17〜8歳頃一豊と結婚、
貧しい暮らしの中で10両の結婚持参金で名馬を買って出世を助けたり、
関ケ原の戦いの前に笠の緒に撚りこんだ手紙で関東にいる一豊へ大阪方の情報を知らせたり、
土佐領主への道を開いたという逸話で賢妻の誉れを得ています。



扇の勾配

二ノ丸

今回は本丸へ直行する石段を使わず、かぎ状に曲げ、死角をなくした横矢掛りと呼ばれる仕掛けを持つ石垣や杉並木、
懐かしいすべり山などを見ながら、杉の段から二ノ丸へ登っていきました。
中でも打込接という手法で造られた「扇の勾配」と呼ばれる美しさと堅牢さを兼ね備えた北側の石垣が根木さんのお勧めスポットでした。

近江の技術集団、穴太衆(あのうしゅう)を北川豊後定信が指揮して築いた高知城の石垣は、
雨が多い土地柄を考慮し、崩れにくく、排水能力が高い野面積が多く採用されていますが、
「御築城記」に主な石材と記される久万、万々、潮江、朝倉のチャート(堆積岩の一種)は固くてもろい2面性を持ち、
 出隅(角)には大石を丁寧に加工した算木積みという当時発展した石垣の構築術も用いられているそうです。

二ノ丸は藩主が政務を行うと共に生活の場である奥御殿、二ノ丸御殿があった場所で、
家具櫓、数寄屋櫓、乾櫓の他、築山と池が作られ、城内で唯一風雅な趣きを見せる場所だったと言われています。
明治維新後に置かれた高知藩では、当初は三ノ丸を政庁として利用していましたが、明治3年(1870)に政庁を致道館へ移転、
同4年の廃藩置県に伴い、藩主居城としての役割を終えて廃城、その後は公園化に伴い、二ノ丸、三ノ丸の建物を破却、
本丸正殿を懐徳館、天守を咸臨閣と名付けて、一般公開するようになって現在に至っています。


詰門から本丸へ入っていくと、遠目には優美に見える天守閣の勇壮な姿に圧倒されるようでした。
外観4重(内部3層6階)、高さ18.5mの入母屋破風、千鳥破風、唐破風を持つ天守閣は、
一豊の旧領の掛川城に似せて造られたとも伝えられています。

 
    
黒鉄門                            控柱                        日時計   

享保15年(1730)に藩主の出入り口として建造された黒鉄門に見られる短冊状に成形した鉄板は、
天正4年(1576)の安土城に始まり、現存例は姫路城や名古屋城の数例と言われています。
狭間の欠陥を補い、臨時物見台(石打棚)として代用されたと考えられる土塀の控柱、江戸時代の日時計など見所を教わりながら、
二条城、川越城、掛川城、江戸城(川越市喜多院に移築された春日局殿舎)、高知城の5カ所のみに現存する城内御殿、
本丸御殿内部を見学しました。


    

黒潮を見事にデザインしたうちわけ波の透かし彫りの欄間は土佐の左甚五郎と称された名工武市高朋(1722−1766)の作品で、
山内家の家紋の三つ葉柏は、一豊の父盛豊が丹波で戦った時、差物の代わりに柏の枝をさして力戦、
戦いが終わった時に葉が3枚残っていた事に因んで、勝利の吉例として家紋にしたと伝えられています。
竹の節欄間は平安時代に貴族の書院造りの館の間仕切りに用いられた意匠で、竹の節状のデザインが束に用いられています。
創建当時よりはるかに質素に再建されたと言われる御殿内で、築城時のジオラマなど新しい展示品と共に、古い意匠を楽しみました。



上段の間の帳台構え

武者窓

藩主の御座所である上段の間は、床、違い棚、付け書院、帳台構えの座敷飾りが特徴とされていますが、
藩主護衛の武士が隠れ、武者隠とよばれた帳台構え(納戸)の装飾の華美さに目が引かれました。
矢狭間塀に設けられた横連子(れんじ)の武者窓は監視範囲を広げるための物見窓で、これが現存するのも珍しいことだそうです。



