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 2017・9・29 (金) 
嬉野~諫早湾~雲仙~島原~熊本城~通潤橋~高千穂
   

3日目の朝起きると、驚いたことに、足の甲の痛みが不思議な程、すっかり消えていました。
湿布薬を貼った部分の外側、甲の側面から指先まで内出血が広がり、しばらくは腫れが残りましたが、歩くことには全く支障がなく、
今後、「フェイタス5.0」が旅の常備薬入りすることが確定したようです。

7時からの朝食の和食膳は「ほぐしやすい干し魚を探し、試食してたどり着いたのが、この大きさでした。
大きすぎてご迷惑をお掛けしますが、どうぞご賞味ください。」と書かれた一夜干しのあじ開きの大きさに驚かされながら、
嬉野温泉湯豆腐、蓮根飛龍頭、地元産野菜料理を有明海苔や佐賀県産米「夢しずく」と共にいただきました。

8時15分に宿を出発し、 江戸時代に長崎街道の宿場町として栄え、日本三大美肌の湯とお茶の産地として有名な嬉野温泉の中心部、
国道沿いにある豊玉姫神社へ立ち寄りました。途中、シーボルトの湯という看板も見かけました。



豊玉姫神社の縁起には「天正年間(1573~92)に兵火によって焼失後、元和年間(1615~24)に社殿が再建され、
藩主鍋島直澄の祈願所とされて以来、歴代藩主をはじめ、地元住民の尊崇を集めています。
豊玉姫様は海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても有名であり、古来より水の神、海の神として広く崇敬を集めております。」とありました。


    

ここで最初に目についたのが一間社流造の本殿の廻縁に置かれた獅子狛犬でした。
私にとっては初見の気がしますが、これが拝殿や鳥居前に置かれている石の狛犬の原型かもしれないと思われました。


境内社 天満宮

なまず社

境内には天満宮や八坂神社などと共に、新しく建造された様子のなまず社がありました。
(道真公ゆかりの寝牛像の後方がなまず社)




「豊玉姫のお遣いは‘なまず’です。嬉野川を支配し、郷の守りについて、国に大難あるときには、六尺の大なまずが現れて、
神託を告げると語り継がれています」とされ、また古来より「肌の病」にご利益があるといわれ、
美肌の神様としても広く親しまれているそうです。
鎮座する白い磁器製の大なまずが、美肌祈願がこめられた水を一身に受け止めていました。

8時40分に嬉野を出て、長崎自動車道で諌早まで南下した後、島原からフェリーで熊本へ渡って、宿泊地の高千穂へ向かうという
昨夜決めたルートへ向かいました。



10時頃諌早に入って、一般道路を走っている途中で、「潮受堤防」の標識を見つけ、
にっちもさっちも立ち行かなくなっている様子の現場を見ていくことに話がまとまりました。


        
Googleより借用                          水門 


調整池

諌早湾

江戸時代から行われていた諌早地方の干拓事業が、昭和27年(1952)の西岡県知事の「長崎大干拓構想」をきっかけとして、
農水省の「国営諫早湾干拓事業」となって、平成元年(1989)から着工されたことは記憶に新しいことですが、
その場所に立ってはじめて、事業規模や問題の難しさを実感することが出来ました。

平成9年(1997)4月に潮受堤防(全長7km)の水門が締め切られた後、平成19年(2007年)11月に完工式が行われ、
翌12月に堤防上に全長8.5kmの諌早湾干拓堤防道路、通称・雲仙多良シーラインが開通したというのが工事のあらましですが、
それによって農業、漁業双方へもたらされた難題は、国、開門派、開門阻止派の解決が見えない訴訟問題として残されています。

潮受堤防を10時20分ごろ出発し、1時間足らずで着いた島原市の中心では松平7万石の城下町としての島原ではなく、
「島原市を含む島原半島が、活火山と人が共生するまちとして世界ジオパークに認定された」と
朝になって読んだガイドブック情報で、ジオパークとしての島原見学を決めたのですが、情報不足だったため、
フェリーの時間などを確認に行った島原港ターミナルの観光案内所で教わって、雲仙岳災害記念館へ行くことにしました。



普賢岳(1359m)


普賢岳 平成溶岩(石英安山岩)


雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」

平成2年(1990)11月に始まり、平成8年(1996)に噴火終息宣言が出された雲仙岳平成噴火の被害と教訓を後世に伝えるために、
長崎県によって建設され、平成14年(2002)に開館、島原市長が理事長を務める国内唯一の火山体験ミュージアムが
雲仙岳災害記念館で、「がまだすドーム」の愛称は、島原方言の「がんばる=がまだす」に由来するそうです。


    

火砕流・土石流を疑似体験する直系14mのドーム型大スクリーン「平成大噴火シアター」(8分)や、
再現された風景、TVカメラなど実物被災品、噴火噴出物はぎ取り標本などが自然災害の脅威をまざまざと見せつけていました。


        
寛政4年(1792)「島原大変」焼山溶岩                 平成噴火溶岩            


展望塔からの普賢岳方面パノラマ 手前は眉山(818m)



    

ランチはがまだすドームのカフェ・レストラン「ケルンの森」で、島原手延そうめんや具雑煮などの地元食をいただきました。
右は「かんざらし」とよばれる白玉と特製蜜の島原スィーツです。

12時40分ごろ雲仙岳災害記念館を出て、島原半島ジオパークのジオサイトとされる平成噴火ドライブコースを走り、
大火砕流の被害を受けた校舎を火砕流遺構、砂防学習拠点として保存している旧大野木場小学校へ立ち寄りました。



