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2017・11・13 (月)
高知~奈半利~北川村~田野~加領郷~室戸
JR高知駅      建設:平成20年(2008) 設計:内藤廣



朝7時15分頃、ホテルを出て、電車で高知駅まで行き、駅構内のカフェで軽い朝食をとった後、
8時15分に待ち合わせ場所へ行くと、高知城ガイドツアーと同じメンバー3人が勢揃いしていました。

大政奉還150年、明治維新150年と続く2017年度を記念して開催中の「志国高知 幕末維新博」の一環として、
高知東部観光向けに発売されている「安芸・室戸フリーきっぷ」を使った東部一泊遠足の計画を立てましたが、
現役仕事中、介護、室戸は日帰りコースなど諸事情で高知在住の第4小同窓生の参加はなく、
関東、関西の4人だけの遠足となってしまいましたが、5・6年は別クラスながら、幼稚園から4年まで、
10代に入る前のひよっこ時代にクラスメイトだった仲間達との60年振りの遠足もまた今回の旅の楽しみのひとつでした。
2日間乗り放題のフリー乗車券3500円を入手して、8時半に高知駅を発ち、JR土讃線経由、
土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」で奈半利へ向かいました。

昭和5年(1930)に後免と安芸を結ぶ土佐電気鉄道安芸線が開通、昭和20年代末から高知市内-安芸間を直通運行していましたが、
昭和32年(1957)に後免から室戸岬をまわり、徳島県の牟岐線と結ぶ国鉄阿佐線計画が浮上、同年から調査が開始され、
昭和40年(1965)から安芸-田野間の工事が着工されると共に、ごめん・なはり線に役割りを引き継ぐ形で、
土佐電気鉄道は昭和49年(1974)に安芸線を廃止、同年から後免-安芸間の工事が着工されましたが、
国鉄財政が悪化する中、国鉄再建法のために、全長18.9km、約44%が完成した工事が昭和56年(1981)に中断され、
開通の見通しが立たないまま放置された高架橋や盛土は土佐の万里の長城、バベルの塔などと呼ばれるようになっていました。
その後、地元住民や自治体の熱意によって、昭和61年(1986)に土佐くろしお鉄道株式会社が設立され、
第3セクターが経営する鉄道新線として、昭和63年(1988)に7年振りに工事を再開、
工事着工から37年もの歳月を経て、平成14年(2002)年に南国市後免から安芸郡奈半利町までの42.7kmが開通というのが
ごめん・なはり線の誕生物語です。

 
安芸市営球場で阪神タイガースがキャンプを行っていることに因んだ「阪神タイガース号」


一両編成気動車のワンマン運転が基本ですが、通学・通勤時間帯は高知-後免間を二両で走るごめん・なはり線で、
がったんごっとん、のんびりローカル鉄道を楽しみましょう・・・という計画は、
昨夜の同窓会3次会でころんで骨折した同級生、16日に久し振りに会う中・高時代の友人達との携帯連絡が続き、
車窓風景を心ゆくまで堪能という思惑からは少し逸れてしまいましたが、
仲間達ご持参のおやつをいただきながら、遠足気分は上々の車中となりました。



9時41分に奈半利駅に到着、北川村営バスに乗り換えて、10時15分過ぎに下車した柏木では、
生誕160年を記念して、平成11年(1999)に全国からの募金によって建設された中岡慎太郎像が出迎えてくれました。



北川郷柏木の大庄屋の家に生まれ、近代国家建設に命を賭して奔走した中岡慎太郎が
慶応3年(1867)に29歳7か月の生涯を閉じてから、ちょうど150年目にあたる11月17日が近いこの日は、
アーティスト松木由子氏による完成間近かの砂像など、墓前祭の準備が進む様子を地元のTV局が取材に来ていました。



中岡慎太郎館では、武市半平太に惹かれて、文久元年(1861)に土佐勤王党に加盟、
尊王攘夷運動の衰退に伴って土佐勤王党弾圧が始まったために文久3年(1863)に脱藩、
長州に身を寄せて、情報収集、分析を行い、薩長連合、三条実美と岩倉具視の和睦、陸援隊結成など、
維新回天に尽力した中岡慎太郎の生涯を紹介し、顕彰する展示が行われていました。
また西南戦争から140年を記念した「西南戦争と土佐挙兵計画について-立志社の獄-」という企画展も開催され、
土佐の山間の小さな村から発信する幕末史に思いを馳せたひと時となりました。


