ホーム][目次][3日目


                   2017・9・28 (木)                   
太宰府~嬉野
  

ホテルサンルート博多の朝食はビュッフェ・スタイルで、和食処に用意されていました。
約束の7時頃に3夫婦全員が揃い、それぞれの好みで様々なお皿が並べられた朝でした。

旅の2日目は吉川さんのお知り合いの姉上が太宰府天満宮の宮司家へ嫁いでいらっしゃるというご縁で、
天満宮をご案内いただくことになっていましたので、8時15分にホテルをチェックアウトして、
先ず太宰府を目指しました。



約束の9時に天満宮に到着、ご案内を受けた社務所の一室でお顔合わせをしたのが、
(この時はまだ全く状況がのみ込めていなかったのですが・・・)
京から菅原道真に追従し、菅公没後に祠庿(しびょう)を創建された味酒(うまさけ)安行から43代目にあたる、
天満宮の禰宜職を務めておられる味酒安則氏でした。
思いがけずも、そのような方からご案内いただくという稀有な幸運に恵まれた天満宮参拝となりました。

天神の森は樹齢1500年ともいわれる国指定天然記念物も含まれるクスノキの大木に包まれていましたが、
この地域が自生地の北限というクスノキは、縄文時代は丸木舟、平安時代以降は仏像や火縄銃の銃身、
明治時代にはナフタリンの材料とされたというお話に長い歴史が感じられました。


手水舎

絵馬堂

宝満山から運ばれた巨大な御影石の一枚岩で造られた手水舎は昭和9年に奉納されたもので、
文化10年(1813)に建立された絵馬堂は九州に現存する絵馬堂としては最大最古で、
絵馬殿でなく、「堂」と呼ぶ所に仏教文化の名残を見せていると言われています。

    

道真公が承和12年(845)の丑年に生誕し、没した時には柩車を曳いた牛が臥して動かなくなったことに因んで、
この地に葬られたことに始まる天満宮には牛像が多く奉納され、御神牛として信仰を受けていました。
真中の鷽(うそ)石像は1年中の嘘を天神様の誠心と取り替えていただくという1月7日に行われる鷽替神事に因む守り鳥像、
聖人が現れて王道が行われる時に出現するという中国の瑞獣(ずいじゅう)思想上の動物である右側の麒麟青銅像は、
菅公の聖徳を讃えるために嘉永5年(1852)に奉納された後、
廃仏毀釈、キリンビール設立に関わったグラバーの所望、昭和18年の金属供出(当日の夜に返却)という
3度の危機を乗り越えて、県文化財の指定を受けています。


太宰府天満宮楼門

延喜3年(903)2月に菅公が没した後、味酒安行によって、5年に御廟殿、10年に安楽寺(神仏混交時代の天満宮古称)、
15年に御墓寺が建立され、大宰府天満宮の基礎が築かれました。
大宰府政庁の官人たちの寄与を受け、短期間で発展した安楽寺は、鎌倉時代に蒙古襲来に備え、鎮西探題が博多へ移されて、
大宰府が政治・外交の中心から外れた頃から衰えを見せ始めますが、大内氏の保護を受けて安定をみた南北朝時代を経て、
天正6年(1578)に大友氏が島津氏に大敗した時に、敵方の武将から火をかけられて消失、
天正19年(1591)に本殿が再建されたそうです。

楼門も筑前の代官となった石田三成によって、慶長3年(1598)に再建されましたが、
明治37年(1904)に日露戦争の戦勝祈願に訪れた人々の提灯の火が移り、本殿以外は消失という災難に会い、
入り口から見ると二重屋根、本殿側から見ると一重屋根の山門形式という珍しい構造を持つ現在の楼門は、
大正3年(1914)になって再建されたものです。

    

5年の歳月をかけて小早川隆景によって再建された本殿は、檜皮葺、五間社流造、正面に唐破風を設けた切り妻造で、
大きな神社としては珍しく拝殿を持たない、国内最古の中国式廟建築です。
両側に坐する国内産大理石で造られた狛犬は、嘉永年間に造られたもので、目には玉(ギョク)が嵌め込まれています。



    

本殿ではご祈祷までご用意いただいており、杉の葉の上で手を浄めた後、神殿に昇らせていただき、
お祓いを受けた後、神前に玉串を捧げ、お神酒をいただいて、何とも有り難い参拝となりました。
(祝詞を上げている時でなければ、と許可を得て、写真を撮らせていただきました。)


   

  
檜皮の間に挟まった硬貨                         楼門の梅花の彫刻  

25年に1度葺き替えが行われる本殿の檜皮葺の屋根は、
古くなってくると、投げ込まれた硬貨が檜皮の間に挟まっているのが見られるようになるそうで、
随分と高く、遠くまで、お賽銭を投げ飛ばす人がいることに驚かされました。
楼門には天満宮ご神木の梅の彫刻に凝った彩色が施されているのが見られました。


