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2023・10・13
梼原~須崎~高知

まちの駅「マルシェ・ユスハラ」
客室からの眺め マルシェ内部

マルシェ・ユスハラは町の文化遺産である茶堂の茅葺屋根から着想を得た隈研吾設計の建物で、
東正面ファサードのブロック状の茅は軸に沿って回転し、換気や断熱の切り替えが出来、
人目を引くユニークさと共に実用性を兼ね備えて、町の顔のひとつとなっています。

窓枠が茅で覆われた客室から見えた町の建物に色の統一を感じましたが、
この時はこれらが隈研吾設計の雲の上の図書館などであることにはまだ気付いていませんでした。
マルシェ内部は杉丸太の柱が林立し、森をイメージした空間となっています。


マルシェの朝食

8時からマルシェのレストランで予約していた朝食をいただいた後、お土産の買物をして、
9時過ぎに梼原の町歩きに出発しました。




町歩きは三嶋神社~雲の上の図書館~岡之城跡~町役場周辺~維新の門~かざぐるま(昼食)から
マルシェ・ユスハラへ戻るというのがおおよそのコースでした。

梼原町は913年(延喜13年)に津野経高がこの地に入り、開拓によって津野荘を築いて津野氏の所領とし、
地域の政治、文化の中心として発展した愛媛との県境にある小さな町で、
森林が91%を占め、標高220~1455mの高低差があるため、山間の産業によって暮らしが支えられて来ました。
昭和30年代には1万人を超えた人口は現在は3300人ほどに減少しているようです。


イスノキ

梼の木(ユスノキ)が多いこの地を開祖の津野経高が梼原(ユスハラ)と名付けたことが町名の由来とされています。
ユスノキがなまってイスノキ(標準和名)となったようですが、
マンサク科常緑樹のイスノキはアブラムシ類に好まれて、様々な虫こぶ(ゴール)を形成し、
その虫こぶを子供達が笛として遊んでいたことから、ヒョンノキ(笛の音)という別名も持っています。

梼原川右岸からみた町並み 坂本龍馬脱藩の道
    
タカネハンショウヅル                 ヒヨドリバナ                   フユイチゴ 

マルシェ・ユスハラを出て梼原橋を渡り、秋の草花や「坂本龍馬脱藩の道」という標識を見ながら
梼原川右岸の山沿いの道を北へ向かい、三嶋神社へ行きました。

三嶋神社

三嶋神社は津野経高が伊豆より三島大明神を勧請して919年に創建、
939年の藤原純友の乱の折、伊予の河野氏に協力して純友征伐に向かった時に伊予三島大明神に詣で、
純友の乱を平定して帰国後に伊予三島大明神も同社に祀ったと伝えられています。
大山祇命(おおやまつみのみこと)、雷神(いかづちのかみ)、高神(たかおかみのかみ)を祭神とし、
1803年に本殿を改築、1868年3月に三島大明神を三嶋神社と改称、
1890年に拝殿を改築し、明治40年代に梼原地区無格社21社を合祀しています。


長州大工・中本喜助作による唐破風彫刻

神馬舎 土俵
鳥居とハリモミ 神幸橋(みゆきばし)

境内には津野経高を祀る津野神社や木造の神馬を収めた神馬舎や土俵があり、
津野家23代領主親忠と中平左京亮光義が長宗我部軍として文禄の役(1592年)で朝鮮に出征した時に、
苗を持ち帰って植栽したと伝えられるハリモミ(通称:朝鮮松)の巨木も見どころとされていました。
千年以上の歴史を持つ神社への配慮という屋根付き木造の神幸橋は趣きある静かな佇まいを見せていました。


国道44号線側の三嶋神社 猿田彦像

国道44号線側から神幸橋を渡るのが表参道であることに後で気付きましたが、
ともあれ、三嶋神社参拝を済ませて国道へ出ると、猿田彦(さるだひこ)のモニュメントがありました。

五穀豊穣、無病息災を祈願して今も舞継がれる津野山神楽は1980年に国の重要無形民俗文化財の指定を受け、
一千年余りの歴史を持つ津野山文化の代表的な存在とされています。
その神楽の主役の一人が天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)降臨の先導を務めた猿田彦です。


