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2023・10・12
    東京~高知~須崎~津野~四国カルスト~梼原
羽田空港 東京湾

朝5時45分頃に自宅を出発、品川から京浜急行に乗って、7時前に羽田空港に到着しました。
今年の春からチェックインは1日前からWEBで済ませるシステムになっていましたが、
手荷物検査には長い列が出来ていましたし、高知行きの搭乗口は遠目ですから、
1時間の余裕が程よい出発前の待ち時間となりました。

富士山 ズーム富士山

30分近く遅れて離陸したB737‐800機(166人乗り)は、雲が多かったせいか海上を飛行し、
富士山は遠望となりましたが、山容が見られると旅に幸先の良さを感じます。

高知上空 高知龍馬空港

山深さが実感される高知上空から、みるみる高度を下げて行った機体は、
整列した空港スタッフが出迎える高知龍馬空港に20分程遅れて、9時45分に着陸しました。


                  梼原町役場サイトより地図借用

高知龍馬空港からJR高知駅へ行き、土讃線で須崎駅に到着後、
観光タクシーで津野、四国カルストを周り、梼原で宿泊というのがこの日の予定でした。


高知駅 啄木の父 石川一禎終焉の地

空港バスで30分程で高知駅に到着、駅広場の一角に啄木父子の歌碑があることに初めて気づきました。
「石をもて追はるるごとく」渋民村を去った啄木一家は一家離散の悲しみを味わい、
父一禎は身を寄せた啄木の姉トラの夫の山本千三郎が鉄道官吏であったため、
その転勤に伴い各地を転々とした後、千三郎が出張所長を命ぜられた高知で晩年を過ごし、
高知駅近くの所長官舎で1927年2月20日に76歳の生涯を閉じたそうです。
-石碑の歌-
よく怒る 人にてありし わが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ  啄木(啄木直筆からの集字)
寒けれと 衣かるへき方もなし かゝり小舟に 旅ねせし夜は  一禎(一禎自筆)

高知駅構内の売店で駅弁を購入してから、JR普通列車11時7分発の須崎行きに乗り込みました。
ワンマン1両編成の普通列車は中間試験の時期か学生達で混みあっていましたが、
座席に坐れたのを幸い、早めの昼食としました。

    

佐川駅 須崎駅

NHK朝ドラ「らんまん」で有名になった牧野富太郎生誕地の佐川駅を通って、12時15分に須崎駅に到着、
予約していた「しんじょうハイヤー」の運転手さん達が改札口で出迎えて下さいました。
梼原出身、須崎在住のタクシー運転手Kさんの案内は、南海トラフ危惧で須崎の地価が激下落したこと、
2012年に絶滅種指定を受けたニホンカワウソの目撃情報から始まりました。

須崎市の新庄川で最後に目撃されたニホンカワウソと市名物の鍋焼きラーメンをモチーフにしたしんじょう君は
ゆるキャラ・グランプリ受賞歴を持ち、カワウソ友達を捜すために今も日本全国の旅をしているそうです。
新庄川沿いに国道197号線を走り、国道439号線に入って間もなく、吉村虎太郎邸がありました。

  
東津野の町並みを見下ろす吉村虎太郎像 虎太郎生家の表門 (県史跡文化財)
虎太郎生家 (復元)

1837年に芳生野村(現・津野町芳生野)に生れた吉村虎太郎は、
12歳で父の庄屋職を継ぎ、庄屋の地位向上に向けて庄屋同盟を組織し、訴状を藩に提出するなど活発に活動、
脱藩後には長州、京を流転しつつ、1863年に天誅組を結成し、総裁として討幕運動を続けましたが、
挙兵した吉野の鷲家口(わしかぐち)で敗死し、27歳の短い命を閉じました。
明治維新のさきがけとなった虎太郎は坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎とともに土佐の4傑とされています。

