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2017・11・14 (火) 
室戸~安芸~高知


食堂に用意された朝食を7時から4人でいただいた後、8時の出発までに少し時間がありましたので、
私はもう一度、山門近くまでヤッコソウを見に行きました。
その頃は降っていなかった雨が、遍路センターへ戻って来た8時前にぽつぽつ降り始め・・・。



室戸岬スカイラインを最御崎寺から1・4kmほど下り始めた時には、とうとう本降りとなってしまいました。

前方に見える津呂港(室戸岬港)は最御崎寺の僧侶最蔵が岩礁を利用していた港を、
土佐藩2代目藩主忠義の後援を受けた野中兼山が開削、改修したと伝えられています。



スカイライン上り口バス停に着いて出会った女性は、定年退職後に夫妻で関西から室戸へ移住していらした方で、
偶然にも私の中高時代の同級生のご主人の医院へ受診にいらっしゃるとのこと、しかも、バスで行くのは初めてという偶然に、
吉良川まで30分余りのバス車内で話が弾み、受付にいる同級生にメッセージを託すこととなりました。
8時34分のバスに乗り、伊尾木で降りて、高知城のガイド、実は安芸市観光ボランティアの会会長でもいらっしゃる根木さんに
海底の地層が隆起した海蝕洞の伊尾木洞を案内していただく予定でしたが、
携帯で連絡を取り合って、雨天で足元が悪いため中止とし、そのまま安芸駅までいくことになりました。
9時58分に安芸駅に到着、奈半利からごめん・なはり線に乗り換えた合田君も程なく合流して、
安芸駅から北へ3.6kmの岩崎彌太郎生家へ行きました。
お天気が良かったら、レンタサイクル・プランの安芸観光でしたが、残念な雨空でタクシー利用やむなしとなりました。



もやがかかる山の風景が趣きをみせる井ノ口に10時半に到着しました。
岩崎彌太郎の生誕150周年を記念して昭和61年(1986)に彫刻家の浜田浩造によって造られた3.3mの銅像は、
平成27年(2015)に安芸市矢ノ丸江ノ川上公園から生家前に移設され、
のどかな田園風景の中で威容を誇っていました。
台面には日本列島地図、台座には彌太郎ゆかりの地や建物のレリーフが嵌め込まれています。



妙見山とガイド案内所

彌太郎生家入り口



美しい竹垣に囲まれた門から敷地内に入ると、三菱関係諸会社有志によって建てられた自然石の記念碑と並んで、
茅葺き寄棟造り平屋の彌太郎生家がありました。
寛政7年(1795)頃、彌太郎の曽祖父の彌次右衛門が手に入れたと伝わる藩政期の代表的な中農の家屋です。



天保5年(1834)に地下浪人(郷士株を売って浪人となった者)の岩崎彌次郎の長子として生まれた彌太郎は、
吉田東洋の門に入って才覚を認められ、東洋死後は東洋の甥の後藤象二郎に登用されて、
土佐藩の開誠館長崎出張所、土佐商会に勤務、手腕を発揮して上士まで昇格し、
その頃、海援隊で活躍していた龍馬を金銭面で支えたそうです。
明治4年(1871)の廃藩置県に伴い、土佐藩所有船舶の払い下げを受けて経営した九十九商会(1873年に三菱商会と改名)が
台湾出兵、江華島事件、西南戦争にあたって軍事輸送、近海の海外汽船駆逐等で業績を重ね、日本の海運界を圧倒、
東洋の海運王と呼ばれるまでに発展し、政府の勧告も受けて、共同運輸と合併し、
明治18年(1885)9月に日本郵船会社を設立、彌太郎自身はその結末を見ずに同年2月に没しましたが、
弟の彌之助が後を継いで、三菱財閥の礎を築くことになりました。


部が辛うじて写っている三階菱

土蔵の鬼瓦に三階菱、破風に三菱のスリーダイヤが見られました。
岩崎家家紋の三階菱と山内家家紋の三つ葉柏を合わせて、三菱マークが出来たと言われています。



表座敷前には少年彌太郎が天下雄飛の夢を託して作ったと伝わる日本列島を模した石組があり、
敷地奥には岩崎家のご先祖「家の神様」をお祀りしているお社が見えました。


 

彌太郎生家を後にして、タクシーに乗って、11時45分に土居の南に位置する野良時計前に到着しました。
明治20年(1887)頃、地主の畠中源馬氏が父親から買い与えられた西欧時計の仕組みを独習、
全て手作りで1人で作り上げた野良時計は、今は安芸市のシンボルとなっています。
旧制高知県第一中学校(現・追手前高校)の櫓時計も畠中氏の手になるものだったそうです。
季節外れのひまわりの群落や火の見櫓を見ながら、徒歩で0.6kmと標識に書かれた土居・安芸城跡へ向かいました。

戦国時代末期まで安芸地方を領有していた安芸氏が長宗我部氏との合戦に滅び、長宗我部氏の30年間の支配の後、
山内一豊と共に土佐に入国した重臣の一人の五藤為重が安芸を知行し、
居を構えた安芸城跡を中心とする武家屋敷の町並みを残す一画が土居廓中と呼ばれ、
平成24年(2012)に国の重要伝統的建造物保存地区の選定を受けています。