  

本殿の欄間には鯉に乗って龍門の滝を登るという登龍門伝説に重ねた道真の姿が絵柄になっていましたが、
蓮の花は元は寺院であったこと、菊の花は道真の趣味であった菊作り、牡丹の花は霊廟であることを表しているそうです。
元々は欅(けやき)の白木で造られていた本殿は室町時代の再建で桃山様式となり、
檜(ひのき)の上に絢爛な彩色が施されましたが、
太宰府天満宮に遅れて45年後に極彩色の桃山様式で日光東照宮が造られた後、
徳川家光の禁令によって、神社建築は白木へ戻されたそうです。



本殿前にはお召列車で訪れた大正天皇妃がお手植えされた「皇后の梅」と、
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠った道真を慕って一夜のうちに飛来したと伝えられる
御神木「飛梅」が植えられていました。
境内には2~3月頃に開花する野生種を中心とした梅の木が6千本あるそうですが、
飛梅はそれらの梅に先駆けてお正月早々より咲き始め、その実は「梅御守」と呼ぶ特別なお守りとして奉製されるそうです。
檜皮葺屋根と同様に、飛梅も25年ごとに植え替えて、更新されています。


    

夢の中で芭蕉が菅公聖廟を参拝したと伝承される「梅が香にのっと日の出る山路かな」という句が彫られた
寛政元年(1789)年建立の境内最古の石碑、
日本書紀にも出てくる製菓道の守護神、田道間守(たじまもり)命を祀った「菓祖中島神社」九州分社の碑、
道真の学問の姿勢を端的に表現した安政5年(1858)建立の「和魂漢才」碑などを見ながら、
昭和3年に開館、平成4年に全面改築された約5万点を収蔵する宝物殿に入り、宝物の数々を拝観させていただきました。



宝物殿

      国宝「翰苑(かんえん)」 (複製)        板絵菅公像と五言絶句双幅 (複製)             天神縁起絵巻          
    
 菅公御佩刀「毛抜形太刀」                剣梅鉢紋金地磨出短刀            刀「筑前住源信國吉貞」 太刀「信国」
    
鶴亀紋懸鏡                     華瓶(けびょう)                       具足 


2時間にもわたる丁寧なご案内をいただいた後、皇太子時代の天皇皇后陛下の写真が飾られた社務所の一室で、
平氏と和合していたために源平争乱後に経験した挫折の教訓から、
政局が分かれた時は宮司家と禰宜家を2分して天満宮を守って来た歴史や、年間1千万人が訪れる昨今の話などを、
天満宮特製の焼き立ての梅ケ枝餅をいただきながら、お伺いしました。


  

御神酒(梅酒)、梅昆布茶、ゆかりなどのお土産(撤下品)までいただいて、天満宮を辞去したのは11時半近くでした。
写真下段の木製の鷽の中には、おみくじが入っています。



天満宮を出て、天満宮の土地約14万㎡の寄付を受けて、平成17年(2005)に開館した九州国立博物館へ向かうと、
天満宮アクセストンネルと呼ばれる長いエスカレーター、歩く歩道を乗り継いだ先に、
目を疑うほど巨大な博物館の建物が現れました。
東京、奈良、京都に次いで、国内4番目の国立博物館として生まれた九州国立博物館は、
古来、アジアとの重要な窓口となってきた文化交流を背景に、「文化交流室」とよぶ展示室に「海の道、アジアの道」をテーマとして、
旧石器時代から近世まで時代を追った展示が行われていました。(写真撮影は禁止)
常設展と今回の旅で立ち寄る予定の国東半島に関連した特別展「六郷満山展~神と仏の鬼の郷~」を、
入場料無料のシニア恩恵を受けて展覧し、日本の歴史を九州から俯瞰するひと時を過ごしました。


   

博物館併設のホテルニューオータニが運営するレストラン「グリーンハウス」でパスタ・ランチを取った後、
元来た道を天満宮まで戻りました。



東南アジアの観光客で賑わう心字池にかかる太鼓橋を渡ると、海の神の綿津見3神を奉祀する志賀社がありました。
長禄2年(1459)の建立と伝わる志賀社は工芸的な精巧な造りが評価されて、国の重要文化財の指定を受けています。


境内入り口の鳥居を抜けた所に、「西高辻」と宮司家の表札を付けた建物がありました。
ここは元は延寿王院と呼ばれた安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊で、
幕末には朝廷を追われた三条実美ら、尊王攘夷派の5人の公卿が滞在、西郷隆盛、高杉晋作など大勢の勤王の志士が出入りして、
明治維新の策源地となったそうです。