地域のガイダンス施設として2015年6月に復元された吉村虎太郎生家は、
虎太郎の姉の嫁ぎ先の古民家の資材を再利用したり、茅葺き屋根などに江戸期の建築手法を取り入れて、
庄屋屋敷の趣きを再現していました。
古文書や展示パネルで虎太郎の生涯や業績、四万十川流域の観光情報を発信している邸内で、
コーヒーでひと休みしながら、観光スポットのビデオ映像を見ました。


長沢の滝

四国カルストへ向かう途中にハート型の流れ落ちる穴を売りとする長沢の滝がありました。
苔むした石橋を渡った先に落差34mの見事な滝があり、
紅葉の季節にはいっそう美しくなるという景観も目に浮かぶようでした。

 
シロヨメナ                   シラネセンキュウ


          四国カルストMAP じゃらんnet地図借用

 
天狗高原駐車場の眺望 星ふるヴィレッジTENGU

長沢の滝を出て、3年半前にコロナ禍でやむなく予定をキャンセルした四国カルストへ向かいました。
四国カルストは高知県と愛媛県の県境に位置し、東端の天狗高原から姫鶴平を抜け、西端の大野ヶ原まで続く
東西25km、南北2km、標高1000~1485mのカルスト台地で、
山口県の秋吉台、福岡県の平尾台と共に日本三大カルストのひとつとされています。
四国カルスト最高峰の天狗高原駐車場から眺望を楽しんだ後、
カルスト台地の美しい景観を誇る「天空の道」と呼ばれるドライブコースへ入っていきました。
星ふるヴィレッジTENGUは、2021年に天狗荘をリニューアルした宿泊施設です。

  

天空の道を走り始めて先ず目に入ったのは石灰岩が点在するカレンフェルトと呼ぶカルスト特有の景観で、
晴れ渡った秋空、草原の緑、岩肌の白という素晴らしいコンビネーションに出会えました。


このススキ草原は「らんまん」のオープニングで主人公の万太郎が空中を飛ぶシーンが撮影された所で、
しんじょうハイヤーのKさんは撮影スポット毎に車を止めて下さり、
花写真を撮る私を待ちながら、時に花の名前を聞き、スマホで一緒に花撮影もしていました。


   
アキノキリンソウ                 ニセツクシアザミ                   リンドウ

放牧中の牛 天空の道(国道383号線)

放牧している牛は高知県側は1960年代に黒牛から赤牛に変わったと聞きましたが、
五段高原で草を食む牛は黒牛と見受けられました。
この一帯は冬は雪に埋もれるそうで、4月下旬から10月が牛の放牧期間になっています。

五段高原 梼原町が設置した大風車

急な山道の途中に5カ所の窪地(ドリーネ)が階段状に並んでいたことから五段高原と名付けられたエリアは、
四国山脈の稜線を一望する標高1456mのビュースポットで、
どこまでも広い天空の下で、ゆっくり、のびのびと心身が解放されていくようでした。
 

石鎚山を遠望 姫鶴平(めづるだいら)

四国カルストの中央に位置する姫鶴平は愛媛県久万高原に属し、愛媛側からのアクセスが良さそうで、
キャンプ施設もあり、高知県側よりリゾート地化されている様子が窺えました。



姫鶴平を抜けて、土佐と伊予との境目番所のひとつ「唐岩番所跡」の標識などを見ながら、
ブナを中心とした原生林の山道を下って行きました。

  
ジンジソウ                  アキチョウジ                    マムシグサ

一瞬、今頃ユキノシタの花?と見間違えたジンジソウの大群落やシロヨメナ、ツリフネソウなど
秋の花が車道脇にひっそりと咲いていました。

 

大野ヶ原の人気スポットという「ポニー牧場」併設のカフェ「もみの木」で一服しました。



搾りたて牛乳メイドのアイスクリームをいただきながら、店主こだわりのコレクション(商品?)を眺めたり、
開業40数年という店主と(来年古稀?)年齢の多さ自慢を?し合いっこする一コマもありました。

韮ケ峠(にらがとうげ)