地上約60m高さの望楼型天守からの眺望です。
四国初と言われる黒漆高欄の廻縁は、時代遅れとなっても藩祖一豊のこだわりを受け継いで再建され、
 宝珠型の飾りは家康の許可を得て付けられたものと言われています。

現存するものとしては全国唯一の忍び返しと石落し

江戸時代の天守が現存する国内12城の中で、天守閣を始め、本丸御殿、東多聞櫓、西多聞櫓、黒鉄門、廊下橋など、
本丸の建築群が現存するのは、唯一、高知城だけですが、もう一つ自慢の‘唯一’が忍び返しとのことでした。



鐘楼堂

詰門

時を告げた鐘楼堂などを見ながら、享和2年(1802)に本丸と二ノ丸の堀切に設けられた櫓門、詰門の東側まで下りて行きました。
藩政時代には橋廊下と呼ばれていた詰門は、1階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵、
2階は家老・中老・平侍の詰所(身分別3部屋)となっていたため詰門の別称を持つ廊下橋です。
壁には隠し銃眼、東面と西面の扉位置が筋違いになっているなど防衛機能も整えられています。
 空堀に架かる廊下橋の現存例は高知城だけ、とここにも‘唯一’がありました。



雨仕舞いの石樋

追手門前で

 本丸から下の段へ渦巻き状に排水した後、最後に堀に流入というよく計算された配置、長さの現在16カ所確認されている石樋は、
堀の総延長の3分の2が失われた現在でも円滑な排水効果が見られ、卓越した排水技術で今も石垣を守っています。

根木さんのご案内で、新しい視点を楽しんだ2時間余りの高知城見学を終えて、
3時に県立高知城歴史博物館で高知幹事の仁井田さん、森木君と落ち合い、高知城を一望する喫茶室で、
1時間ほど同窓会の打ち合わせをした後、今年3月に開館したばかりの高知城歴史博物館で、
山内家伝来の美術工芸品や歴史資料、企画展「大政奉還150年記念 大政奉還と土佐藩」の展示を急ぎ足で展覧しました。



同窓会会場の山内家家老・五藤家屋敷を改修した豆腐と湯葉の料理店「大名」へ4時45分頃に行くと、
程なく、懐かしい同窓生達の姿が次々とやって来る姿が見られました。



高知城と調和する歴史と伝統を踏まえながら、近代的な外観にデザインされた高知城歴史博物館を背景に、
古田君がプロの技を見せて下さった集合写真の撮影風景です。
遅れて来た方々を室内で撮影した写真を合成して、後日、総計28名の集合写真が配布されました。



集合写真撮影後、5時過ぎに「大名」へ入り、トランプで決めた4つの席に分かれて着席し、
森木君の司会、合田君の開会挨拶、山中君の乾杯、山西さん・山脇君の校歌斉唱で始まった同窓会は、
自己紹介・近況報告・歓談の中、途中、西村君の絵本プレゼントをはさみながら、和やかに進行していきました。


    
 
    


3時間が瞬く間に過ぎて、8時に山本君の締めのご挨拶でお開きとなりましたが、
60年近く振りに会った同級生達とも一瞬にして歳月を飛び超え、小学校時代にタイムスリップし、
ほのぼのと懐かしい時間を共有したことは、70代を元気に過ごすエネルギー源となってくれることは間違いないと思われました。

半数ほどが2次会の「紙ふうせん」に集合して、カラオケの中で歓談が続けられましたが、
私は朝が早かったこと、翌日からの東部遠足に備えて、1時間ほどで電車で帰路につきました。
10時過ぎにオリエントホテルへ戻った後、遠足とホテルへ残していく二つの荷造りをして12時に就寝、
楽しくも長かった一日が満足感と共に終わりました。



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