旧大野木場小学校

大野木場監視所「さぼう未来館」

普賢岳の麓に位置する大野木場小学校は平成3年(1991)9月に発生した大火砕流に伴う強烈な火砕サージによって焼失、
二宮金次郎像の側に「昔日の希望を現実に連れ戻す みどりの故郷の学舎の跡」という碑が建てられ、
さぼう未来館には被災時の写真を展示してありました。



平成新山

粘り気の強い普賢岳の溶岩が下流へ流れず、普賢岳に積み重なるようにして出来た平成新山(1846m)は、
噴火後20年余りを経て、植物の回復が見られるようになったそうです。
火山灰が堆積して雨水が染み込みにくくなり、少量の雨でも土石流が発生したという水無川の被災地などを車窓に見ながら、
1時10分に島原港ターミナルに到着しました。



島原と熊本の間で運行されているカーフェリーは所要時間60分の九商フェリーと30分の熊本フェリーの2航路がありましたが、
私達は熊本フェリーの超高速船「オーシャンアロー」号に乗って、1時50分に島原を出港しました。



島原城

眉山

遠ざかる島原

熊本港

僅か30分ながら、旅にちょっとしたアクセントを与えてくれたクルージングを楽しんだ後、2時半に下船して、熊本城へ向かいました。


熊本城 宇土櫓と大小天守


飯田丸五階櫓

未申櫓

3時過ぎに到着した熊本城は、平成28年(2016)4月の熊本地方を震源地として起きた地震で受けた被害を生々しく伝え、
ほとんどが立ち入り禁止区域とされ、復興が始まったばかりの様子を遠望することしか出来ませんでした。
飯田丸五階櫓は下部石垣が大きく崩落、角石だけで櫓を支えていた繰り返し報道された映像が思い出される建造物です。


崩落した石垣

二の丸無料休憩所

桜の馬場 城彩苑

3時20分過ぎに熊本城を出発し、一路、この日の宿泊地、宮崎県の北端に位置する高千穂を目指しましたが、
昨年の地震に続き、今年7月には集中豪雨と災害が続いた九州では道路も復旧工事による迂回路が多く、
3年前のカーナビは機能せず、スマホ・ナビ併用のドライブとなりました。


杉、色づいた稲穂、彼岸花のコントラストが美しい車窓風景


4時40分頃、阿蘇外輪山の南側、五老ケ滝川の谷に嘉永7年(1854)に架けられた通水橋、通潤橋に到着しました。
長さ78m、幅6.3m、高さ20m、アーチ支間28mの石造単アーチ橋は、肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物として、
国の重要文化財の指定(2023・6・23に国宝指定)を受けていますが、熊本地震で亀裂が入り、保存修理中のようでした。
右の木造橋「二の丸橋」は岩尾城跡へ通じ、農閑期には放水を見せる通潤橋と共に観光資源とされているようです。



5時40分に高千穂の宿「ホテル四季見」に到着し、案内された離れの部屋で一息・・・となる筈でしたが、
「6時から夕食をすれば、高千穂神社の夜神楽へご案内ができます」というお話に一も二もなく全員が同意して、
そのまま夕食へ向かうことになりました。


  
かっぽ酒                          日向木挽唄

日本酒を入れた竹筒を焼いて温めた「かっぽ酒」で乾杯し、地元産の食材で、鄙の宿らしく整えられた夕食膳を賞味しました。
江戸時代にこの地を治めていた飫肥藩が植林を始めたことに由来する飫肥杉(おびすぎ)は、
油分が多く、水分を吸収しにくいことから、木造船の材料として重宝されたそうで、
番頭さんが素晴らしい喉で、古くから伝わる木挽唄を披露して下さいました。


    

  


高千穂神社 拝殿

神楽殿

7時半ごろ宿のマイクロバスで高千穂神社まで送っていただいて、次々と到着する他の宿の人達と共に神楽殿へ上がり、
宿で借りた小さな簡易椅子を据えて、8時からの開演を待ちました。



重要無形民俗文化財の指定を受けている高千穂の夜神楽(岩戸神楽)は、11月下旬から2月上旬にかけて29の集落で
一晩かけて33番の演目を演じるのが本来の神事ですが、
その神楽伝承者たち15組が交替して、1時間に短縮した神楽を高千穂神社の神楽殿で毎晩演じています。


    
手力雄(たぢからお)の舞                  鈿女(うずめ)の舞                戸取(ととり)の舞 
    
戸取(ととり)の舞                                御神体(ごしんたい)の舞    
                                      
天照大神が隠れた岩戸を探す手力雄命、所在がはっきりした天岩戸の前で天照大神を誘い出す舞をみせる鈿女、
岩戸を取り外して力強く舞う戸取、イザナギ、イザナミの二神による国生みという高天原神話を題材とした神楽4番を楽しく鑑賞しました。
観光用とはいえ、観客を取り込んでいく技に確かな伝承が感じられました。




9時20分頃、部屋へ戻ると、「今日一日お疲れ様でございました。ごゆっくりお過ごしくださいませ。」とメッセージを添えた
夜食の蒸パンが机の上に置かれていました。(これは翌日の車内おやつとしました。)

諌早に始まり、普賢岳、熊本と人工&自然災害の地を回った一日を神楽で締めくくりというのは、偶然に近いコースでしたが、
何かの巡り合わせという印象深さと共に、旅の一日が静かに暮れていきました。



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