4時過ぎに「もみの木」を出発、坂本龍馬脱藩の時の越境の地点「韮ケ峠」に立ち寄りました。
1862年3月に坂本龍馬は澤村惣之丞と共に高知を出奔、梼原に宿泊した後、宮野々番所、松ヶ峠番所を抜け、
この予土県境の韮ケ峠を越えて、伊予(愛媛)へ脱藩したと伝えられます。


茶堂

土佐藩政時代から地区民が茶菓で行路の人々を接待した茶堂は明治末には53棟ありましたが、
昭和半ばに18棟になり、現在は梼原町内に13棟が保存されています。
木造平屋、茅葺屋根、板敷、背面のみ壁になっている2間(3.6m)×一間半(2・72m)ほどの小屋には
弘法大師、地蔵、観音、薬師などの像が置かれ、信仰と社交の場として利用されていたそうです。

神在居(かんざいこ) 風早(かざはや)トンネル

梼原で見たかった茶堂に出会った後、もう一つ、見逃せないのが司馬遼太郎(「街道をゆく 檮原街道」)が、
「万里の長城も人類の遺産だけど、檮原に随処にあるという千枚田も大遺産」と称賛した
風早トンネル上方の風早峠周辺に広がる神在居の千枚田(棚田)でした。
1972年の調査で501枚確認された水田は、国道用地や造林のために数を減らし、
1991年には218枚になったそうですが、梼原町では1992年から「千枚田オーナー制度」を取り入れ、
100㎡あたり年間40010円(四万十川に因む四万十円)でオーナーを募ったり、
1995年に「第一回全国棚田(千枚田)サミット」を開催するなど、町を上げて保全取組みが続けられています。
沈む夕日に輝く棚田に出会えたことは今回の旅の幸運のひとつになりました。


梼原の町の中心へ向かう国道197号線沿いの太郎川公園に茶堂と復元した水車小屋がありました。
太郎川公園は都市住民との交流、3世代交流の場として、1986年に整備された公園で、
1994年には隈研吾設計による「雲の上のホテル・レストラン」が建てられ、町のシンボルとなっていましたが、
雨漏りなど老朽化が進んだため、2020年12月に町が建て替えを発表、
(小学校同窓生達と予約していた2020年4月の宿泊はコロナ・キャンセルでした。)
予定されていた2024年のリニューアルオープンは資材高騰などの影響を受けて計画見直しとなり、
再開業は2027年まで延期されたようで、ホテル跡地は更地のままとなっていました。


雲の上のギャラリー

雲の上のホテルと隣接した温泉をつなぐ渡り廊下としても活用された2010年オープンの雲の上のギャラリーは、
現在は内部見学が再開されているようですが、5時を過ぎて、時間外でしたので外観だけ見学しました。
日本の伝統的な木材表現である斗栱(ときょう)をモチーフとして、梼原産の杉を使い、
刎木(はねぎ)を重ねながら橋げたを載せた「刎橋」は周りの自然と調和し、梼原のシンボルの一つとなっています。


5時20分頃、雲の上のホテル別館マルシェ・ユスハラに到着し、Kさん案内の5時間観光が終わりました。
レンタカーなどではとても周り切れなかったコースをクリアし、タクシー利用は大成功と思われました。

特産物販売とホテルを融合したまちの駅「マルシェ・ユスハラ」は町の顔として2010年に建てられたもので、
シンプルな客室のしつらえも好ましく、一晩だけの滞在でしたが快適に過ごすことが出来ました。


     

地図上では草臥れた旅人には遠すぎると思われた焼き肉店が2~3分の徒歩圏であることが分かり、
電話で予約を取り、6時半に「美味美味(おいおい)亭」へ行きました。
梼原名物のキジ肉や赤牛の焼肉を賞味、石焼ビビンバでしめた夕食は文句なしの美味しさでした。

雲の上のホテル別館マルシェ・ユスハラ 電線のない町並み

8時前にホテルへ戻り、充実した長い一日の満足感に包まれながら早寝を決め込みましたが、
移動距離の割には6687歩という歩数の少ない旅初日でした。




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