マルシェ・ユスハラを遠望 YURURIゆすはら
YURURIゆすはら 雲の上の図書館

三嶋神社を出てまもなく国道440号線を左折、龍馬脱藩の道を少し上り、YURURIゆすはらへ入っていきました。
YURURIゆすはらは「住み慣れた地域で安心して暮らし続けたい」という思いを実現するため、
在宅生活を支援しながら在宅と特別養護老人ホームの中間的な役割を果たすと共に、
健康づくりや介護予防の機能を持たせた住民のための複合施設で、
外観が統一された雲の上の図書館と共に2018年に隈研吾設計によって建てられたものです。



雲の上の図書館


図書館キャラクター「くもっぴー」

 

「人と自然が共生し輝く梼原構想」の中核施設として、千百年余の文化を保存・継承し、
情報の発信基地となることを目指した雲の上の図書館は、
「棚田のような段々の空間で大地と建築をつなぎとめ、小さな空間を散りばめることで、
リビングのような心地よい読書空間を目指した」という設計コンセプトを持ち、
「梼原の木のぬくもりを肌で感じに来てみてください」というのが隈研吾氏のメッセージでした。
四叉菱格子(よんさひしごうし)と呼ぶ天井から下がる木組みは、
一本一本に荷重を分散することによって高い耐震性を持たせると共に梼原の森を表現しているそうです。
情報交換コーナー、ボルダリングコーナー、カフェコーナー、コミュニケーションラウンジなど
様々な機能を持たせた図書館から、新しい梼原文化が育っていくといいですね!



図書館を出て、昨夜入った焼き肉店「美味美味亭」(精肉店併設のお店だった様子)の前を通って、
岡之城跡の山裾に建つ掛橋和泉邸へ行きました。


  
掛橋和泉邸

梼原の六志士の一人、掛橋和泉の家屋は1998年に吉村虎太郎の庄屋跡地へ移築したもので、
幕末期の建築として梼原町文化財の指定を受けています。
志士達と時局を談じたと言われる囲炉裏端に酒徳利が置かれている所がいかにも土佐!でした。


ゆすはら座

掛橋和泉邸から坂を下った所、梼原町総合庁舎のほど近くにゆすはら座がありました。
昭和23年に梼原町の町組によって建設された梼原公民館(現在のゆすはら座)は、
高知県下唯一の木造芝居小屋として保存運動が起き、それに関わっていた県在住の建築家の小谷匡宏氏が
1987年に隈研吾氏を梼原町へ招いたことが「木を大事にして生きる」という隈氏の建築哲学となり、
新国立競技場の設計へとつながったと言われています。
現在のゆすはら座の建物は北町から東町へ1995年に移転復元されたもので、
和洋折衷様式のモダンな外形、花道のある舞台、2階の桟敷席、天井の木目の美しさなどを特徴とし、
住民の娯楽の殿堂として親しまれて来た往時の様子を彷彿させるものでした。

旧梼原村役場庁舎 梼原町立歴史民俗資料館

ゆすはら座に並んで、旧梼原村役場庁舎と梼原町立歴史民俗資料館がありました。
1891年建築の梼原村役場庁舎は1935年まで村役場として使用された後、
考山塾青年学校、梼原農林学校、梼原高校の一部として使用され、1964年から民俗資料館として開館、
1978年に現在地へ移転した後、歴史民俗資料館別館として様々な民具を展示しています。
隣の歴史民俗資料館は2013年に「梼原千百年物語り」としてリニューアルオープンし、
縄文時代以来の各時代の発掘品や歴史資料を展示、梼原町の千百年を紹介する資料館となっていました。

「隈研吾の小さな部屋」

民俗資料館の一画に隈研吾の建築を紹介する小さな部屋がありました。
総合庁舎やマルシェ・ユスハラの環境に配慮した理念、平面図、仕組みなどがパネル展示され、
雲の上の図書館の木組みが図解され、模型も置かれていました。

  
 

1階の展示室では津野経高が津野荘を築いた平安時代、長宗我部氏が土佐を制覇した戦国時代、
山内家支配の藩政時代、志士を輩出した幕末時代、明治維新を経て、
1889年には梼原、音面、四万川、初瀬、中平、松原の6村を西津野村として全国屈指の大村として発足、
1912年には梼原村に村名を改称、1966年に町制を施行して梼原町になった長い歴史や、
さらに未来へと向けて進んでいく町のメッセージが様々な展示品で紹介されていました。