中岡慎太郎生家

天保9年(1838)4月13日に生まれた慎太郎の生家は、転売されて田野町ヨケに移築後、
明治40年(1907)に台風で流失、村内に残されていた売り渡し証文や証言、郷土史家の考証によって、
茅葺き屋根、勘定の間、庭に面した式台を持つ庄屋家独特の肘屋建築様式の30坪の母屋が、
昭和42年(1967)11月17日の没後100年祭に合わせて復元されて、県指定史跡となっています。



中岡慎太郎顕彰碑

中岡慎太郎向学の道

北川村の青年団が田中光顕(陸援隊隊長、宮内大臣)に相談して昭和2年(1927)に建立した中岡慎太郎顕彰碑、
漢方医・島村策吾の塾や藩校田野学館へ片道150分の山道を毎日往復した中岡慎太郎向学の道などの案内板もありました。


松林寺

中岡慎太郎遺髪墓地

建久元年(1190)の開基と伝えられる松林寺は戦国時代に北川郷を支配していた北川玄蕃頭の菩提寺で、
 江戸時代は8つの末寺を持っていましたが、相次ぐ火災で、現在は山門を残すばかりとなっています。
 4歳頃から松林寺住職の禅定和尚について読書を学んだと伝わる慎太郎は、龍馬と同じ京都の霊山護国神社に眠っていますが、
元治元年(1864)の禁門の変の前に家族に宛てた手紙に添えられていた毛髪が妻の兼と共に収められ、
松林寺の中岡家墓地は中岡慎太郎遺髪墓地と呼ばれています。

病気の父に代わり、庄屋見習いとして村政に関わった20歳頃の慎太郎は、産業振興のために植林を奨励をしたり、
飢饉に備えて柚子栽培を奨励したそうですが、昭和40年頃から本格栽培が始まった北川村産の柚子は、
高知県の柚子が全国の40%をシェアする中、4分の1を占め、有数の産地となっています。
接ぎ木で5~6年、実生で15年以上かかるといわれる柚子ですが、実生柚子では県下一の出荷量を誇り、
 香り高く、酸味の強い実生柚子で作った田舎寿司は北川村が発祥の地と言われています。

柚子が実るのどかな北川村を1時間ほど見学した後、11時15分過ぎに村営バスに乗って柏木を出発、
田野駅に11時40分頃到着しました。


濱川商店「美丈夫」

田野駅を出て、岡御殿へ向かう途中で見かけた「美丈夫」の看板を掲げた建物は濱川商店という高知で一番東の蔵元でした。
明治36年創業の濱乃鶴酒造を五代目の濱川尚明氏が濱川商店に変更、
奈半利川の伏流水で仕込んだ「美丈夫」は全国新酒鑑評会で7年連続金賞受賞しているようです。


岡御殿

藩政期に木材の集積地として商業が栄えた田野には田野五人衆(米屋、福吉屋、蔦屋、常盤屋、虎屋)と呼ばれた豪商がいましたが、
中でも泉州(大阪)から山内家に従って田野へ来たと伝えられる米屋の屋号を持つ岡家は最大の豪商で、
藩が要請する多額の御用銀を調達した功績が認められた中、藩主の東部巡視の折の本陣として建てられたのが岡御殿です。
高知県東部で最高の格式を持った書院造の建物は天保15年(1844)の建築で、
昭和60年(1985)に県の有形文化財の指定を受け、平成9年(1997)に修復されています。

  
       木連格子                         杮葺き(こけらぶき)屋根の美しい軒天


屋内見学しませんでしたが、廻廊、切縁を持つ格調のある書院造建築を見ることが出来ました。
次に製材や回船業を営んでいた岡家の分家、旧岡家住宅に立ち寄りました。


旧岡家住宅(県文化財)

上層商家の格式を持つこちらの岡邸は藩主巡視や参勤交代の折、随伴の重臣たちの脇本陣とされていたそうです。
わずか30分足らずの田野散歩でしたが、余り馴染みのなかった郡部の町の歴史や文化の一端に触れることができて、
これも旅の良いひとコマとなりました。



道の駅田野駅屋で仁井田さんお勧めの田野屋塩二郎シューラスクを買って、12時15分頃のバスで東へ向かい、
奈半利町加領郷に30分ほどで到着しました。





小さな漁港で営業していた「金目鯛のさと 魚舎(なや)」という食堂に入り、室戸名物のキンメ丼を期待したのですが、
この日は金目鯛は獲れなかったようで、サバ定食にハガツオのお刺身を付けた昼食となりました。
残念感は否めませんでしたが、鮮度抜群のサバの味は都会では出会えないものでしたので、良かったとしておきましょう。
1時45分に加領郷から室戸行バスに乗りました。