梅ケ枝餅店が軒を並べる表参道を通って2時過ぎに駐車場へ戻り、東へ15分ほど車を走らせて、
大宰府政庁が置かれた際に鬼門よけとして創建されたと伝えられる宝満山麓の竈門(かまど)神社へ行きました。

 

玉依姫尊を主祭神とする宝満宮竈門神社(下宮)は縁結びの神として有名で、
地元では16歳になると宝満山に友達と揃って登り、山頂付近の木に良縁祈願の短冊を結ぶ習慣があったそうです。
修験道の霊場でもあった山頂には宝満宮上宮(829.6m)があります。



竈門神社の桜のご神紋

    
五穀神社                       水鏡                         愛敬の石

竈門神社の境内には顔を映し、心を浄めてお祈りをすると願いがかなうという水鏡や
目を閉じてもう一方の石にたどり着けば恋が叶う愛敬の石など、様々な縁結びの仕掛けが見られました。



平成24年(2012)に建てられた現代建築の社務所・参集殿の一画にはモダンなお札・お守り授与所があり、
太宰府市街が一望できる展望舞台と呼ぶ休憩場所も用意されていました。



観世音寺


再び市街地へ戻り、7世紀中頃に九州で崩御した斉明天皇追悼のために、
天平18年(746)に天智天皇の発願によって創建されたと伝わる観世音寺へ立ち寄りました。




本殿前に菅公書の大乗経を埋めた河内国道明寺の経塚に生じた樹の実生と伝わる木槵樹(もくげんじゅ)が植えられていました。
栴檀葉の菩提樹という別名通りの葉を持つこの木にまつわる因縁は謡曲「道明寺」に詳しく、
この木の種子から作られた数珠で念仏を100万遍唱えると往生の本願疑いなしと伝えられています。



天平の石臼や五重塔の心礎なども残る広い境内には、日本最古と伝わる国宝の梵鐘もありました。
糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられ、京都妙心寺の兄弟といわれる梵鐘は、
古さや優秀さにおいて日本一と称えられ、菅公も詩に残しているそうです。



平安から鎌倉期の国指定重要文化財の木造仏像16体が収められているという観世音寺宝蔵は外観だけを見て、
徒歩で戒壇院へ向かいました。





出家者が僧尼となるための戒律を学ぶために奈良時代に設置された戒壇院は、
中央戒壇(奈良東大寺)、東戒壇(栃木下野薬師寺)と共に西戒壇と呼ばれ、三戒壇のひとつとされていましたが、
現在は禅寺として一般開放されています。


地蔵菩薩 元禄14年(1701)建立の梵鐘



天平勝宝5年(753)に12年間に6度目の決行でようやく宿願の渡日をはたした鑑真和上が九州で授戒を行った時に、
仏舎利と共に種を携えて来たという伝えが残る中国産の菩提樹が実をつけているのが見られました。


落ち着きある風情が往時をしのばせる戒壇院を後にして、3時40分頃に、この日の宿泊地の佐賀県嬉野へ向かいました。

太宰府滞在が7時間に及び、元寇防塁、吉野ケ里遺跡、九十九島・・・など漠然と候補にしていた所は断念せざるを得ませんでしたが、
天智2年(663)の白村江の戦をきっかけに水城や大野城が築かれ、大和朝廷直結の国防の最前線とされた大宰府政庁の地を訪れ、
政治的役割を終えた後も信仰や文化を担った太宰府の歴史に触れ、多くの知見が得られて、
充たされた一日を過ごすことができました。


    
 ヤマハギ                      ノコンギク                      ウバユリの実


「萬象閣 敷島」




5時少し前に到着した嬉野の宿「萬象閣 敷島」には、露天風呂付きの部屋とウェルカムデザート「敷島プリン」が用意されていて、
心地よく、一日の疲れが癒されていきました。



   
   
   
   

7時から始まった夕食も、凝った前菜、新鮮なお刺身、佐賀牛など、地元の食材を使った豊かなお膳が並び、
こだわりの「辛口日本酒40度ぬる燗」やワイン、ビールと共に、ゆっくりと堪能することが出来ました。

が、夕食を終えて、9時前に席を立った時、観世音寺の境内の草むらに足を踏み入れてウバユリの実の写真を撮った時に、
転んでしまったことを思い出す羽目となってしまいました・・・。
温泉で温め、ワインで血の巡りがよくなったせいか、転んだ時にひねった右足の甲が痛くて、歩けない・・・状態になっていて、
ロビーで翌日の行程を相談している時に、レセプションでいただいた湿布薬を貼りましたが、
明日の風任せ・・・と、翌日の歩行に不安を残して、早寝を決め込んだ夜となってしまいました。



目次][3日目