2階には様々なくらし道具や産業用具、民俗芸能の道具など、町の人々の生活を伝える展示品が並んでいました。
「歴史の上では、檮原はとても僻地とはいえない。むしろ、室町初期までは土佐を代表していたのではないかと思える。」
という司馬遼太郎の言葉を実感しながら、館内を一巡した後、歴史民俗資料館を後にしました。



梼原町総合庁舎

歴史民俗資料館の筋向いに、防災の拠点、住民の利便性、環境と梼原産材の利用を最優先させて、
2006年に建てられた隈研吾設計の梼原町総合庁舎があり、
町の歴史と風土の資材を融合させた確かな存在感と山景色がよいバランスを見せていました。
一階ホールには茶堂が設えられ、旅人を出迎えているそうですが、
外観を見ただけで素通りしてしまい、内部見学をパスしてしまったのは残念です。



維新の門

左:吉村虎太郎 中平龍之助 那須信吾 前田繁馬 中央:掛橋和泉 右:澤村惣之丞 坂本龍馬 那須俊平


梼原川高台の和田城址に梼原町ゆかりの六志士に坂本龍馬、澤村惣之丞を併せた群像「維新の門」があり、
封建社会から近代社会への黎明を告げた明治維新の志士達の功績を讃えていました。
志士たちを輩出した郷土を誇りとする青年達の情熱と町の発展を願う有志による寄付金は1億円を超え、
浜田浩造氏によって制作された群像は1995年11月に除幕されたそうです。


めん処・かざぐるま

 
山菜そば                     かき揚げ天そば

2時間半近く町歩きをした後、11時半の開店と同時に「かざぐるま」に入り、昼食タイムとしました。
山里に相応しい素朴な見かけ、味わいの蕎麦が歩き疲れを癒してくれるようでした。

12時10分頃お店を出て、バスに乗る前にお茶で一服する時間を入れたいと思いましたが、
適当なお店を捜せないまま、マルシェ・ユスハラまで帰り着いてしまいました。
マルシェ内のレストランは朝食タイム以外は閉じていると言われ、仕方なく、マルシェでアイスクリンを買い、
道路脇の茶堂(もどき?)にすわって、懐かしいアイスの味を楽しみながら町の地図を見て、
梼原が1kmほどの小さな山間の町であったことを実感し、見どころもほぼ周ったことを確認して、
図書館で残り時間を過ごすことにしました。

マルシェ・ユスハラ脇のバス停から1時57分の須崎行きバスに乗車、3時9分に須崎駅に到着し、
3時13分発の土讃線に乗車というきわどいタイミングでしたが、
バスが2分遅れて3時11分に到着したにも関わらず、JR須崎駅では私達を待って下さった上、
駅員さんが専用通路を使って私のキャリーバッグをホーム越しに運んで下さり、
陸橋階段の上り下りを手助けしていただきました。
実は各駅列車に間に合わない場合は4時15分の特急あしずり号で5時に高知着と決めていましたが、
4時40分頃に高知駅に到着することが出来、タクシーで帯屋町のリッチモンドホテルまで行き、
5時前にはチェックインすることが出来ました。
(つまりは各駅車内か須崎駅のどちらで時間を過ごすかの選択肢に過ぎなかった訳ですが・・・。)
それにしても1日7本の梼原~須崎路線バスの乗客は3人だけで、
途中、地元の方が3人ほど数停留所乗車という状況に地方くらしの実態を垣間見たひと時でした。


リッチモンドホテル (ホテルHP写真転載)

ホテルで一休止後、6時から小学校同窓会という私にしてはアクロバティックとも言える一日でしたが、
ホテルから徒歩2~3分の同窓会の会場へ6時前に無事に到着することが出来ました。


第4小学校同窓会 於:土佐っ子


1990年代から折々開催されて来た第4小学校同窓会も、
喜寿を迎える今回を最後にしたいという高知在住の幹事さん達のお話でしたが、
まだ続けたいという意見もありつつ、2時間の会食が和やかに進行していきました。
この日の出席者19名中、11名が「紙ふうせん」での2次会へ流れた同窓会は、
私は11時に終わりましたが、もっと夜更けまで延長されたという後日談も届きました。

今回の高知旅の最もハードな一日を無事にクリアすることができて安堵の一語でしたが、
梼原滞在と同窓会の一日がいつまでも心に残る思い出となるのは間違いないと思われました。

                 *3日目歩数(スマホ計測):12194歩



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