土居廓中

鎌倉時代に安芸城を中心として築かれた町割を基本として、土佐藩家老の五藤氏が整備・発展させた土居廓中は
江戸末期から昭和時代初期の建物が残る歴史的風致地区で、
狭い通りに沿った石溝、土用竹やウバメガシの生垣が藩政期の佇まいを留めています。

その中で一般公開されている野村家を見学しました。
山北村の出身の野村家は、五藤家入国後に召し抱えられ、五藤家の財政や家臣人事など惣役を行ったと伝えられています。



槍の間

客間

桟瓦葺き木造平屋の主屋

江戸末期の武家住宅形式を見せる野村家は、実は私の母の実家で、2017年秋は祖母没後40年目にあたり、
長年無人のままで時間を止めてしまったような家で、私が生まれた北側の居間やひよっこ時代の思い出が詰まった場所を
当時の同窓生達に見ていただくのはいささか気恥ずかしい思いもありましたが、
(内気で大人しい女の子だったという自己認識と彼らの認識との間にかなり隔たりが見られるようでもあり・・・)
60年後の遠足場所としては一興だった、と思っておくことにしましょう。



野村の家を出て、延慶元年(1308)に安芸親氏が築き、江戸時代に五藤氏が整備した
安芸城の土塁に沿った堀や石垣を配した枡形のある追手門を見ながら、廓中ふるさと館へ行きました。



12時30分に廓中ふるさと館に到着し、雨の中を高知市から安芸まで(ご出身地とは言え・・・)わざわざ来てくださった根木さんを、
感謝と共にお見送りしました。



かき揚げちりめん丼

ふるさと館では一番人気のかき揚げちりめん丼のランチをいただきました。
黒潮の蛇行によるシラスの不漁が伝えられ、シラスの量が心持ち少なく感じられたのは気のせいかもしれません。


五藤家安芸屋敷 五藤家顕彰碑

1時20分頃、安芸城跡まで戻り、安芸市立歴史民俗資料館を見学しました。
城址左手に平成20年(2008)に登録有形文化財の指定を受けた五藤家屋敷がありますが、
内部は土・日だけ公開となっていて、見学はできませんでした。
藩政時代、当主は高知城の南の屋敷に住み、古い絵図に城山の麓一帯に屋敷や蔵、馬小屋が並びたっている
安芸の屋敷には惣役が住んでいたと伝えられています。
当時の屋敷は明治時代になって全て取り壊し、現在残る主屋は明治24年に建てられたものです。
 
一豊と共に慶長6年(1601)土佐入国後、安喜城を預けられた五藤家は尾張黒田の出身で、一豊の父盛豊の時から家臣として仕え、
最初は安喜代官、寛文10年(1670)頃家老となり、元禄13年(1700)に奉行職を拝命、幕末まで藩政の中枢で活躍したそうです。



安芸市立歴史民俗資料館

五藤家高知屋敷の模型

安芸市立歴史民俗資料館には五藤家に伝わる武具、美術品、資料や安芸の考古資料、生活用具、民俗資料のほか、
岩崎彌太郎、黒岩涙香、弘田龍太郎など安芸市出身者を紹介するコーナーがありました。



岩崎家

プラネタリウムを開発した五藤斉三氏の寄贈品

企画展「五藤家と家臣たち」

  
安喜土居構の図                    五藤家家宝の鏃                    五藤家伝来の武具
 
      野村家伝来の刀              五藤家伝来の双六盤など           岩崎家菩提寺・閑慶院の鐘楼堂の瓦

元亀元年(1570)に織田信長の越前朝倉攻め「金ヶ崎の戦い」に従事した五藤為浄は、
左まなじりから右奥歯まで貫通する敵の矢を受けた山内一豊の顔をわらじをはいたまま踏みつけて救助し、
その時の鏃(やじり)が家宝として伝えられていました。



藤崎神社

書道美術館

明治時代まで土居東木戸藤崎にあり、城址内に移転した藤崎神社は、
五藤為浄を祀る神社で、一豊を踏みつけたわらじがご神体と言われています。
歴史民俗資料館に隣接する書道美術館は、藩政時代より書道が盛んで日本書壇第一線の書家を輩出した安芸市に、
昭和57年(1982)に開館した全国初の公立書道専門美術館です。

2時15分頃、安芸城跡を出て、タクシーで安芸駅へ戻り、
安芸駅2時21分発のくろしお鉄道に乗って、3時19分に高知駅へ帰着しました。



段々と晴れ上がっていった車窓風景には多少の無念が否めませんでしたが、
雨の風情も悪くなかったと同窓生達から安芸観光の感想をいただきながらの帰路となりました。



高知駅前に建つ幕末の志士たちの巨像の前で、東部遠足の記念写真を撮った後、
森木君と合流して、喫茶店で12日の同窓会集合写真の名前チェックをし、県庁前の古田写真館へ訂正写真を届けて、
この日のスケジュールがすべて終了しました。

5時にオリエントホテルにチェックインし、一休みすると、外へ出るのも面倒になり、
あり合わせの菓子類を夕食代わりにするという冴えない夜となってしまいましたが、
のんびりではありながらも、盛り沢山だった東部遠足の余韻だけで充分と思われた旅の3日目でした。



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