2時40分に室戸に到着、室戸ジオパーク・インフォメーションセンターに立ち寄った後、
昭和10年(1935)に高知県安芸郡連合青年団によって建立された高さ5.45mの中岡慎太郎像を見ました。
 宿毛市出身の彫刻家本山白雲による中岡慎太郎像の建設会会長は桂浜の龍馬像と同じ野村茂久馬で、
建設後援会には浜口雄幸や田中光顕が名を連ね、太平洋戦争の時、各地の銅像が金属供出によって失われた中、
桂浜の坂本龍馬像と中岡慎太郎像は海軍と陸軍の祖ということで供出を免れたと言われています。



海岸へ降りて、国の天然記念物に指定されている亜熱帯植物アコウを見た後、3時のおやつタイムとなりました。
栗菓子や塩味饅頭など、高級で少し渋めのおやつになったアラ古稀遠足でした。


  
ハイビスカス                     ハマナデシコ                    ハマアザミ
  
アゼトウナ                     シオギク                       キバナアマ

植栽された花もありましたが、海岸性の自生植物の花にも出会えたのもうれしいことでした。
ジオパークとしての海岸の見どころは、それぞれに見たことがあるということでパスして、
宿泊する最御崎寺遍路センターへ向かうことになりました。



水難者を祀る水掛地蔵を見た後、最御崎寺まで遍路道を登って行きました。
標識では徒歩20分となっていますが、デジカメの記録を見ると、
登り始めたのが15時38分、最御崎寺山門に到着したのが16時10分となっています・・・。
内心ではタクシーと思っていた道を足で登っただけでも上出来とご勘弁いただいておきましょう。


一夜建立の岩屋

登り始めて、まもなく、空海が一夜で建立したと伝えられる岩屋がありました。
ここは明治初年までは女人禁制であった最御崎寺の女人の納経所でしたが、現在は最御崎寺の奥の院とされています。


捻岩(ねじれいわ)

さらに10分ほど登った所で先発隊?が見ているのは、修行中の空海の身を案じた母親が、
女人禁制のこの地に入ろうとして嵐に会い、駆け付けた空海が岩をひねって母を避難させたという伝説を持つ捻岩でした。



  
 ツワブキ                    モロコシソウ実               ホソバカナワラビ


最御崎寺山門

ヤッコソウ自生地

ようやく到着した最御崎寺山門前で灯台を見に行く3人と別れ、私は山門脇のヤッコソウ自生地へ行きました。
インフォメーションセンターで「咲いているとは思いますけど」と言われて一抹の不安のあったヤッコソウですが、
開花をすぐに確認できて、うれしい時間を過ごすことができました。


  

「明治四十年に私は日本の南部にヤッコ草という新属新科のものを発見し、ミトラステモン・ヤマモトイ・マキノとした。
これは最もめずらしい植物である。」「私も植物学の黎明期に人となったので、こうした幸運に恵まれた」と
「牧野富太郎自伝」などの著書に書かれているヤッコソウは、シイノキの根に生える寄生植物で、
明治39年に高知師範学校の教師をしていた山本一氏が土佐清水市で発見、当時理科大学助手をしていた牧野富太郎へ送って
研究を依頼したもので、学名のヤマモトイはそのことに由来しています。

頭部の帽子のようなものが雄しべで、その側面に花粉が詰まった葯が帯状になった葯帯があり、
雄しべが抜け落ちると、雌しべが顔をだす構造になっていて、
奴さんの手のような鱗片葉に溜まった蜜が小鳥や虫を呼ぶ仕掛けになっています。
四国と九州の南部にだけ自生し、限定された期間しか開花しない花に出会え、私にとっては大成功の東部遠足となりました。



  

唐の修行を終えた弘法大師が、大同2年(807)に嵯峨天皇の勅令で室戸岬を訪れて、
難行苦行を重ねて虚空蔵求聞持法を成就した地に本尊・虚空蔵菩薩を刻み、本堂を建立したのが始まりと伝えられるのが、
四国八十八カ所第24番札所の最御崎寺です。



境内の建造物を見学した後、4時40分に遍路センターにチェックインしました。
案内されたのは3階の和室、4階の3部屋連なった洋室でしたが、
私は床の間付きの広めの和室でなく、遍路宿らしいコンパクトなシングル洋室を選択しました。


  

1時間ほど部屋で休んだ後、6時から食堂で高知らしい大皿料理の夕食をいただき、
10時頃まで和室でお茶やビールで、いきあたりばったり、のんびり遠足の締めの雑談をして過ごしました。
部屋に戻り、入浴してから、11時に就寝して、東部遠足の一日が終わりました。


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